「ほら、火傷するなよ。」
レモネードを飲みながら街の中を歩く。靴は雪に濡れ、感覚が無くなるほどに冷え切っていた。
「寒くないか?どこか店に入ろうか?」
「いいよ、アイルランドの冬はもっと寒いんだ。これくらい慣れてる。」
ミスターが話すたびにシナモンとワインの甘い香りがする。白熱電球が作る柔らかな色が彼の笑顔を温かく照らす。彼のコートに染み付いた苦いタバコの匂いさえも消し去って、ここだけが春のように色鮮やかに感じられた。
「ミスター、おまえはどうしてこんなに優しくしてくれるんだ?オレはおまえを何回か無視したし、言っちゃいけない言葉をたくさん言った。バカとか、クソとかさ。」
「それはシェイプの言っていることが正しいからだよ。俺はクソトレーナーだ。」
「三冠獲っておいてクソトレーナーかよ。他のトレーナーが霞んじまうな。」
「そうだ。」
笑顔は消え、彼はまっすぐと私の目を見つめている。鼈甲のような黄色味を帯びた目は潤み、見たことがない輝きを放っていた。
この目でどんなウマ娘を見てきたのだろうか。私は彼のことを知らない。ただ日本の超高速馬場で三冠を取ったミスターシービーというウマ娘のトレーナーだったということ、そして喫煙者だったということが、私の知る全てだ。
彼はおそらく、ブリテンに来てから一度もタバコは吸っていない。ただそのかわりにいつも棒付きのキャンディーを咥えていた。
「『
前を歩く彼の足跡は大きい。私はその跡を踏みながら彼の言葉に耳を傾けた。
「俺はスクール時代は首席だったんだが、URAのトレーナー採用試験に何回か落ちてな、免許は持っていたが最初は教官だったんだ。そのときに出会ったのが『銀髪姫』だった。」
「どんなコだったの?」
「強い奴だったよ。菊花賞、こっちで言うセントレジャーも勝った。でも彼女は『銀髪姫』という異名を忌み嫌っていた。」
強いウマ娘であれば、その強さを称する異名がつけられることがある。それを嫌うとはどういうことなのだろうか。
「新しいチームができることになってな。だがチームのトレーナーは目が悪かった。俺はそのチームのサポートメンバーとして招集されたんだ。」
「チーム名は『ScoAH』名付けたのは俺だ。見えない才能を見つけられるようにって意味を込めてな。」
「良い意味だね。」
私がそう言うと彼は口角だけを上げて笑った。
「でも『銀髪姫』はチームを辞めた。全ては俺のせいだ。」
彼の笑顔は今にも崩れてしまいそうで、とても見ていられるものではなかった。
ただ『男の人でも、こんな顔をするんだな』とどこか冷めた自分が居たことに私の卑しさを感じた。
「マルゼンスキーというウマ娘を知っているか?」
「いや、知らない。」
「そうだろうな、マルゼンスキーは重賞こそ勝っているが、こちらで言うGⅠのようなタイトルは取っていない。それでも『銀髪姫』は彼女に負け続けたんだ。」
「意味がわからない、セントレジャーに勝ってるんでしょ。ただのフロックだったの?」
「そうじゃない、マルゼンスキーが強すぎたんだ。不運にも、マルゼンスキーは規約でクラシックに出られなかった。そんな彼女に挑み続けた『銀髪姫』は身も心も消耗していった。」
「8戦8勝、2着につけた差は合計で61馬身。それがマルゼンスキーの戦績だ。」
「そんな……あり得ない……。」
レースはさまざまな要因が絡み合う。その日の風向きが違えば、そのとき踏み出す脚が違えば、そんな些細な違いだけで覆されてしまう。芝の上を駆けるものであれば、それは意識せざるを得ないものだ。
彼女は既にウマ娘の域を超えている。超高速馬場でそこまでの差をつけるなんて、そう形容するしかない。
「トレーナーの体調悪化により、免許を持っていた俺がチームを引き継ぐことになった。『銀髪姫』は最優秀シニアウマ娘に選ばれたりもしたが、既に能力は下降の一途を辿っていた。下の世代にも負け、限界も近かった。」
彼は言い淀むが、結果はすでに理解できていた。本格化を迎えた後に能力が低下すれば、その後はもう引退するしかない。
デウスエクスマキナ*1は物語だからこそ起きるものだ。ありきたりな奇跡など起こらない。だから私たちは空想し、「そうあったらいいな」と現実から逃避する。吊られた罪人が生き返ることなどあり得ないのだ。
「俺はもう一度勝ってほしいと奮闘したさ。するとある日突然、『銀髪姫』は練習に来なくなった。彼女を待ち続けたが、実力者を失ったチームはバラバラになり、気がつけば『銀髪姫』は学園を辞めていた。」
「報われねえな。」
そう言うと彼は深いため息をつく。頬は少しだけ赤くなり、酔っているようにも見えた。辺りにはただ場違いな甘い香りが宙ぶらりんとなって漂う。
「彼女は海を渡ったと聞いたが定かじゃない。それなのに俺はこうしてトレーナーを続けてる。」
「その後に出会ったのが、ミスターシービーだ。あいつがここまで連れてきてくれた。俺はもう、担当ウマ娘の涙は見たくない。だから俺は担当ウマ娘のためならなんだってすると決めた。たとえどんな結果になろうとも俺のできる最善を尽くすって。」
「強いんだな、ミスターシービーって。」
「ああ、そうだ。燻ってたオレにもう一度火をつけた。いろいろあったが、かわいいヤツだよ。」
彼は頬を緩ませてミスターシービーの名前を口にした。何故だか私の中にもやもやとした感情が芽生える。
嫉妬心だろうか、いや違う。
これは闘争心だ。
「じゃあ、オレのためにも何かしてくれるか。」
「ああ、もちろんだ。言ってみろ。」
真っ直ぐ向き直る彼の目は澄み渡り、私を見下ろす。彼にはその言葉に違わぬ覚悟があった。
だから私は実現し得ない夢を彼に言ってみたくなった。
「オレ、ミスターシービーと走ってみたい。」