「――――おげえええええええ」
びちゃびちゃびちゃ、と色のない液体が口からこぼれる。
悠が施設から脱走して一時間と少し。
走れるだけ走りきった肉体は、環境の変化もあって盛大にガタが来ていた。
「えほっ、げほっ……おえっ……空気が、まじぃ……」
ぺっぺっ、と吐き出すように唾を飛ばして口もとを拭う。
フラフラとした足取りと朦朧とする意識。
それらを繋ぎ止めながら、彼は必死で前を向いた。
厚さ五メートルの外壁、さらには五百メートルの水槽。
焼け石に水とはいえ、その状態で防げていた純エーテルは多かったらしい。
事実、外に出た彼の体調は最悪を通り越して最凶だ。
「つか、なんだよ……ここ、本当に同じ日本か……?」
幾度となくくり返される目眩をこらえながら、周囲へと視線を向ける。
あたり一面に広がる赤土の荒野。
都市の残骸も、生命の名残も存在しない自然の末路。
砂と埃だけが舞っている淋しい風景。
過ぎていった時間も時代も元には戻らない。
人がいなくなってもかつての生態系が復活するなんて虫の良い話はなかった。
あるのはただ、すでに終わった形だけ。
「…………、」
呆然と、空を眺める。
黄ばんだ空は薄汚れていて、どこか息苦しさを覚えた。
活性化していない純エーテルがそう変えたのか、他の要因によってそうなったのか。
空の色、なんてよく言う。
あんな輝かしい色は、すでに剥げ落ちて過去のものとなって久しい。
見上げた景色は、どこまでも嫌な配色で憂鬱だ。
「――ロクなもんじゃねえな。期待はしてなかったケドよ」
ぼやきながら歩を進める。
あれほど唸っていた心がいまは冷静だ。
外の景色を見て落ち着いたのか、それとも外に出たことで満足したのか。
どちらにせよ疑問はそれだけで、後悔なんてモノは微塵もないあたり察するべきだろう。
彼はぶるりと身を震わせて、荒れた大地を踏みしめていく。
『……しかし寒いな。いまは冬か。施設だと空調効いてたのかそうでもなかったが、外はこうも冷えるってコトだと。……あー、どっかに防寒着でも落ちてねえかなあ』
言うまでもなく薄着な悠である。
シャツ一枚にズボンひとつ。
格好でいえば夏から秋にかけてぐらいの服装は、当然現在の気候に相応しくない。
なにせ外気温は真昼の時間帯にして一桁台。
夜になれば当然氷点下にまで及ぶ極寒の状態だ。
そんな場所でいまの彼が過ごしていくのは……まあ、無理かどうか考えずとも分かる。
『――でもま、悪くはねえ。悪くはないな。どうせ
ポリポリと頭をかきながら、ひとつ重苦しいため息をこぼす。
頭にはちょっとした響くような頭痛。
生理的な嫌悪感、というのはどうにも耐えがたい。
思い出しただけで喉の奥から込み上げるモノがあるのは相当だった。
どうしてなのかは、彼自身よく分からないけれど。
「ッ……ったくよぉ……これじゃあバカだぜ俺。いやバカだな。バカだった。――なんだ間違ってねえじゃんかよ。とりあえず、どうするべきか――」
と、そこで彼はよせばいいのに、頭の片隅にある記憶を引き摺り出した。
『――たしか北の大陸には〝氷の十字架〟が
よし、なら北だな、いざ進め、と彼はくつくつ喉を鳴らして歩き出す。
黄ばんだ空には朧気な太陽と、赤銅色に染まった雲。
広大な荒れ地では時間の流れはもちろん、方向感覚なんて以ての外である。
盛大に踏み出される一歩は自信満々に。
彼はまったく疑わない足取りで、真っ直ぐ〝西〟へと進み出した。
言わずもがな。
流崎悠は、生粋のバカである――――
◇◆◇
一方その頃。
彼女の心境は、いたく沈みきっていた。
「……………………、」
「……だ、大丈夫ですか所長」
「大丈夫だ。……ああ、大丈夫だとも」
「とてもそうには見えませんが」
「気にするな。良いから壁の修理を急がせろ。緊急避難用の地下通路から捜索隊も出せ。メンバーの選定は任せる」
「所長、あの、本部への連絡は」
「一応しておけ……あの戦闘バカ共にたかだか男ひとりの脱走が取り合ってもらえるとは思えんが」
「わ、わかりました」
「………………、」
はあ、と何度目かになる力無いため息。
脱走直後はこれでもかというぐらい眉間に寄っていたシワも、いまとなっては影も形も残っていない。
衝動的な激情がそれを上回る悲しみに打ちのめされた結果だ。
美沙はゆっくりと瞼を閉じながら、ぎゅっと静かに拳を握り込む。
