疲れた。
ダンスのトレーニング、歌のトレーニング、走りのトレーニング、彼女達をキッチリと管理する上でそれらの技能はトレーナーに不可欠だ。
そして、それらから得られたデータをまとめ、次に活かさなければ意味はない。
眼鏡を外し、髪をほどく。
部屋にはひとりだけ。表計算ソフトの無機質なマス目と睨めっこするのはもう飽きた。羽を伸ばしても誰も咎める者は居ない。
「はぁ……。」
上着を脱ぎ、シャツのボタンをひとつ、ふたつと外す。
そのとき、ドアが2回叩かれた。
慌てて上着を羽織る。眼鏡をかけて、髪を纏める。
うまく纏まらない。必ずどこかからはみ出す髪がある。櫛は手元にない。時間もない。ドアを一枚隔てて誰かが居る。こんな姿をアイツ以外に見せる訳にはいかない。
「おハナさん、居る?おかしいなー……。」
「居るわよ、入って来なさい。」
私の心配は杞憂に終わった。いつもと変わらないヘラヘラとしたイヤな顔が現れる。雨など降っていないのにヤツの髪は濡れていた。
「で、今日は何の用?貴方、水を被るのが大好きなようね。」
「良い男だから、水のほうから寄ってくるんだよ。」
呆れる。
確かにこいつの顔立ちだけは良い。彼の冗談を否定できないのが少し悔しい。
スクールの成績も私より良かった。良いのは顔立ちだけではなかった。とても悔しい。
それなのに、彼の考えていることは突拍子もないことばかりで理解ができない。いつも『リギル』が練習をしているコースの片隅で彼のチーム『ScoAH』はツイスターゲームをしていた。インラインスケートを履いて、校内を走り回っていることもあった。しっぽにつけたシュシュを取り合っていることもあった。
どうしてこんなヤツが、と私は何度も考えた。『ScoAH』も決して弱くはないチームだった。だがその理由は理解できなかった。そして、あれだけ楽しそうにしていた彼のチームが解散した理由も、私には理解できなかった。
「寒いでしょう。コーヒー、暖かいのがそこにあるわ。」
もう一度パソコンに向き合ってデータの整理をする。彼の顔と睨めっこするよりはマシだ。
「気が利くねぇ、ありがたくもらうとするか。」
彼はコーヒーを注いで、ソファーに寝転がり始めた。
「それで、びしょ濡れなのはどういうこと?」
「これ、コーヒー豆変えた?」
私の言葉を無視してコーヒーについて尋ねてくる。シービーと言い、こいつと言いどうして私の周りには言うことを聞かないやつがあつまるのだろうか。
「シービーと水風船で遊んでたんだ。いやーアイツは強くて困るよ。」
そんなことだろうと思った。それも彼なりのトレーニングなのだろう。
本来ならばそんな風に遊んでいられるほどの暇はない。ウマ娘の能力は『本格化』をもってピークに達する。そこから少しの上昇と下降を繰り返し、一定の期間それを維持した後、緩やかに下降していく。
不思議と彼はその能力の引き出しが上手い。私にはできないことを独自のトレーニングで平然とやってのける。
「ねぇ、おハナさん。それってゲーム?楽しい?」
こうして私の心を逆撫でにするのも上手い。
「またチームを組んだんでしょう?貴方のお気に入りのミスターシービー、あの子をどうする気?このままじゃ短距離は厳しいと思うけど。」
「俺は放任主義なんだよ。自由にのびのびとしているのが一番良い。」
そうした結果がチーム『ScoAH』の解散だったことをコイツは学んでいないのだろうか。
「それに、アイツはスプリンターじゃない。ミスターシービーは未来の三冠ウマ娘だ。」
呆れた男だ。夢見がちでバカな男だ。現実を見ているというところだけは私が勝っているかもしれない。
私には彼ほどの才能がない。だから徹底した分析によってウマ娘の能力を測っている。大きく開いた差を埋めるためには努力するしかないのだ。この身を削り、トレーナーとしてウマ娘をレースで勝利させる。その実績をもって、彼を超える。
既にマルゼンスキーが結果を残してくれた。だかそれもチーム『ScoAH』の解散によってできた偶発的な勝利でしかない。今度こそ私はシンボリルドルフと歩むことで、彼とミスターシービーを超えなければならない。
「そう、でも覚えておいて。差させはしない、先頭は譲らない。最後に勝つのはチーム『リギル』だから。」
「良いねえ、その決め台詞。そんな貴女にハイ、プレゼント。」
ヤツはヘラヘラと笑って、半紙を差し出して来た。イヤな顔だ。顔立ちが整っているだけに、腹が立つ。
半紙には毛筆で大きく『果たし状』と書かれている。
「シンボリルドルフをさ、借りられないかと思ってね。なんならおハナさんでもいいんだけど。」
「良いわ、ウチのルドルフは負けないから。」
「おーっ、乗り気だねえ。流石おハナさん。じゃあコースの脇で待ってるから。」
そう言ってヤツは私のトレーナー室から立ち去った。私はすぐにルドルフに電話をかける。
「ルドルフ、良いかしら。今からシービーと模擬レースよ。」
「唐突ですね、ですが分かりました。迅速果断、すぐに参ります。」
コースの脇にはミスターシービーとあの男が立っていた。
「ルナちゃん、今日は楽しもうね。」
「ああ、だがまさかこのような形で対決するとは思っていなかったよ。」
私の目の前の地面。芝ともダートとも言えない場所にはカラフルなビニールシートが敷かれていた。
「それでは!!チーム『リギル』とチーム『カマリ』の!!チーム対抗ツイスターゲームを開始する!!」
賽は投げられた。
物理的にも、賽は投げられた。赤色と6の目を指し示す。
果たし状を良く読まずに、賽を投げることを許可してしまったのは私だ。
「先手!ミスターシービーは赤の6!!」
私は思わず頭を抱えた。
「あれぇ〜?どうしたのおハナさん?」
彼はヘラヘラと笑っている。
嫌な顔だ。だがそれは以前の彼のような、屈託の無い笑みだった。