シービーの脚は傷跡だらけだった。しかし、その脚が震えることは無い。
ごうごうと地鳴りのように歓声を上げて京都レース場が揺れる。
当然だ。彼女にとってレース場はちっぽけな存在に過ぎない。シービーが揺るがそうとしているものは、ウマ娘における歴史そのものなのだから。
彼女の脚ならば、どこへだって駆けてゆける。地の果てさえも、天であっても、それは変わらない。
俺が知らぬ間にシービーは良い顔をするようになった。雨も涙も、今の彼女には似合わない。
「どうしたの?アタシに惚れた?」
冷やかすようにシービーが言う。引き締まった腹筋が、息を吐くたびにうねるように動いた。
体重こそ増減はないが、その体は石膏のように硬く、絹のようにしなやかであった。太め残りといった様子はない。筋繊維一本一本が鋼のワイヤーのように強靭に骨に絡みついている。
彼女はよく表情が変わるウマ娘だ。こうして、姿まで変わってしまった。
より強く、たくましくなったことは良いことだ。しかし俺は変わってしまう前のこれまでの彼女が懐かしく、心寂しさを覚える。
「とっくの昔から、俺はお前に夢中だよ。」
「だよね、知ってた。」
照れ臭そうにシービーが頭を掻きながら笑う。俺とは違って、シャンプーの良い香りがした。
俺はあのときから、シービーの走りに惚れた。模擬レースのときではない。あの雨の日だ。
物足りなさは彼女がルールを守って走っていたからなのだろう。あれは全力ではなかった。それでも俺はその走りに心を惹かれた。
光るものは確かにあのとき見た。その輝きは二冠として誰もが知るところになった。
本格化をして流星が失われたことも当然のように思えてしまう。彼女の輝きの前では、どんな星でさえも嫉妬する。
俺はその輝きをもっと眺めていたかった。もっと近くに居たかった。だから色眼鏡をかけてしまった。勝てるようにと、先行策を押し付けた。それでは輝きが色あせて見えることも当然だ。
このレースの結果が、俺たちの命運を左右する。しかしそれをシービーは知らない。
俺の身勝手な願いは彼女を繋ぐ鎖となるだろう。レースは彼女たちだけの世界だ。そこに余計な重荷は持ち込めない。
だから俺はいつもと同じように声をかける。俺の演技も少しは上手くなったはずだから。
「シービー、菊花賞は厳しいレースとなる。わかってるな。」
「わかってるよ。心配症だなぁ。」
笑いながらシービーが言う。彼女の顔には晴れ渡った笑顔が一番似合う。
いつまでも、笑っていられればいい。俺はそれだけで幸せだ。
この期に及んでも、俺は彼女に夢を見る。その笑顔をいつまでも見ていたいと思ってしまう。
「ごめんね、心配かけて……。」
「いいさ、それよりも大事なことがある。」
寂しさを押し殺して、俺は彼女に語りかけた。
「自由に走れ。誰のためでもない。お前のためだけに、好きに走れ。」
「いつもと変わんないね。」
変わらぬままの笑顔でシービーが返事をする。
「ああ、いつも通りでいい。」
「ごめんね。でも、それだけはできないや。」
「じゃあね、トレーナーさん。」
シービーが地下馬道を光が差す方向へと駆けていく。
その光に溶け込むようにして、彼女の影は消えて行った。