「にしても、思いきりましたね流崎のヤツ。なんでこんなコトしたんでしょうかね?」
「知らん……あいつはいつもそうだ……急に気が触れたみたいに突飛なコトを……」
「あっはっは、流崎いなくなってるからガチ凹みしてる。おもろ」
「笑ってる場合か! これでもうちの最高責任者なんだぞ!?」
「心がポッキーしちゃってるんだなって……かなしいなあ」
「――――――」
職員たちの言葉をガンスルーして、ガンと机に頭を打ち付ける美沙。
こぼれる吐息は最早数えるのも馬鹿らしくなるぐらい重苦しいものだ。
原因はなんだったのか、そも理由のある行動だったのか。
見かけによらずマトモな思考回路がある悠だが、時折なにかに耐えきれなくなるように「かけられた期待を全力で裏切ろうとする」コトがある。
一種の病気みたいなものかと彼女は考えていたが、その認識の甘さが最悪の形で露呈してしまった。
「ほ、ほんとに大丈夫ですか所長!?」
「――――これが大丈夫に見えるか
「い、いえ、全然」
「オイオイ体裁を取り繕うコトもやめやがったぜこの所長」
「これが
「どうだろなあ」
「……とにかく急いで探せ。いくら自由奔放で無鉄砲で考えなしの大馬鹿でも、あいつは男だ。……そう、男なんだよ。だから」
「純エーテルに溢れた外ではロクに動くのもままならない、ですか?」
ああ、と美沙は机に身体を預けたまま答える。
先ほどまで全職員を指揮していたとは思えないだらけっぷり……というより意気消沈っぷりは彼女のテンションをこれでもかと示していた。
「純エーテルの有害性は純潔の女性以外もれなく発揮される……それは
「でも、彼ピンピンしてましたよ。純エーテルを自分の手で使って」
「そこだ。だから問題なんだ色々と。……あいつは男なのに純エーテルに愛されている。間違いない。アレは正真正銘、本気で神秘の申し子だ。お前らもさっきのを見ただろう」
「デタラメな使い方してましたもんね。極太レーザー兵器だわありゃ」
「男のくせによくやるっていうか……私たちでもあんなことできないわよ」
本来、純エーテルとは特異な性質以外を持たない未知のエネルギーである。
神秘の粒子、架空要素でしかないそれは、資源としての運用はおろか物質の破壊すら不可能な代物だ。
だからこそ通常の〝力〟として使う場合、粒子を一個の形として安定させる手法を取るのだが。
「強引な活性化、臨界状態の維持。純エーテルに対する適正値の高さ故だな。そのせいであんな馬鹿げた真似ができている。――尤も、非効率極まりないが。あんなのは火をおこすのにタンク丸ごとガソリンをぶちまけているようなものだぞ」
「え。じゃあなんすか。流崎のヤツ、ボロボロになりながら治ってるワケっすか?」
「寿命を削っていまの怪我を治してるだけだ。純エーテルの影響は変わらず受ける。身体がいくら綺麗でも、あれでは二十五年と生きられないだろうな」
「やばいですねそれー……ただでさえ男性諸君の精子量が終わってるのに」
「唯一まともだった流崎が脱走、雲隠れ、しかも早死にかー。いや天は二物を与えずっていうか……むしろ二物与えちゃった結果、器ぶっ壊れてんよ的な?」
「そうだな……」
期待の星、といえばその通りだった。
純エーテルの影響で極端に下がった出生率。
男の数はもちろん、その種の質も量も壊滅的となった現代。
残された希望は間違いなく彼だったろう。
普通ならありえない適正値に、施設の中とはいえ元気に動けるほどの強さ。
繁殖の素体としてこれ以上はない。
だから、彼の脱走は誰が思うよりも致命的なモノであって――
「――――だが、そんなコトはどうでもいい」
「え?」
「ん?」
「所長?」
「流れ変わったな」
「??」
バン、と両手のひらを机に叩きつけながら美沙が面を上げる。
「活性化による治癒の性質。臨界状態の純エーテルが起こす破壊現象。たしかに凄いさ。戦闘部隊でもそんな真似ができるヤツはそういない。だがそんなのはどうでもいい」
「所長?」
「男なのに健康体。ここで生きられるだけの素質がある。精子も精力も申し分ない。種の継続にはもってこいな肉体。だがな、そんなのはどうでもいいんだ」
「神塚所長??」
「私は――――ッ、私はなぁ――――」
そう、そんなコトはぶっちゃけ正直いまは
純エーテルの適性? 種の継続?
