反町渚の希望と絶望   作:転寝

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プロローグ

 頬に衝撃が走り、花車(きゃしゃ)(からだ)が吹き飛ばされる。

 視界が目まぐるしく入れ替わる。湿った床をゴロゴロと転がり、何かにぶつかって止まった。少し遅れて、頬に熱を持った痛みが生まれる。

 痛みに涙を浮かべ、床にへたりこむ。その時背後で聞こえた破砕音に、顔から血の気が引くのが分かった。

 破砕音の正体は割れた酒瓶だった。床に置いてあったそれに躰がぶつかり、倒してしまったのだろう。

 素足にひんやりとした感覚を覚える。零れた酒が足を濡らしていた。アルコールの香りが鼻をつき、思わず顔を顰める。

 

「―――!」

 

 頭上から罵声が聞こえ、髪を引っ張られた。

 視界に醜悪な顔が映り込む。先程より強い酒の香りが脳を侵していく。

 髪を引っ張った男は拳を振り上げ、一切の躊躇もせずに殴ってきた。鼻に拳がぶつかり、異音と共に血が噴き出す。どうやら折れた上に鼻血を出してしまったらしい。

 鼻血が拳に付いた事で、男は更に怒り狂った。髪を引っ張られて無理やり立たされた瞬間、腹に重い一撃を貰った。

 思わず嘔吐く。戻して男の躰を汚したらまた殴られるので、吐きたくなる気持ちを必死に抑えた。

 その後も男は何度も殴ってきた。躰は痛いを通り越して感覚が無くなってきたし、痛みに悲鳴を上げる気力も無くなっていた。

 それを詰まらないと感じたのか、或いは散々殴って満足したのか…とにかく、男は漸く髪を掴んだ手を離した。

 最後に一発、腹を蹴ってから男は部屋を出ていった。

 安堵の息を漏らす間も無く、部屋の片隅を見る。

 そこにはひとりの女性が倒れていた。自分の母親だ。

 母親はピクリとも動かなかった。それを知覚して、躰から力が抜ける。

 母親に駆け寄る気力も無く、そこで意識が途切れた。

 

 どうして、こうなったのだろう。

 ただ、幸せに生きたかっただけなのに…。

 

 

 反町渚(そりまちなぎさ)は、幸せな少女だった。

 優しい父親と母親。外で出会う友達。狭くて楽しい世界…それが自分の全てで、幸せを構成する要素だった。

 だが、渚が小学五年生の時、その幸せに亀裂が入った。

 父親が事故死してしまったのだ。自動車事故となっていたが、本当はどうなのか分からない。ただ、その所為で渚の幸せは失われてしまった。

 父親が死んだ後、母と渚は父親の弟…渚にとっては叔父に当たる人物と暮らす事になった。なんでも、父の葬式会場で涙を流していた母を美しいと思い、半ば強引に同棲を決めたらしかった。

 母としても、女手ひとつで娘を育てるのは大変だと思ったのだろう。渋々とではあるが、叔父との同棲生活を送る事に同意した。

 最初の一年は平和な生活が続いていた。叔父は母の連れ子である渚の事を快く思っていなかった様だったが、それを表に出す事はしなかった。そのおかげで不穏な空気は有りながらも、何とか平穏な日々を送る事が出来ていた。

 転機があったのは、渚が小学校を卒業する少し前の事だった。叔父がリストラに遭い、酒や賭け事に溺れる様になったのだ。

 母が休まずに稼いだお金を叔父が娯楽に使い、それに反抗すると母を殴る…そんな事が繰り返される様になった。

 更に、その矛先は渚にも向いた。元々快く思われていなかった渚は暴力を向けるのに最適な対象だったのだろう。まだ小学生の渚に、叔父は容赦無く暴力を振るった。

 小学校を卒業する頃には渚は心身共にボロボロになっていた。…だけど、母はそれ以上に疲弊していたに違いない。いつも渚を庇ってくれて、その分多くの傷を負っていたからだ。

 もう、希望なんて何処にも無い。

 楽しかった日々は壊れ、あとは最低な地獄が残るだけ。

 

