純潔の星   作:4kibou

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8/『脅威は過ぎて③』

 

 

 

 

 ――どこか懐かしい匂い。

 

 ずっとずっと慣れ親しんだ感覚と、久しく使えていなかった柔らかな布団の感触。

 

 瞼越しに入ってくるのは自然の光ではなく電灯のものだ。

 外の世界から完全に遮断された空間では朝の日射しなど望むべくもない。

 

 思えばそう長くはないのに、そっちの方が当たり前になっていた。

 順応力、適応性の高さだろう。

 彼は真実外に出るという行為を認識した上で脱走したのだ。

 

 それも、先日までの話。

 

「――――――……」

 

 ゆっくりと目を開ける。

 意識は浮上するように覚めていく。

 

 身体の感覚は限りなく元通りになっていた。

 護送車のなかで妃和と話した時のような気怠さは残っていない。

 

 ……そして、やはりというかなんというか。

 あたりを見渡せば、そこは――

 

「……俺の部屋、だな」

 

 極東第一男性収容所、アンダー五階。

 地下七十メートルの場所に存在する、純エーテルを限りなく排した世界。

 

 室内には机と丸テーブル、ベッド脇に箪笥と本棚があるぐらい。

 必要最低限の調度品しか置いていないのは悠の性質故だ。

 なにかモノを集めるという性分でもなかったからか。

 

 生活感はさほどない。

 色もない。

 

 簡素で面白みのない部屋だが、これでも施設のなかでは割と()()()部屋である。

 他の男性諸氏はもっと酷いものだと誰かが言っていたっけ。

 

「……しかしまあ、調子が悪くないのは、こう……変だな。なんだか」

 

 一度経験すればありがたみも分かるというものだろう。

 

 頭痛がしない、吐き気がしない。

 なにより空気に苦みがない。

 

 彼らにとって天敵である純エーテルの薄い空気だ。

 悠程度の適性があれば何ら問題の無い濃度である。

 

 それ故に、外の大気がどれだけ汚染されているか理解できた。

 

「そうだよな。――だから出たってのに、また帰ってくるなんてなぁ」

 

 朦朧とした意識のなかで受け入れた事実。

 

 連れ戻されたことに関しては然程問題ではない。

 一度できたことだ。

 彼がその気になればもう一度脱走することだって不可能ではない。

 

 なにより悠も純エーテルの使い方を学んで色々と力を蓄えたのだし、

 となると早速――なんて、体を起こそうとして。

 

「ん?」

 

 ガチャリ、と重い金属音が響いた。

 

 ……手足をぐいっと引っ張り返されるような感触。

 

 その重さには彼自身覚えがある。

 なんの因果か外に出てからの経験が早くも生きたらしい。

 

 見れば、彼の四肢には鉛色の枷が二重三重とつけられていた。

 

「な、んだ……こりゃあ……?」

「――――う、ん……?」

「!」

 

 もぞもぞと布団が蠢く。

 反射的に身構えた。

 

 大きさはちょうど人ひとり、子供ではなく大人サイズ。

 彼に寄り添うようベッドに寝転がっている。

 

「なんだ、起きて――いるのか……」

 

 その、声は。

 

「て、めえ――――」

 

「……ああ、おはよう。悠。久方ぶりだな。いい朝だ」

 

 くすりと、楽しそうに唇を歪めて。

 

 彼女――神塚美沙は、満面の笑みで挨拶をした。

 

 

 

 

 ◇◆◇

 

 

 

 

「――――どぉいうことだ、なんだこいつは……!」

「ふむ。まあ慌てるな。暴れるな。落ち着け。……ふふっ、忙しないヤツだな、相変わらず」

「落ち着いてられるかよぉ!? 美沙っ! これなんだっ! おい!!」

「じゃあとりあえず、おはようのキスでもだな――」

「美沙ァ!?」

 

 んっ、と顔を近付ける彼女から、

 ぐんっ、と体ごと仰け反らせて離れる悠。

 

 本能からのアラートというか、危機管理能力の高さというか。

 なにはともあれほぼ一秒もない間の攻防だった。

 

 完全に不意を突いた美沙の一撃を避けられたのは幸運としかいいようがない。

 

「なにする!? いやなにをしようとした!?」

「キスだが?」

「どうしてそこで当たり前みてえな顔しやがるッ!! おいッ!! おい誰かッ!! 誰でもいい!! 偉いヤツを呼んでこい!! ここの責任者を出せェ!!

「私がここの責任者だぞ、悠」

「ああちくしょうそうだった……ッ!」

 

 ふふんと自慢げに美沙が胸を張る。

 

 一糸まとわぬ姿で。

 

 先ほどの一連の流れで体にかけていた布団がずり落ちたのだ。

 だがこんなのは想像もできないだろう。

 まさかその下にパジャマどころか下着もなにもつけていないなんて。

 

「――――待テ。オマエ、ナニしてる? なンだソレ?」

「そう見るな、照れるだろう」

「じゃあ服着ろよッ!! なんで全裸なんだよッ!! ふざけてんのかアァ!?」

「なんだ、興味があるのか? ふふ……おまえも大人になったのだなあ」

「誰かァ!! こいつをッ!! こいつを今すぐつまみ出せェ!! 責任者ァ!!

