「いや、やっぱいい。」
シェイプは照れたように微笑みながら、静かにレモネードを口にする。崩れた化粧は俺がドリンクを買っているときに直したようで、柔らかいチークの色が、また彼女を淑女にした。
「どうしてだ?」
そう訊ねると艶やかな栗毛が揺れる。
あどけなさは感じられない。泣き喚いていたはずの少女はいつの間にか諦めを知った大人のように、目を瞑って首を横に振っていた。
「オレの脚はそこまで保たない。オレの競争生命は、あと2年で終わりなんだ。」
シェイプがフィリーズ路線に強く反発していたのは、彼女の定められた運命にあった。ダービーは一生に一度。機会を逃せばもう出られない。だが凱旋門はシニアクラスでも出走はできる。
しかし彼女はクラシッククラスの終了を以って引退してしまう。3000mのセントレジャーはただでさえ過酷なレースだ。ドンカスターレース場は平坦であり、長距離レースながらペースが上がることも多い。先行策を得意とするウマ娘には不利なのだ。そこにこの国特有の重く脚を取られやすい馬場が加わる。
凱旋門賞はだいたいその3週間後になる。コンディションを維持することが出来れば凱旋門賞出走も十分に考えられるだろう。だがクラシックとフィリーズの最終戦を兼ねたセントレジャーを避けて凱旋門に挑戦するウマ娘も多く、またそこに歴戦のシニアクラスが加わることになる。
脚が悪いということを鑑みれば、勝利は現実的ではない。凱旋門賞はロンシャンの高低差10mの坂と平坦で長い直線が待ち受ける。
「お前は、それでいいのか……?」
「仕方ねえさ、決まってたことだ。競争中に脚を折るよりはマシだ。」
彼女はまだ走りたいはずだ。勝利への渇望があるからこそ、激しい思いを露わにした。
恩返しのために勝ちたいと願うほど、彼女は優しい。全てを抱え込んで走る彼女は紛れもなく強いウマ娘だ。
「あとさ、オレが勝ってシービーを泣かせちまうかもしれないしな!」
街灯がぼんやりと冗談を言う
「キングジョージにも、出てみたかったな……。」
「出ようか。」
エプソムダービー、凱旋門賞、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス。この3つが欧州の最高峰と言われる。
夏に行われるこのレースは凱旋門賞とほぼ同じ11ハロン211ヤードのレースだ。
「出れるのかな、この脚で。」
「俺が出してやるさ。実は俺も、魔法が使えるんだ。」
シェイプは俺の言葉を鼻で笑う。当然ながらアスコットで行われるこのレースにも有力なウマ娘が世界から集まるだろう。
それこそ、極東アジアの島国からも狙う者が居るはずだ。
「シービーが言ってたんだ。『待ってて』ってな。だからアイツは、きっとここに来る。」
「安いセリフ、三文芝居みたい。」
「そうかもしれんな。」
「でも、素敵だね。」
少し小走りでシェイプは俺の脇を通り抜けていく。尻尾はパタパタと揺れ、赤いヒールがまるで踊るかのようにして雪を踏み締めていく。
彼女はブティックの前で立ち止まり、こちらを振り向いた。
「ミスター、あのさ。」
ショーケースから溢れる光は温かみのある暖色だった。その奥には色とりどりの宝石が並び、彼女の目も同様に煌めいていた。
「もうひとつだけ、お願いがあるんだ。」
「入ろうか。言葉通り、ささやかなものしか贈れないがね。」
中に入ろうと歩みを進めると、コートの袖を強く引かれる。
「違うよ……、バカ。それに、その服じゃ入れない。」
「そうなのか……。」
「いいの。
袖が強く絞られ、手首に痛みが走った。
「おいおい、アップルマーケットはいいのか?」
「もういいの。」
彼女に引かれるままに街を歩く。振り返るとそのブティックにはヤドリギでできたリースが入り口の前に飾られていた。
次回はシービー回になると思います。