『おーす、美沙っ』
それはまだ、彼が幼かった頃。
そしてまだ、彼女が甘さを知らなかった頃。
毎日のように顔を合わせる少年は、どちらかというと苦手だったのを思い出す。
『……おはよう、悠くん』
『なんだよ、怖い顔して。笑ってねーと幸せがそっぽ向くぞー?』
『……朝食はこちらに。今日の予定は午後から一時間ほどトレーニングルームで運動の予定が入っている。……体調は大丈夫か?』
『おー、ばっちり。ひひ、動くのはあんがい好きだな』
『なら良いんだ』
いただきます、と手を合わせてパンをかじる男子。
その姿を冷めた目で見ていると、不意に視線がぶつかった。
『……いるのか? コレ』
『いや、いい。私たちは私たちでちゃんと食べている』
『ふーん。そうか』
ならいいんだけど、と呟いて彼は食事に戻る。
はぐはぐ、もぐもぐと。
施設の中であろうと生きづらいだろう男子のくせに、食欲は人並みだ。
……もっとも、その誤解を知ったのはしばらくしてから。
当たり前に食べて、当たり前に話して、当たり前に笑う。
純エーテルに満たされた世界において、男はそうできない。
『――ごちそうさま。おいしかった。……な、美沙』
『なんだ、悠くん』
『ハナシしようぜ。色々と聞きたいコトとかあるんだ。外の事とか、他にもっ』
『すまない。あまり時間は取れないんだ。後にしてくれ』
『まじかよー! ……ならしょうがないか、うん。そうする。ごめんごめん』
『…………、』
歳のわりに、よく考えている子だと思った。
今となっては荒々しい言動に塗り潰されてしまったが、彼は元より純粋さの目立つ性質だった。
古びた基準で言ってしまえばとんでもなく良い子。
癇癪も起こさなければ駄々もこねない、素直で聞き分けの良い子供。
その印象もせいぜい保って二週間ぐらい。
『な、なにをしている……!? 悠!?』
『なにって……運動?』
『バカ! 降りてこい! そんな高い所に登って……! 落ちたらどうする!?』
『心配するなよ、美沙。……あ、いや、違うな。気が変わった。美沙、受け止めてくれ』
『はァ!?』
『あいッ、きゃん、ふらぁああいッ!!』
『ば、ばかぁーーーーーーーーーー!!!!????』
いやほんと、とんでもないバカだと思った。
『おまッ、おまえはッ! もう! 本当! 分かってるのか!? 自分のコトが!!』
『分かってるよ。何度も聞いたし』
『いいや分かってない! 大体な、悠! どうしておまえは――』
『……美沙の説教長ぇんだよなあ……タイクツだ……』
『は、る、かッ!!』
『いててててて! 美沙ぁ!? ちょっ、ぼーりょくはんたい!?』
普段は大人しくて他人の言うコトを聞く優等生。
なのに時折思い出したかのように、あまりにも突飛な事をする。
理由なんてない。
まさかそんなことはないだろう、という油断を表したような奇行。
間違いなく、悠は施設で一番の問題児だった。
『よす、美沙!』
『……なんだ、その顔。またなにか企んでるのか』
『いいや、ぜんぜん?』
『………………、』
『なんだよー。ヒトのこと疑ってんなよー』
ニヤニヤと笑う彼の表情を見て、疑うなというほうが難しい。
彼がまだ十三の時である。
毎日の仕事として部屋に訪れた美沙は、その年一番の嫌らしい笑顔と共に迎えられた。
『――ま、いいや。バレてんならしゃあねー。ほい、これ。日頃のお礼!』
『……なんだ、これ?』
『プレゼント。今日が誕生日だろ? イヤリングな。色んな
『――――あ、あぁ。あり、がとう』
ふふん、と胸を張って悠は小さな箱を渡してきた。
中身は彼の宣言通り小さなイヤリング。
荒削りでちょっと歪んだ一品ではあるが、どこかキラリと光るモノがある。
センスは悪くない、なんて思った。
『――お、早速つけてんのかよ! 見せろ見せろ!』
『ばッ、ちがっ――これは、おまえっ、その。……アレだ! 折角だから、だな――』
『照れ隠しになってねーんだよこんちくしょー! あははっ! いいなあ美沙っ』
