「本当にこれで良かったの?」
眼鏡の位置を押し上げながらおハナさんが私に言う。
「アタシの心はもう、決まっていました。」
閑散とした病室には、冬の柔らかい黄色の日光が差し込む。空を見上げれば、雲ひとつない青空にひとすじの飛行機雲がかかっていた。
「美しい師弟愛ね。」
どこか物憂げな笑みを浮かべ、おハナさんがこちらを向いた。
「あの人が行かなければきっと、私がイギリスに行くことになっていたでしょう。あまりこういう言い方は好きじゃないけれど、貴女には感謝しているわ。」
「アタシはただ、彼を縛る存在になりたくなかっただけです。彼のおかげでここまで来れましたから、アタシは恩返しとして彼の背中を押しただけです。」
これは嘘だ。私は彼のそばに居たかった。
「貴女はずいぶんと大人なのね。それでも、ここまで走るのはやり過ぎよ。」
私の足は大きく腫れており、ところどころ紫色に変色している。菊花賞のウイニングライブは惨状という言葉がぴったりと似合うようなものになってしまった。
息は上がり、痛む足で踏むステップは周りと遅れ、歌うだけでも精一杯の状況だった。それでも私はステップを踏まずには居られなかった。
ステップは、幸せであろうとする意思のひとつだ。雨が降ろうとも、彼と別れることになろうとも、私はステップを踏み続ける。
彼だって同じだった。雨に濡れ、悲しい顔をしていても、彼は踊っていた。雨に歌えば、晴れやかな気分になると信じて踊るのだ。
雨が降れば、涙はその雨粒に溶け込んで見えなくなってしまう。口角さえ上げれば、それはもう陽気なダンスにしか見えない。
「有馬記念には出られないわね。そのことで貴方とトレーナーに対する批判も多いけれど、ここで走ればもう二度とステップを踏めなくなるわ。」
「はい……。」
「消炎剤を塗りましょうか。」
「いえ、自分でできます。」
「そうね。」
ひとことだけ呟き、おハナさんは病室のカーテンを開ける。
「彼を見送るのも、その足じゃ大変だったでしょう。」
「いえ、歩くぶんには支障は無いです。」
私たちの視線の先には青い空がある。飛行機雲は空に溶けはじめており、薄いもやとなって漂いながら消える。
「彼は、随分と遠い存在になってしまったわね。」
「はい。」
「これじゃあ、仕返しもできないわ。」
「全くです。」
「それでも私たちは、彼の歩んだ道を辿るしかない。そうよね、ミスターシービー。」
「はい。」
私が返事を返すとおハナさんは優しく笑った。
「それが聞けて安心したわ。容態を見て、来年の秋頃には復帰できるように南坂と練習メニューを調整しておくから。」
「ありがとうございます。」
「いいのよ、それが仕事なんだから。それに、貴方を待っているのはアイツだけではないわ。」
「どういうことですか…?」
私が尋ねると、おハナさんは困ったように笑った。
「ルドルフよ。あの子、貴女と闘える日を心待ちにしているわ。」