 …死ねばいいのに。

 わたしも、叔父さんも、みんなみんな…終わってしまえばいい。

 いつしか、渚はそう思う様になっていた。

 

 

 下腹部に痛みが走り、意識が戻る。

 いつの間にか叔父が戻ってきていた。部屋に時計は無く、カーテンも常時閉められている為、気を失ってからどのくらいの時間が経過したのか分からない。だが、叔父から発せられる酒の香りがより強くなっている様に感じられた事から、相当な時間が経過しているのだろうと思った。

 叔父は完全に酔っている様で、赤らんだ顔を近付けてきた。その顔がだらしなく緩み、伸ばされた手が渚の肩を掴む。

 

「…流石は海乃(うみの)のガキだな。顔立ちがよく似ている」

 

 虚ろな目をしながら叔父は呟く。

 渚は彼から逃れようとするが、肩を掴む力は強く、栄養不足の少女が振り解けるものではなかった。

 

「俺は、お前が嫌いだ。だけどお前は海乃の代わりになるし海乃は気絶してやがる。だから…」

 

 ブツブツと呟くその姿に、ゾッとしたものを覚える。

 海乃は母親の名前だ。叔父は、母と自分を重ね合わせているのだろうか。

 叔父は呂律(ろれつ)の回らない口調で、それでもはっきりとこう言った。

 

「…だから、お前が海乃の代わりになれ(・・・・・・・・・・・・)

 

 ―瞬間、叔父は渚を押し倒した。

 勢いよく後頭部を床にぶつけ、一瞬だけ頭がぼんやりとなる。

 逃れようにも叔父の躰は重く、容易には抜け出せなかった。

 叔父は渚が着ていたTシャツを捲り上げる。

 まだ成長途中の躰が(あらわ)になり、叔父は物足りなさそうに顔を顰めた。

 その間も手は止めず、今度は渚のスカートを無理やり脱がせる。

 麻痺していた思考が(ようや)く正常になり、渚は掠れた悲鳴を上げた。

 

「い、いや…!」

 

 その悲鳴をきいて苛立ちが込み上げたらしく、叔父は渚の顔面を殴る。

 

「口答えするなよ…誰が養ってやってると思ってんだ!あぁ!?」

 

 明らかにまともとは思えない。

 まだ知識が殆どないとはいえ、渚にもこれから自分がどうなるか想像出来た。

 だからひたすらに暴れたが、そんなもの叔父にとっては抵抗とすら呼べない。

 直ぐに殴られ、その拍子に頭を床に勢いよくぶつける。

 意識が朦朧となり、躰から力が抜ける。それを見た叔父は渚の顔に唾を吐きかけ、忌々しいといった様子で舌打ちをした。

 

「これだからか弱いガキは…こうなるなら海乃をヤった方が楽しかっただろうに」

 

 まあ、いいや―そう呟いて、叔父は渚を蹂躙する作業に戻った。

 叔父の手が渚の下着に伸びる。

 朦朧とする意識の中、渚はそれを他人事の様に認識していた。

 諦観だけが彼女を支配し、これから起こるであろう事ですらどうでもいいという気持ちになっていた。

 どうせ、自分はここで終わるのだ。

 なら、もうどうにでもなれ…。

 

 …そんな気持ちを、母親の叫び声が打ち砕いた。

 

「渚!」

 

 叫び声と共に、ウッという呻き声。

 叔父が横に倒れ、渚の躰は彼の重みから解放された。

 恐らく、母が何かしたのだ。

 だが、彼女は部屋の隅で気を失っていたはず。

 いったいどうやって…その疑問は、母親の必死な声に掻き消された。

 

「逃げなさい!渚!」

 

 その声で。

 今まで動かなかった躰が動いた。

 生存本能が躰を支配し、生き残る事だけを最優先として考える様になる。

 それでも、渚は母に叫んだ。

 

「おかあさんも一緒に行こうよ!このままだと、おかあさんが…」

 

 娘の叫びに、然し母は首を横に振った。

 

「…わたしは行けない。もう、限界なの…だから、逃げなさい。わたしが穢れ切ってしまう前に!」

 

