「一服してもいいか?」
キャリーバッグに付けられた滑車がガラガラと音を鳴らしながら回る。彼とともに海を渡るそれに私は少しだけ妬いていた。
このことを話せば彼は笑ってくれるだろうか。幼稚な嫉妬心を抑えるために、組んだ腕に力がこもる。
私の返事がないことを悟ると、彼は胸ポケットからタバコが入った箱を取り出し、一本口に咥えた。
カチッ、カチッと安物のガスライターが音を鳴らす。プラスチックでできたカラフルなライターは彼が持つ雰囲気には似合わない。何度かボタンを押しても、火が出る様子はない。
それをいいことに、私は咥えられたタバコを取り上げる。
「ダメだよ、歩きタバコはマナー違反。」
「そうだな……。」
タバコを吸う彼はどこか儚げで、少しだけ憂いを帯びた表情をする。その表情は綺麗で、銀幕を彩るスター達にも劣らないほどだ。
思えば私はアンニュイな表情をした彼に惹かれて声をかけたのだった。
それでも今は、そんな顔はして欲しくない。この別れは何も悲しいことではない。むしろ、祝うべきことなのだ。
これはきっと、彼にも、私にも幸せなことだ。彼は天才トレーナーとして名を馳せ、私は新しくできた夢を追って、また彼に会おう。
この夢だって、彼がくれたものだ。私は最後まで彼から貰ってばかりいる。
私ができるお返しは、見送ることくらいしかできない。結局菊花賞では泣いてしまった。このときくらいは湿っぽいのは避けたい。
泣いてしまえば、彼を引き止めることができるかもしれない。でも私は涙を武器にするような汚い女にはなりたくない。
今日は菊花賞の日と同じ、からっと晴れたいい天気だ。冬の日差しにしては暖かい。雲は北風に吹き飛ばされ、突き抜けるような青空が見える。
彼との間にはこの青空だけでいい。
たとえ曇ろうとも、天高く舞えばいい。ぬくもりは空を飛べるだけの翼となって私の手元にある。
「長旅になるね。」
「ああ。」
これから、私に冬が来る。太陽との距離が離れてしまう。その距離は果てしない。辛く厳しい季節になるだろう。
春は自ら歩いて来たりはしない。私が迎えに行くのだ。
「ごめんな、菊花賞の祝勝会出来なくて。ケーキだけでも買ってくか?」
彼がケーキ屋さんを指差す。もう、駅前までたどり着いてしまった。
時間の流れは時に変化するという。楽しい時間は早く過ぎ去って行き、辛く悲しい時間は遅々として進まない。彼には楽しい時間を過ごして欲しい。きっと私の時間は止まったかのように遅くなるけれど、待たせるわけにはいかない。
「それはまた今度でいいよ。でも、アタシがフランスに行ったら本場のフレジエ、イギリスに行ったら
「シービー、それって──。」
「待ってて、すぐに追いつくから。」
「すぐ行く、走って行くから。」
私はまた、女優として笑おう。悲しさも苦しさも、今だけは押し殺して笑顔をつくる。
綺麗に笑えただろうか。これで最後になる。彼に思い出してもらうなら、いつだって綺麗な私がいい。
「ああ、待ってる。」
彼の手が優しく私の頭を撫でる。しばらくして彼は改札の奥に消えて行った。
嬉しかった。それなのに、胸が締めつけられて溢れるものが止まらない。
だから私は歌いながらスキップをする。雨に歌えば、晴れやかな気分になる。でも今日だけは雨は降ってくれなかった。