『い、いいなとはなんだっ』
『嬉しいんだよ。ほんと。苦労してつくった甲斐あったってもんだし!』
次の日、そんなコトを言ってきたのは心臓に悪かったが。
『悠』
『んー? どうしたー?』
『これから先、私以外が担当になるかもしれないから、そのつもりでな』
『……なんかあったのか? 美沙』
『昇進だよ。ここの頭を任されるコトになった。それで、私も忙しくなるからな』
『へぇ。よかったじゃねえの。めでたいコトだ』
『……そうだな』
『美沙に会えないのは淋しいが、まあせっかくだしな! ちょうど良い、俺もそろそろ親離れの時期かと思ってたんだ』
『誰が親だ、誰が。……淋しいか?』
『当たり前だろ、今までずっと一緒に居たんだから。――でもまあ、それも一歩だよな。いずれはそうなるって分かってたし、そう深刻でもねえよ?』
くつくつと笑う彼の表情は、本当に深刻さなんて微塵も感じさせない爽やかさで。
……けれど、それより胸に響いた感想が思考を遮った。
例え一時的なものだとしても。
彼自身がそう言ったように、いずれは来る絶対的なものだとしても。
今はまだ、良いんじゃないかと。
『なあ、美沙』
『なんだ、悠』
『外ってさ、どうなってんだろうな?』
『……バカな考えはよせ。純エーテルまみれの世界で男が生きていけるワケないだろう』
『思っただけだ。別にそんな気は――今んところ、ねえけどよ』
『おい、本気で止せよ。おまえ、絶対出ようとするなよ? 本気だぞ?』
『あいよ。分かってる。外だって良いもんじゃないってのは。分かってるんだよ』
嫌な予感は、いつからか常にあった。
『氷の十字架、嵐の巨人、空の海月……とんでもねえな、ソイツら』
『ああ。だから外は危険がいっぱいなんだ。残っている人類だって、たまたま暮らしている場所が襲われていないから残っているに過ぎない』
『でも倒したんだろ? ヒトの手で』
『それまでに沢山の犠牲者が出た。倒せたというのも結果論にすぎない。普通の人間はな、悠、怪物共に手も足も出ん』
『ほぉ。なんともそりゃあ……』
『怖いか?』
『いいや。ちょっと、楽しみになってる
『本気でやめろよ? 怒るからな? マジでしばくからな?』
何度も何度も彼女は彼に説明をくり返した。
北極の大地に突き立つ氷付けになった十字架の蛇。
カリブ海の底に沈んだヒトガタの嵐を纏う女神の石像。
人々の血を吸って雲のように空を漂った黄昏色の水母。
エトセトラ、エトセトラ。
人類の前に現れた脅威のデタラメさを何度も語った。
『此処は出るってもう決めちまったからよォ!!』
なのに、やっぱり彼はそんなコトを言って。
あまりにも呆気なく、掴んだ手からするりと抜けるように行ってしまった。
「…………悠…………っ」
枕を抱きながら耳飾りに触れる。
彼の残り香を少しでも掴んでいく。
手放してしまった事実を、二度と忘れないためにも。
「んっ♡」
……いや、いまのはちょっと、そう。
手が滑っただけだから、うん。
そうに違いない。
◇◆◇
「――おはよう、諸君……」
「おはようございます、所長!」
「また流崎の部屋でお眠りですか。いい加減子離れしたらどうです?」
「誰が親だ、誰が。……状況は? 捜索はどうなっている」
「まったくですね。影も形も見つかりません」
気分の悪さを隠しもしない声で挨拶を交わしながら、美沙は自分の椅子に腰掛ける。
悠の脱走からすでに三日。
司令室の通信機器は少ない人員でも交代しながらフル稼働を続けていた。
どんなに小さな情報でも即座に入手できるよう彼女が尽力した結果だ。
「……生きては、いるのだろうな」
「誰ですか、死んだらお墓ぐらい立てるものだとか流崎に教えたヒト」
「私だよ。あいつがまだ八つのときだ。……あの頃は可愛かったなあ……いまは格好良くなったんだけどなぁ……あァッ……悠ァア……ッ!!」
「うっわメンドクセーこの