 母の手には黒い宝石が握られていた。

 黒くて禍々しい穢れを内包した、(おぞ)ましい宝石。

 何故かは分からないが…それを見た瞬間、渚は悟った。

 母は穢れ切る寸前なのだ(・・・・・・・・・・・)、と…。

 涙を流しながら、それでも渚の躰は生きる為に動いた。

 一目散に玄関まで走り、ドアを勢いよく開け放って外に出たのだ。

 後ろから、叔父の怒声と揉み合う音が聞こえて来る。その音に背中を押される様にして、渚は走った。

 涙を零しながら、生きる為に走り続けた。

 脳裏に、「逃げなさい!」という母親の声が張り付いて離れなかった。

 

 

 …どれくらい走っただろうか。

 家を飛び出す時には空はオレンジ色に染まっていたが、今は闇が辺りを包み込んでいる。

 酷使した足が遂に限界を迎え、渚は倒れた。

 そこは薄暗い通りの様だった。周りはシャッターの閉まった店ばかりで、人の気配は無い。

 もう立ち上がれそうになかった。空腹だし、足は動かない。今にも叔父が追い掛けてくるのではないかという幻想に怯えながら、渚はひんやりした地面に横たわっていた。

 逃げなきゃ…。

 だけど、動けない…。

 周りには人が居ないため、助けを求める事も出来ない。最も、居たところでボロ雑巾の様な少女をわざわざ助けるようなお人好しは少ないだろうが。

 そのうち、空腹感より疲労が(まさ)ったのか急激に眠くなってきた。眠気に抵抗しようとしたけれど、疲弊した躰は休息を求めている。

 

(…おかあさん、ごめんなさい)

 

 ここで眠ってしまえば、いつか叔父に見つかるだろう。

 だけど、もう限界だった。自分が出来る抵抗なんて、この程度のものなのだ。

 それでも自分を守る為に身を呈してくれた母親に申し訳なくて…渚は涙を流した。

 

 もしも、かみさまがいるなら。

 わたしを…おかあさんをたすけてください。

 

 そんなささやかな祈りが届く筈ないと知りながらも、渚は願った。

 こんな願い、叶うわけが無いのに…。

 

「―キミは」

 

 声が、聞こえた。

 叔父のものでは無い。もっと高い、少年のような声だった。

 ぼやけた視界に何かが映り込む。

 四足歩行の、犬とも猫ともつかない奇妙な生物が渚を見ていた。その赤いビー玉の様な目が、街灯の明かりを反射して紅く光る。

 

「キミは、自分の運命を変えたいのかい?」

 

 何故か、渚は目の前の生物が喋っている事を理解する事が出来た。頭の中に声が響くのだ。

 

「あなたは…」

「ボクはキュウべぇ。キミが運命を変えたいなら…ボクと契約してほしいんだ」

 

 キュウべぇと名乗る生物はそう言った。

 

「けい…やく?」

「ボクがキミの願いを何でもひとつ叶えてあげる。どんなものでも構わない。キミが望むなら、奇跡だって起こせるだろう」

 

 その代わり、とキュウべぇは続ける。

 

「キミには魔法少女として魔女と戦ってほしいんだ」

「魔法…」

 

 昔見ていたアニメに出てきた単語がこの状況で出てくる事に、酷く場違いなものを覚える。

 

「わたしは…夢を見ているの?」

「…夢じゃないさ。そう思うなら、願い事を言ってみるといい」

 

 …全く理解が追いつかない。

 これはわたしが作り出した幻覚なのかもしれない、という考えが頭を過ぎる。

 だけど、それでも…

 

「わたしのお願いをきいてくれるの?」

「ああ。言ってごらん」

 

 キュウべぇにそう言われた時、もう渚の心は決まっていた。

 夢でも現実でもいい。

 この奇跡を、無駄にはしない。

 大きく息を吸い込んで、渚は願い事を口にした。

 

「         」

 

 それをきいたキュウべぇは無表情に頷き、渚の胸から桜色の宝石を取り出す。

 

「キミの願いは叶えられた。これで、契約成立だ」

 

 桜色の宝石が、渚の手に落ちる。

 それをぎゅっと握りしめると、仄かな温もりが伝わってきた。

 

 この瞬間。

 少女は、希望を掴んだ。

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