「私だ」

「あぁああぁぁぁああぁああぁッ!!!!」

 

 かつて人類が繁栄していた時代、朝チュンなるものがあったという。

 いまの悠にはちょっと思い当たらないが多分正しくそれだ。

 

 これで彼も裸だとダウトなのだが、そこは無事だった。

 ちゃんと寝間着になっている。

 

 ……いや、つまりは一回脱がされたということなのだが、まさかこのご時世に自分から処女を捨てる人間なんていないだろう。

 

「しかしおまえ、筋金入りだな」

「あァ……!?」

「普通は寝起きで女の裸を見ればちょっとぐらい反応するものだが」

「なにがだァ!」

ナニがだ。いや、本当に驚きでな。まさかこうも勃たんとは。それでも男か?」

 

 なんだろう、悠は一切そういうコトを気にしたことはなかった。

 

 なかったのだが、これはまあなんか、うん。

 多分だけれど、男子としてそんな暴言を吐かれてキレないのはおかしいのではないだろうか。

 

 つまるところ喧嘩を売られているのでは? と。

 

「調子ィ乗ってんなよォ……美沙ァ……!」

「そう怒るな。私としてもちょっと傷付いたのだ。おまえにまだ女として見られていないのだな、私は」

「誰が見るかァ!! むしろ母親だろうがてめえは!! 血は繋がってねえが育ててくれたのはてめえだぞ!? 抱けるかどうかなら抱けるハズねえだろうがバカかよ!!」

「世の中の業は深いものだが」

「俺にはそんな趣味嗜好性癖は()()ッ!!」

 

 そもそも彼自身忘れているが、等しく純エーテルの恩恵を受ける女性を相手に()()コトなんて悠はできないのだ。

 

 嫌悪感、拒否感が高まれば衝動的なものになる。

 適性の高さによる弊害はわりと大きい。

 

 そういった感情を持っても良い妃和相手ですら欲求が微塵もないあたりでお察しだ。

 

「ともあれ、元気そうでなによりだ。短い家出だったな。おまえが帰ってきてくれたのは素直に喜ばしいよ、悠」

「……はッ。そうかい。俺も美沙の顔を見られて嬉しいぜ。そこだけはな」

「そこ以外は不満か」

「当然だろうが。手足は縛られてるし、新種の嫌がらせじみた仕打ちは受けるしで散々だ。なにより前から言ってるが、ここに居るのは俺としても気にくわねえんだよッ」

「嫌がらせではない。私の愛の証明だ。悠」

「寝言か? ちゃんと寝て言えよチクショウ」

 

 手厳しいな、と美沙がくつくつ喉を鳴らして笑う。

 

 ……一体全体なにをどうすればこうなるのか。

 抜けだした当事者である悠からすればさっぱり分からない。

 

 彼のなかの美沙のイメージはもっとこう、ピシッとしていてカッチリした感じの、まともな部類に入る人間だった。

 

 それが今はどうだ。

 例えると酷さが分かるが、いまの彼女は聖剣使い並に話が通じない。

 

 いやそれは言い過ぎか、ちょっと言い過ぎだ、聖剣使いよりはマシぐらい。

 

「そもそもおまえ、帰ってきてまともな自由があるとか思っていたのか?」

「……なるほど、そういうコトか」

「理解が早くて助かる。なにせ一度大脱走をしてくれたのだ。厳重に囲っておかなくてはな? またもや逃げ出したとあっては私らの面子も丸つぶれだろう」

「ああそっちは納得したぜ。当たり前だもんな。そうかいそんじゃあこっちはとりあえず不問だ。おっけぇ。把握した」

「良い子だな、悠は」

「――――問題はてめえだなッ!!」

 

 ガチャガチャと鎖を鳴らして悠が吼える。

 身をよじらせるのはせめてもの抵抗だ。

 

 スキンシップついでに近付く美沙はまだ生まれたままの姿である。

 

 よしよしと頭を撫でながら唇を狙うのはやめてほしい。

 本気でやめてほしい。

 

 なんなのだこの暴走っぷりは。

 発情期なのか、発情期なんだな?

 

 でなければこんな――

 

 ――――こんな。

 

 自分の育ての親が、こんなにバグっているはずがない――――

 

「やめろッ! くそッ! 来るんじゃねえ! いいか美沙! 俺はおまえのことが嫌いじゃねえ! むしろ好きなほうだ! だがこんなのは違うぞオイ!!」

「ストレートに好きと言われるのは、なんだ。照れるな。式はいつにする?」

「やっぱバグってんだろォ!! 人の話を聞けよてめえッ!! ああいいやそれよりも!!」

「なんだ、旦那様」

「――――いいから服を着やがれッ!! 話は全部それからだッ!!」

 

 この痴女が、と悠は心底から思った。

 親代わりだったはずの女性に対して、本気で困惑しながら。

 

 

 


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