「第三部隊でしたっけ? ひとりだけ生き残りもいるみたいですし、その子と一緒に行動してるんなら絶望的ではないかなと」
「むしろ流崎のほうがリードしてたりして。前時代的な男らしく? ぶわっははは!」
「ありそうッスね。あのバカ、やけに強いですし。やせ我慢とか、忍耐力とか?」
脱走当日、つまりは悠が
襲撃に遭った場所に他部隊が着いたとき、すでに事は終わっていた。
あったのは簡単につくられた四つの墓。
丁寧に名前まで彫られた荒野の石碑はどう考えても悠のお手製だろう。
どうやったかなんて美沙は想像もつかないが、やけに器用な彼なら不可能ではない。
……なにせ、
「戦闘部隊の様子はどうだ」
「ガンガン動き回ってますよ? 一時間に一回は定期報告をコッチにも飛ばしてますし。うちの捜索隊でも見つかったら情報寄越せって脅されてますし? なんか、アレですね。めちゃめちゃ狙われてるカンジしてますねー」
「現場に羽虫の残骸があったから流崎くんがやったんじゃないか、とか言ってるんですっけ? そんなコトありますかねー?」
「どうかね。あのバカにそんな力があるなんて思えねーけど。男だし」
本来ならその考えに間違いはない。
が、事ここに至ってやらかしたのは流崎悠だ。
はあ、と美沙は重苦しく嘆息する。
「……そうだと半分確信しているさ、向こうは。なにせ隊員の素質は把握しているだろうからな。第三部隊の人員だと羽虫の個別撃破は不可能とのコトだ。だったら何がどうなったか、なんて考えるまでもないんだろう」
「えー!? じゃあホントに流崎さんがやった可能性あるんです!? すごー!」
「あぁ! 凄いんだぞ悠は本当に……!」
「急にドヤ顔」
「後方腕組彼女面同担拒否厄介女ムーヴかよ」
「なにそれ?」
「旧時代の滅びた言語を持ち出すな」
「たぶん百年前の人も自分たちのスラングがそんなコトになるなんて思ってないよ」
ちなみにガヤガヤと言う彼女たちではあるが、長年美沙の言動を見続けてきたコトもあって悠との基本セット感は根強い。
それこそどこぞの馬の骨に奪われたら「はぁー!? 流崎くんはうちの所長のものなんですけどー!?」とか言うかもしれないほど。
「……おまけに、この前の遠征で大怪我を負った総司令様まで出陣してる始末だ。奴等は本気だぞ。横取りされる可能性は大いにある」
「なんかそれは気にくわないッスね。流崎は
「ああそうだふざけているよなッ!?」
「声でけー。くそめんどくせー」
「あと私の悠だが!?」
「知らねえよ勝手に言ってろ」
「あー、テステス。定期報告どぞー。あ、こっち騒がしいのは気にしないで」
……ともかくとして、行方不明の男子は現在絶賛捜索中。
昔ならまだしも、いまの時代に勝手気ままな生き方というのはできない。
男である以上、力がある以上、求められるのは必然だ。
「帰ってきてくれないかなぁ……悠……」
「まあムリでしょうね強引に連れ戻さないと」
「てか流崎は清々してんじゃね? あいつシモ事情嫌いだし」
「あはは、精液採取するときめちゃくちゃ嫌な顔されたの思い出した。ほんと筋金入り」
「そうだな。悠はとんでもなく――――いや待て貴様取ったのか? あいつのを??」
「あッやば」
「私以外があいつのアレを取ったのか貴様――――!?」
「いやちょッ、待っ!? すと、ストップです所長! たまたま、一回だけですよ!? 定期検診の時と所長の会議がバッティングしちゃって仕方なくわたしがシただけで!?」
「知るかァ!!」
「理不尽ですけどぉ!?」
極東第一男性収容施設。
まったくと言っていいほど問題の起きないそこは平和そのもの。
ただ、それに一抹の淋しさを覚えるのは、もちろん美沙だけではなかった。
◇◆◇
「――ひっくしゅん!! うぅ……? 薄着すぎたかァ……?」
悠→美沙
「姉弟みたいなカンジ。口うるさいけど好き。むしろそれがいい。良いお姉ちゃん」
美沙→悠
「 エ ッ チ し た い ! (迫真)」
うーんすれ違い。