――――とまあ、一時期は正気を失いかけた私だったが。
「まって、結仁!」
「ああ、わかった。まってやるから。早くこい。遙」
「まって、まって……! ッ、ぜぇ、ひゅー……!」
「……遙、体力ないな……」
なんだかんだで同年代が貴重というのもあり、結局はそれらしい関係で落ち着いた。
まあたったひとりの幼馴染みが〝男〟というのは些か癪だが、騙し討ちを行ってきやがった昔の野郎どもに比べれば全然マシである。
まだ幼いのも相まって嫌悪感もない。
というか私自身が最高の精神安定剤になっているお陰でちょっとやそっとでは心に波風はたたないのだ。
……初対面の時は、間が悪かったというか。
偶々だろう、多分。
「ごめん……」
「あやまることはないだろう。ないなら付ければいい」
「そっ、か……」
「がんばれ遙。男の子はつよいほうがモテるらしい。たぶん
「……結仁もつよいほうがいい?」
「――――そうだな。うん、私はつよいほうが好きだ。うんうん」
「へぇー……」
それこそ血湧き肉躍る死闘を繰り広げられるのは良い。
己の限界点の間際で振り絞る力は時に交尾の快楽を上回る。
かつて獰猛だった過去を想起した。
仲間たちと角で突き合った時間が懐かしい。
そういう観点からすると、強い相手のほうが好きなのは事実だ。
なにせ根源は一角獣。
いまだ眠る本能は獰猛さの塊じみた獣性。
人間となった現在でも、その感覚は簡単に消えない。
「つよくなれるかな?」
「遙がそう思うならなんとでもなるだろう」
「そうかなあ?」
「そうだとも」
「どうして?」
「……私の幼馴染みだからな」
申し訳ないぐらい適当な返答だった。
ぶっちゃけいい文句が思いつかなかったのである。
なのでまあ、私としてはちょっと納得いかない言葉だったのに。
「じゃあ、がんばる。オレ、つよくなるよ。きっと」
「……そうか。それはちょっと、たのしみだな」
「そう?」
「そうだとも」
「どうして?」
「そんなの――――」
いやまあ、二回も言わせるなと。
◇◆◇
そんな口約束をした一週間後。
私の眼前では、顔を真っ青にしながらベッドに横たわる男子の姿があった。
「――――、――――ぅ」
「むりするな。遙」
「ごめん……」
「だから、あやまること……というか、本気でだいじょうぶか?」
「へーき。熱、さがったから。結仁のおかげ」
「おまえの両親のおかげだ」
「えへへ……」
「なぜ笑う」
現実というのはどうにも上手く回らないようにできているらしい。
いくら時代が変わろうともそれは同じだ。
意思の力だけでどうにかなるのならこの世に奇跡という言葉はない。
遙の身体は生まれつき弱かった。
病気というより体質に近いもの。
細かいところで言えば筋肉とか、代謝とか、骨とか血管とか、色々問題があるという。
……とんでもなく身勝手で、さらに言えば失礼かもしれないが。
そこに私は少しだけ、似たようなものを感じた。
「……がんばりすぎだ。たおれたらダメだぞ。自分はだいじにしろ」
「そうだね。うん。そうみたい。お父さんもそういってた」
「そうだろうそうだろう」
「結仁、おとなのひとみたい」
「そうだろうそうだろう」
「オレは、ぜんぜんダメだね」
「……そういうワケでは、ないが……」
欠陥を抱えて生まれたのはふたりとも。
度合いも方向性もまったく違うけれど、異常は異常だ。
遙はその体に。
私はこの心に。
あるべきものとは違う不足を抱えて生を受けた。
「ダメでもともと、ともいうからな」
「もともと」
「いろいろやっていけばいい。道はひとつじゃないぞ、たぶん。遙は遙の思うように、やりたいように、好きに生きていくのがいちばんだ」
「……いまいち、わかんない……」
「遙はいまなにがしたい?」
「遊びたい……」
「ならまずは体を治さないと。ゆっくり休め。そうしたらまた、なんとでもなるさ」
根拠のないコトを言っている。
その自覚はあった。
だからといってなにをどうするのか。
獣性に塗れていた、最近になってヒトになってきた私では経験が足りない。
強い言葉を叩きつけて心を折ればいいのだろうか。
それこそ惨い仕打ちだ。
酷すぎるだろう。
なにより、彼は彼でちょっと愛着みたいなものが湧いているのだ。
どうにも私は、遙が悲しむ顔を見るのが嫌いらしい。
「なんて言っても、私の幼馴染みだからな」
「――――うん」
嘘も方便という言葉は、気持ち悪いぐらい便利だなと思った。
◇◆◇
それから月日は流れて。
小学校に入ると、私の世界は一変した。
「それでね、お母さんがね――」
「ねーねー、昨日のテレビ見たー?」
「このふでばこかわいいー!」
女子、女子、女子。
右を見ても左を見ても女子。
視界の端、景色の片隅に男子はいるがとにかく女子。
