シンボリルドルフは椅子にもたれかかったまま目を瞑って動かない。身体中の血管が浮き上がり、彼女の呼吸に合わせてゆっくりと脈を打つ。
ウマ娘の心臓はヒトのものよりも大きく、そして強靭だ。肺は柔軟性に富み、膨大な量の空気を一瞬にして吸い込んでは吐き出す。彼女たちの“ヒトならざる”身体能力はこの循環器の強さがあってこそ成り立つ。
走れば体温は上昇し、汗は水煙となって辺りに漂い始める。気温の低い日であればそれは日光を乱反射させ、まるで後光が差したかのようにさえ思わせる。今日のルドルフもそのような輝きを放っていた。
「お疲れ様、ルドルフ。」
そう呼びかけると彼女はゆっくりと目を開けてこちらを向いた。
「おハナさん、いらっしゃったのですね。」
「ノックはしたつもりなのだけど、その様子じゃ気づかないわよね。」
「すみません、少し眠ってしまっていたようです。」
「いいのよ、ライブも疲れたでしょう。ゆっくり身を休めなさい。」
シンボリルドルフはこれまでセンターを貫き続けている。だが、前走とは比べものにならない疲労が目に見て取れた。勝ったにも関わらず顔はどこか落ち込み、ぼんやりと思案を巡らせているようにも思えた。
「3000mは、皇帝の手にも余るかしら。」
「おハナさんには、そう見えましたか?」
「いいえ。貴女らしい、非の打ちどころがない完璧な勝利だったわ。」
シンボリルドルフはこの菊花賞でも勝ち星を挙げた。集団の中ほどに位置取り、抑えて走った後に最終直線で抜け出す。3-4コーナーでは前が壁になるも、決して功を急ぐことは無かった。完璧な勝利、それに尽きる。
無敗での三冠達成。歴史上にも稀に見る快挙である。だがそれでも、彼女の顔は冴えないままだった。
「海外遠征のことを考えていたの?」
「そうでもありますが、違うとも言えます。」
三冠は誰もが目指すところである。だが彼女は凱旋門を選ぼうとしていた。彼女の走りならば、欧州のレースさえも制することができる。私でさえもそう信じていた。だがそれは怪我によって中止となったのだった。
「ミスターシービーについて考えていました。彼女も世界を目指すそうですね。」
「ええ、次走はジャパンカップを予定しているわ。」
ミスターシービーは春のシーズンを全て休養に充てることになった。しかし休養明けの毎日王冠では彼女の持ち味である豪快なマクリを見せ人々を大いに沸かせた。そのレースこそカツラギエースに届かなかったが、天皇賞・秋を勝利し、未だその脚は健在であることを知らしめた。
おそらくシービーはジャパンカップの後に有馬記念に出走して来るだろう。ルドルフとの対決の舞台は年末の中山になる。
だがルドルフは立ち上がり、私に頭を下げてこう言うのだった。
「私も、ジャパンカップに出してください。」
「貴女、正気なの?」
「菊花賞、勝った心地がしませんでした。向正面からスパートをかけるなんて芸当は、私にはできません。ミスターシービーは私の想像をはるかに超えた存在です。」
「でもタイムは貴女のほうが2秒近くも速いわ。」
「関係ありません。私は、ただ彼女と走りたい。」
ジャパンカップは2週間後。普通のウマ娘であれば到底勝てるとは思えない。だが、ミスターシービーもシンボリルドルフも普通のウマ娘ではないことは誰もが知るところにある。
ふたりは奇跡にも近い存在であるのだ。人々はそれを『三冠ウマ娘』と呼ぶ。
「ルドルフ、顔を上げなさい。」
妖しく光る二つの目が私を見つめた。どうしてだろうか、私はその魅力に抗えない。出走するのは常軌を逸した強さを持つウマ娘ばかりだ。それでも、ルドルフが勝ってしまうのではないかと思ってしまう。
レースに絶対はない。だが彼女にはその絶対を思わせる何かがあった。
「明日は休養日にするわ。明後日から追い切り同様のトレーニングをする。これでいいわね。」
そう声をかけて、私は控え室を後にした。
章に関しては後から変えるかもしれない