なんだそれは、それがどうした。
なにが良いんだそんなコト、と彼女は冷静に己の心情を判断する。
大事なのはただひとつ。
ああそうとも――ただひとつ、無二の例外だけ。
「………………十年だ…………」
「はい?」
「私がここに入ってきて……担当職員となって十年間……ッ、ずっとずっと私は、悠の成長を見守ってきた……あいつが七つの頃から、私が十五のときから、十年間……ッ」
「ああ、そっか。流崎の担当、ずっと所長でしたもんね」
「ああそうだッ! 誰にも渡したくなかったからな! こんな役職に上り詰めてまで絶ッッッッッ対に渡さなかったんだ! その意味が分かるか!?」
「分かりたくもねーですヨ」
「あいつと一緒になりたかったんだよ私はァァァアアアアッ!!!!」
ガンッ、といま一度握り絞めた拳を打ち付けて美沙は吼えた。
そう、問題なのは人類の未来云々なんて大きな話ではない。
回答はもっと簡単でいたってシンプルだ。
――彼がいない。
大好きで大好きで仕方ない、ずっと片想いしてきた彼がもうここにいない。
というかおそらく、最悪ずっと帰ってこないかもしれない。
それが美沙の心をズタズタに引き裂いた主な要因だった。
「純エーテルの影響とか性交した場合の問題とかどうでもいい……ッ! ただあいつとエッチがしたかった……ッ!!」
「ぶっちゃけましたよこの
「本当に
「大丈夫じゃないよ大問題だよ」
「うーんこれは普通に考えて緊急所内会議案件では?」
ごもっともである。
「だってぇ……初恋なんだぞぉ……!? 生まれてはじめて、胸がときめいて、きゅんきゅんしてッ……もう、もうこのヒト以外いないって……! 私の身体を捧げるのはこの男の子以外にいないって、そう思うぐらいのモノだったんだぞぉ!? それをッ、それをおまえ……ッ、おまえ――――!」
「まあ見るからに分かりきってましたが……」
「毎日仕事が忙しくても絶対流崎くんの顔見に行ってましたしね。夜中でも」
「てか重……そういうの多分流崎くんムリですよあの子セッ○ス嫌いですし」
「そもそもアイツ性欲あんの? 全部闘争本能に変換されてそうな暴れ馬だけど」
「種馬だけに?」
「やかましいわ。あと不謹慎だわ。種馬いうな貴重な男性陣だぞ……、種馬じゃん!」
ちなみにそういった行為が解禁されるのは色々と条件があれど基本十八からである。
なんか第四の壁を越えたレーティングのせいとかそういうのではない。
断じてない。
男性側の身体面を考慮しての事情と、女性側の人員が少ないのもあってのコトだ。
このご時世、そういったコトをするというのは自ら純エーテルの加護を剥がすに等しい。
乙女からしてみれば自殺にも近い行為と言われるのも無理はなかった。
――まあその乙女がこうして錯乱しているのだが。
「私がッ……私があいつのイヴになるつもりだったのに……!」
「自分でイヴとか言い出しちゃったよこの人」
「もうダメみたいですねコレは」
「置かれた立場はともかく流崎はアダムってガラじゃないしな。むしろアレ、アウトロー気取るチンピラ? エセヤンキー? 本人根が真面目ちゃんだからなー」
口々に言いながらも手を動かしていく職員オペレーター一同。
美沙の言い分はともかく、施設として悠の脱走に手を尽くさないワケにはいかない。
なにはともあれ貴重な世界に残存したヒトのオス。
そう易々と死なせてしまうわけにはいかない、と――
「――――所長!」
「……どうした、島並。そんな慌てて」
「本部より伝令! 東京郊外、ここから北西に〝羽虫〟の出現を確認! すでに部隊の派遣をはじめているようです!」
「――――なに?」
突如として入ってきた情報に室内が凍りつく。
先走る嫌な予感と、どこかそうなるかもしれないと思っていた内心の的中感。
ここにおいて彼女たちの心はひとつにまとまった。
……嫌な音が脳裡でよぎる。
それはとても重苦しい、なにかの歯車が噛み合ったような。
とても、とても――――
えっちなコトが嫌いなオトコノコなんていません!(お目々ぐるぐる)