男女それぞれ十数人程度のクラスだったがともかく女子である。
女子である。
大事なコトなので二回言わせてもらった。
〝ああ、これが天国――――〟
「結仁ちゃん笑ってる。なんかいいことあった?」
「うん。あった」
「そうなんだ、なになに?」
「いっぱい」
「そっかー! よかったねー!」
毎日が幸せの連続だった。
少女、小学生、すなわち穢れなき
それらが絶え間なく私の心に深く突き刺さってくる。
獣性は鳴りを潜めた。
私自身の純潔に加え、周囲に漂うこの清廉さが精神を鎮めたらしい。
本当に良かったとしか言えないだろう。
これこそ私たちが待ち望んだもの。
憎き人の世にこそ楽園は存在した。
パライゾはあったのだ。
エデンの園は、パラダイスは、極楽浄土は実在した。
それに加えて、
「遙! サッカーするぞサッカー!」
「わかったー! いま行くー!」
「……あまり無理するなよ、遙」
「うん、分かってる! じゃあね結仁!」
「……ああ」
年を重ねるにつれて遙の体調はよくなっていった。
まだ時折具合を悪くして寝込みはするが、普段の生活にはほぼ支障が出ない程度。
身体能力に関しても同年代における他の男子たちと比べて遜色ない。
嬉しいコトに、私の心配が杞憂に終わったワケだ。
素直に喜ばしかった。
――忙しない日々は続いていく。
充実した時間はあっという間に流れてしまう。
とくにこれといった不幸にも見舞われず、私も遙もすくすくと成長した。
関係性に大した変化はない。
付かず離れず、深くもなく浅くもなく。
どういうものかと訊かれればただ幼馴染み、とそう言えるような間柄。
私は私なりに女子の友人を、
遙は遙なりに男子の友人を持って、
そうやって、なにを思うこともなく育っていった。
「わたし、遙くんが好き」
忘れもしない。
六年生の二学期。
合唱コンクールが迫った十一月。
偶然机の中に忘れ物をして、教室へ取りに戻ったときのコトである。
その日はちょうど遙と
いちばん顔を合わせて、いちばん話をして、
たぶんいちばん仲の良かった女子だった。
殆どいつも一緒にいて、私にとっても相応に大事な相手だったように思う。
だからなのか、なんなのか。
手をかけた扉越しにその言葉を聞いた瞬間、私の頭は震えそうになった。
〝――――――――〟
扉は開けられない。
息を殺して一歩下がる。
胸には不思議と、奇妙な感覚がじわりと広がった。
分からない。
私の素性はただのケモノだ。
たかだか十数年人間として生きていても、そう簡単に根っこの部分は変わらない。
知らないこと、理解できないことは多かった。
人ではないからだ。
誰とも違うからだ。
呆然と息を呑む。
さっぱり分からない。
胸が苦しい。
うまく呼吸ができない。
ほんの一瞬、たった一回。
心の渦巻いたのは、誰かに向けたトゲだった。
それは一体誰なのか。
考えれば分かる。
愚かな私だ。
醜い私の根源だ。
いくら純潔によって心を穏やかに保とうと、その奥底では汚れた獣性が眠っている。
だから分かる。
それまでの私の思考をなぞれば答えは簡単だ。
きっと私は――――
――――遙に憎悪を向けてしまった。
そうだ。
そうに違いない。
そうに決まっている。
だって私だ。
処女に取り憑かれた純潔の申し子だ。
それが仲の良い女子に近付く男を、本能的に嫌ったのだろう。
つくづく終わっている。
私は深くため息をついて、その場を後にした。
「どうしたんだ、結仁。なんか変だけど」
「……いや、別に」
「別にって顔じゃないけど……」
「…………さっき、告白されてただろう」
「え、聞いてたの。どこで?」
「ごめん。偶々、耳に入った。……どうするんだ?」
「いや、断ったけど」
「あ――――そう……なのか……」
「うん」
そのやり取りが決定的だった。
安堵した私を彼はどう思ったろう。
……いや、印象なんて意味がない。
彼がどう思おうと、私にとっては明確な結論が出た。
やはり駄目だ。
許容できない。
今まで人として培ってきた理性で判断する。
難しく悩む必要もなく、
言い訳を並べ立てるコトもなく、
私という
小学生とはいえ想いは想いだ。
それを踏みにじるような心持ちなんてありえない。
恋路が叶わず安心するなどふざけている。
そんなのは人として間違っているだろう。
だから駄目だ。
ひとときでも胸に痛みを覚えてしまった。
たぶん、彼を憎んでしまったのだ。
救いがたい。
ここにきていま一度、己という魂の度しがたさを知った。
こんな生き物。
こんな思想の人間が近くに居ては害悪だ。
彼に良くない影響しか与えない。
絶対に、駄目だ。
自己嫌悪が最高潮に達する。
私は。
――――こんなのが。
遙の傍に居たままだと、彼が幸せになれない。
それがとても嫌だった。
だから――――