次の日の朝、悠は鼻孔をくすぐる美味しそうな匂いで目を覚ました。
瞼を持ち上げて一秒と待たず、がばっと跳ね起きる。
「お。元気がいいね。さすが男の子」
「……男は元気が悪いもんだが」
「ああ、そっか。そうだね。間違えた。じゃあ改めて。おはよう、はーくん」
「……あいよ。おはようさん」
コキコキと首を鳴らしながら麻奈の挨拶に返す。
寝起きの気分の悪さは大分軽い。
一日過ごしたせいか、それとも彼自身気付かない程度に慣れてしまったのか。
外に出てきたばかりの頃に比べて俄然マシだ。
「それで、なんだよこの匂い」
「あ、これ? キノコと山菜のスープ。まだひーちゃん起きてないけど、食べる?」
「もらう」
即答だった。
それもそのはず、悠は先日の脱走以来まともなモノを一切口に入れていない。
昨晩の保存食だって食べたのはたったのひとつである。
空腹を満たすには量が少なすぎた。
ので、もう朝から彼のお腹はぐうぐうと唸りを上げる始末なのだ。
「そこは待ってあげるところだよ、男の子」
「……起こしてくらあ」
「うん、わかった」
ガリガリと頭をかきながら踵を返す悠。
妃和の姿は彼が寝ていた場所とそう遠くない位置にあった。
わずか三十センチほど離れて、ほぼ隣り合う形で眠っていたコトになる。
なのに熟睡できた警戒心の少なさは……まあ、死線を越えた間柄故かもしれないが。
「おーい。ヒヨリ。朝だぞー。メシだー、メシ。起きろー」
「――――……ぅ、うぅ……ん……」
「ヒーヨーリー。メシだぞー。要らねえのかー。要らねえなら俺がもらうぞー」
「…………りゅ、う……ざき……?」
「おう。目え覚ませ。朝だ朝、起きやがれよ、寝ぼすけ」
「あぁ……おは、よう……りゅう……ざき……、…………」
起き上がってごしごし目を擦っていた妃和が、なにかに気付いたようぴたりと固まる。
「…………りゅう、ざき?」
「おうとも」
「………………、」
「………………?」
パチパチと目をしばたたかせる。
バッチリぶつかり合った視線が交錯した。
少年の黒い瞳には少女が。
少女の黒い瞳には少年が。
互いの虹彩に互いの姿を映しながら、数秒間見つめ合う。
「――――流崎ッ!?」
「おうッ!?」
「な、ななななな! ななななな――――!!??」
「なんだなんだ! 落ち着けヒヨリ! てめえなにがあった!? 悪い夢でも見たか!」
「いまが悪いユメみたいだ!!」
「どういうことだてめえ!?」
「ふふふっ、いいねえ」
はしゃぐ若者を尻目にぐるぐると鍋を混ぜるおばあちゃん。
青春だね、なんて感想が言葉にせずとも伝わってくる微笑ましさだった。
「だ、だって。流崎。おまえ。私の。ねっ……寝顔、を……っ」
「ああ、気持ちよさそうに寝てやがったな」
「――――っ、おま、おまえっ! そ、そんなことっ」
「良いじゃねえか悪いユメ見るよりかよぉ」
「……で、でりかしー、とか」
「あるワケねえだろ、そんなもんッ」
「自信満々に言うコトじゃないッ」
たしかに彼に繊細さとか求めるのはお門違いかもしれないが。
むしろそういう言葉とは最もかけ離れている人種かもしれないが。
「そう怒んなよな。変な顔も寝相もしてなかったぜ。むしろほら、愛嬌とかありそうなツラっていうか? そこんところあんまり分かんねえけどよ」
「な、なんだ。その褒め方。……というか、寝顔を褒められたって、嬉しく、ない」
「そうか。そうだな。……いや、褒めてねえけどよ? 単純な感想だぞ?」
「……すまない、流崎。ちょっと何も言わないでくれ」
「はぁ?」
彼の言を妃和は手のひらを向けながら遮った。
その表情は俯いていて悠からは読み取れない。
なんだよ、と文句ありありな様子で彼が口をつぐむ。
なにがそこまで気にくわなかったのか、彼の内心の疑問はもっともだ。
……が、そんな勘違いを直に見て悟っていた人物がひとり。
「――ふふふっ」
くすくすと笑ってふたり分のお椀にスープを注ぐ。
麻奈からしてみれば分かりやすいことこの上ない。
そう、あれは機嫌が悪くて俯いているのではなく――
「ほんと、若いっていいなあ」
ただ、赤くなった顔を見られたくなくて隠しているだけなのだろう。
◇◆◇
三人揃っての朝食を終えると、麻奈はすぐさま支度をはじめていた。
「なんだ、もう行くのかよ」
「うん。もともと気になってたコトは確かめ終わったし、私の事情で君たちと一緒に動いてはあげられないんだ。ごめんね」
「いや、それはいいが」
「そっか」
言いながら、彼女は綺麗にした鍋をバックパックに詰める。
