それは呼応するように、長い眠りから覚めた。
目を開けたのはいつ以来だろう。
暗い闇の中で身じろぎする。
大地を削る衣擦れの音。
やがてそれが息苦しい地中なのだと気付いて、迅速に掘り進める。
かつては誰か。
いまは何か。
それは熱。
それは炎。
それは燃える青い雌鳥。
火星の大地を突き破って、異形の焔が解き放たれた。
◇◆◇
ふと、目が覚めた。
ガタンガタンと揺れる空間。
手足の先に伝わる感覚がぼんやりとしている。
どうにも上手く身体を動かせない。
それは疲労によるものというより、なにかを失った代償じみていた。
なんだろう、としばし考えてみる。
…………結局、答えは出ないので後回し。
瞼を持ち上げてみる。
視界に映ったのは、寝ぼけた頭でも分かる――知らない光景。
「流崎?」
「…………ひ、より……?」
「その、大丈夫か。怪我とか、痛いところとか……ないか?」
「……ああ、平気だな……」
「そ、そうか」
よかった、と安堵する妃和を尻目にあたりを見回す。
全体的に暗い色、ガラスと鉄と合成樹脂と、何人かのヒトの気配。
背中から伝わる振動は仄かに強い。
妃和の顔が見えたのは彼の体勢故だ。
俗に言う膝枕、というやつである。
「ここ、は……」
「護送車の中だ。総司令が連絡して用意してくれた。いまは流崎が逃げてきた収容所に向かっているところらしい」
「……そうか、あそこに……」
戻るのか、とだけ呟いて視界を落とす。
体力が全快していないのか、それとも別の要因があるのか。
不思議なコトに気力が一切湧いてこない。
あれだけ必死に帰るまいとしていた施設への帰還。
本来なら全力で抵抗するところだが、いまはそんな気持ちすら浮かばなかった。
「……意外、だな」
「なにがだよ」
「暴れられるかと。……心変わりでもしたのか?」
「さあ……なにも変わってねえハズなんだが、どうにもな……」
自嘲気味に笑う悠。
妃和から見てもその姿には驚くほど覇気がない。
羽虫を倒したときも、天使を切り裂いたときもあったはずの力強さが欠けている。
似合わない、と彼女は思った。
同時に、珍しい彼の姿はちょっとだけ新鮮でもあったけれど。
「体調が優れないのか?」
「どうかな、分かんねえ。自分が自分じゃないみたいだ。頭ん中ぐちゃぐちゃで」
「それは……まあ、無理もないだろう。なにせあの枝葉の怪物を倒したのだから」
「――――たお、した……?」
誰が、と続きそうな表情だった。
なにも知らない、なにも分からない。
本当に本気で引っ掛かる部分がなにもない、と言わんばかりの見事な驚き。
「覚えていないのか……?」
「覚えてるも、なにも……俺は、あの天使相手に――――」
――――ずきん。
「――――あ、れ……?」
なんだか、
記憶が、
うまく――/繋がら、/……ない。
「俺……は」
「……流崎が、あの怪物を倒したんだ。兆角醒まで使って」
「俺が……? そんな、こと」
「総司令も、甘根隊長も、私も見ていた。あともうひとり、おまえを助けた聖剣使いも」
「…………だめだ、やっぱり。さっぱり。……思い出せねえ」
ずきずきと頭蓋の奥に鈍痛が走る。
考えれば考えるほどドツボにはまっていくような感覚。
たしかに天使と相対した記憶はあるのに、その後が水で滲んだように不鮮明だ。
意識もぼんやりしていれば、直近のコトでさえぼやけている。
「まだ整理がついてないのかもしれない。時間もそう経っていないからな」
「そう、かね」
「だろう。……ほら、少し休め。あれだけ頑張ったんだ。記憶が混乱するのは、仕方のないことだと思うし」
「…………、」
混乱とはまた違うと彼自身思うのだが、もはや抵抗の意思は薄い。
返答するのも忘れてただ妃和に髪を梳かれる。
手足は痺れたように動いてくれない。
辛うじて身体の大事な部分はなにも問題なかったようだ。
「……なあ、
「ん、どうした」
「名前、呼んでくれよ」
「……流崎?」
ゆるりと彼は首を横に振った。
違う、といった鋭い視線が彼女に突き刺さる。
「悠って呼んでくれ」
「い、いきなりだな。どういう心境の変化だ……?」
「さあ。なんでかな……妃和に、呼んでもらいたくなりやがってよ」
「……おまえは……もう……」
彼の言葉にはそれまでと違う響きがある。
微妙な差異だ。
妃和の名前を口に出すときの声色。
以前よりずっと大人しく、カッチリとはまるような音。
思わずはじめて名前を呼んでもらったのでは、と錯覚するほどのものだった。
「…………は、悠?」
「もう一回だ」
「悠っ」
「もう一回」
「悠ッ」
「はははっ。――ああ、なんか、いいな」
くつくつと喉を鳴らして笑う。
分からない。
理由も現状も全然理解できてはいない。
けれど、それは心のどこかで残していたモノだったのだろう。
誰でもない今の彼女に〝ハルカ〟と呼んでもらう。
そんな些細なものを、噛み締めるように笑みを浮かべた。
「――なんなのだ。一体……」
「なんでもねえよ。……でも、そうだな……」
話しているうちに眠気が襲ってきた。
どうやらまだまだ休み足りない様子。
微睡みのなかで留まることすらできない。
落ちるように意識が霞んでいく。
「安心、したんだ。ちょっと」
「……?」
「妃和が、悠って言ってくれて。嬉しいのかな。分かんねえ。でもさ、いいや。これ」
「流ざ――……、……悠……」
「ふ、はは、あははは。はははッ――――なんだかなぁ……わりと、好きなんだ……」
その真意は一体なんだったのか。
回らない頭で考えてもしっくり来る答えは一切でなかった。
瞼を閉じる。
もう限界だ。
すでに半分夢の中。
今度はいい夢が見られるよう願いながら意識を手放す。
だから、きっと彼は知らない。
自分がなにをしたのかも、己自身がどういう状況なのかも。
――――ましてや、彼女がその言葉にどんな表情を浮かべたのかも。
ぜんぶ、知らないまま眠りにつく。
「…………おやすみ、悠」
頭を撫でる柔らかい手のひらの感触。
らしくもないことに、その暖かさがずっと続けばいいと彼は思った。
いつまでも、どこまでも。