「よろしいのですか。」
シービーの菊花賞が終わり、俺は理事長室でひとつの書類にサインした。
出向の同意書だ。
「はい。」
理事長室の机は大きく、書類を書くだけでは持て余す。その上にぽつんと置かれた冊子は、ただ事実を告げるのみでそこに感情はない。
トレーナーの異動など、歴史を動かした彼女に比べれば塵のように小さなものだ。
「そうですか。では、あちらでの貴方のご活躍をお祈りします。」
艶のある黒い髪とが揺れた。理事長の額には変わらず白髪がある。
理事長がこの座に就くまでいったいどれだけの苦労があったのだろうか。彼女の努力により、トゥインクルシリーズはこれから大きく変わろうとしている。それをひとりのトレーナーのわがままで潰すわけにはいかない。
「何か言いたげですね。ミスターシービーに伝言などあれば、伝えておきますよ。」
「ありませんよ。彼女からは、三行半を突きつけられましたから。」
「俺なんかいなくても良いと、言われました。」
「そうですか……。良いパートナーだと思っていたのですが、やはり彼女を御するのは難しいようですね。」
「全くです。」
理事長は咳払いをして、俺に向き直す。
「この書類は正式に受理致します。貴方はトゥインクルシリーズ、ひいてはURAの振興に大きな寄与をしていただきました。誠にありがとうございます。」
「いえ、あいつほどじゃないですよ。」
「今後、ミスターシービーはチーム『カノープス』の南坂とチーム『リギル』の東条が持ち回りで指導することに決まりました。貴方に近しい間柄であるトレーナーならば、連絡も取り易いでしょう。」
「お気遣い感謝致します。ですがミスターシービーは、僕には過ぎた存在です。南坂と東条で見てくれるのであれば、安心してあちらに行けます。」
「もう、行ってしまうのですね。」
「できるだけ早く、慣れておいたほうが良いですから。」
理事長の視線は俺が持ち込んだキャリーバッグに向けられる。それほど大きなものではない。寮で一人暮らしをする男ならば、これくらいの荷物で済む。
「あちらの学園から出迎えに来るように手配させておきました。三冠ウマ娘の誕生は、国内外からも注目を集めています。そのトレーナーが来るともなれば、歓迎されるはずです。」
三冠はあいつのものだ。俺はただ勝ちウマに乗っていただけに過ぎない。
天賦の才は既に華開いていた。追い込み、マクリという走法に活路を見出したのはシービー自身の力である。
シービーは頭がいい。それこそ、天才的とまで言えるレース運びをする。
「道案内はお願いしたいですね、あちらの地理には疎いので。」
「長旅、お気をつけてください。貴方は今やURAの至宝とも言えるトレーナーです。正直なところ、失うのは惜しい。」
「でも僕が行かなければ、URAの振興は見込めない、と……。」
「……そうなります。全ては私の力不足によるものです。先日、心にもない言葉を言ってしまったことを深くお詫び申し上げます。」
「謝罪には及びませんよ。担当ウマ娘からも見限られたトレーナーがこうして多くのウマ娘の幸福のために働けるんです。俺は幸せですよ。」
俺は笑顔を作る。ぎこちなくとも、そう見えるだけでいい。
「飛行機の時間もあるので、そろそろ失礼致します。」
理事長は深く礼をして俺を見送る。それを背に受けながら重い樫の扉を開けた。
「何も言わずに行くなんて、映画の主役にでもなったつもり?」
扉の先には、ひとりのウマ娘が立っていた。不満そうに腕を組みながら、壁にもたれかかっている。その腕には力が入っているようにも見えた。
「見送らせてよ。アタシのトレーナーが、世界に羽ばたいていくんだからさ。」