いっぱいの中身は調理器具と食材だったらしい。
かなりの重量になるであろうそれを担いで移動できるのは素直に凄かった。
「ほんと、厄介だよね。色々ルールは付きまとうもので」
「へぇ」
「とくにわたしたちみたいな〝はぐれもの〟はね。いくつか制約があるんだよ」
「そのひとつが俺たちと一緒にいられない、か?」
「うん。厳密にいうと、君たちと居るのを集団と取られると困るんだ。わたしたちは個として在り続けなくちゃいけないから」
「不思議なルールもあるもんだな。誰が決めたんだ、そんなコト」
「――さあ、誰だろうね」
複雑な笑みは、この短い間で何度か見かけたものだ。
悠はそういう類いの雰囲気に覚えがある。
まだ収容所にいた頃、美沙が彼を気遣っていたときと同じ空気。
つまるところ、なにかしら隠し事をしているということ。
「……いいけどな。別に。単純なコトだが、上手いメシつくってもらって絆された」
「あはは、そりゃまた随分だね。……ひーちゃん聞いた? お料理だって、お料理」
「ど、どうしてそこで私に振るんですか」
「どうしてだろうね?」
「だから、その、違いますから。……本当」
「? どういうことだ妃和」
「なんでもないッ」
ぷい、とそっぽを向く妃和に悠がまたもやこてんと首を傾げた。
なんともまあ、仲の良いことで。
くすくすくす、と麻奈は堪えきれなくなって笑みをこぼす。
絶妙に噛み合わないが、ある意味でガッチリ噛み合っていることをきっと当人達だけが気付いていない。
「――うん、ありがとう。君たちを見てるとやっぱりこう、もらえるものがある」
「……なんだぁ、そりゃあ」
「あはは。いつか分かるよ、はーくん。ひーちゃん。……ああ、そうだね。いつかはきっと、おそらく、君たちも分かってしまうのかも知れない」
「「?」」
大きな荷物を背負って、麻奈がそっと立ち上がる。
手には離さないよう握りしめられた一本の刀。
結局肌身離さずのままだったそれは、一度も振るわれる姿を見せなかった。
飾りではないと悠は思うのだが、彼女がこれを振り回している姿もなかなか想像できない。
「よっと。それじゃあね、ふたりとも。元気にね」
「そっちもな。若い身体で腰痛めんなよ」
「こら、流崎。……その、ありがとうございました、紺埜さん」
「いいのいいの。――っと、そうだそうだ」
「?」
くるり、と彼女は最後に振り返って、
「はーくんに、一言だけ伝えるよ」
「俺?」
「そうそう。わたしは反対なんだけど、どうしてもって言うから」
「??」
――ざあ、と風が頬を撫でる。
周囲一帯から押し寄せてくる枝葉の擦れ合う音。
冬の朝はまだ薄明るい。
空気は白みがかっていて、鮮明とはほど遠い景色が印象的だった。
……だからなのか。
「次は是非とも、喧嘩をしよう」
「――――――」
ぼやけた視界に、なにかの影を捉えた気がした。
「……ケンカ、だあ?」
「そう、喧嘩。君の使命も、人の未来も関係ない。ただ意地と誇りだけをかけた真っ向からの大喧嘩。どうにも、それがしたいみたい」
「あんたが、俺と?」
「そうだね。いちおう、そういうことにはなるかな」
「――――はッ」
嘘をつけ、とは言わなかった。
代わりに、どうしてか納得できる感情があった。
なんとなく。
それをするのは、とんでもなく気分が良さそうだ。
「いいぜ、次だな。ああしてやるよ。やってやらあ。ひひ、良いな。喧嘩か」
「待ってるよ。いつ会えるかは分からないから、その日を待っていよう。……じゃあ、今度こそお別れ。ありがとうね、それがわたしからの言葉だよ」
ふりふりと手を振って、彼女はあっという間に去っていった。
振り返ることは一切なく、その背中が見る見るうちに小さくなっていく。
「……なんだか妙な人だったな。雰囲気といい、話し方といい」
「妙なもんかよ。なんとなく分かったぜ」
「? そうなのか?」
「ああ。あいつは多分だが――」
そう、初めて会ったときからそうだった。
どことなく感じていた当たり前のおかしさ。
言動に隠されてはいたが、彼女には不自然な部分がある。
「ひとり旅なんて、してねえんだよ」
思えば一切、その顔に孤高の色を滲ませもしていなかったな、などと。
◇◆◇
「――ほら、伝えたよ、いーくん」
「……もう、またそんなこと言って」
「わたし、喧嘩は嫌い。誰かと傷付け合うなんて間違ってるよ」
「違うもん、わたしはいーくんが言うから仕方なく……」
「あっ、もう! 本気で怒るよ! まったく!」
「…………うん」
「……うん、そうだね」
「わたしも気付いたよ。おそらく、彼が――――」