「どうだろ、結仁?」
きゅっ、とネクタイを結びながら遙が聞いてくる。
中学の制服はブレザーだった。
小学校が完全に私服だったため、どちらからしても慣れない格好。
同時にまだまだ珍しい代物でもある。
「……ああ。似合っているよ。男前だ」
「ん、そっか。なんか恥ずかしいな」
「胸を張れ。格好はついているからな。流石は遙だ」
「さ、流石? なにが……?」
「まあ、色々と」
本当に色々と。
複雑なモノを押し殺しながら自分も装いを整える。
隣同士、幼馴染みという関係は嫌ってもいなかったが、意識すると厄介だ。
進学ということで折角なら、と制服のお披露目をわざわざふたりでさせられるとは思わなかった。
「……結仁も」
「ん?」
「結仁も似合ってるよ、なんか大人っぽい。綺麗」
「…………そうか」
ふわりと微笑む顔から視線を逸らして、胸元のリボンを弄る。
〝――――――――ッ〟
……まただ。
そこまで彼を警戒しているのか。
たった一度のコトでそうも憎んでいるのか。
胸に広がる痛みは鉛のように溜まっていく。
彼の一挙手一投足に今まで知らなかった感覚が走る。
分からない。
今までなんともなかったのに。
今でも理性では彼に良くあるようと思っているのに。
私の本性は、ここまで汚れているというのだろうか。
「……行こう、遙。母さんたちに見せる番だ」
「うん、分かった」
「……あ、こら。ボタンはちゃんとしろ。裾も折るなっ。まったくおまえはっ」
「ご、ごめんごめん。なんか窮屈で」
「――――――、ほんとうに……」
本当に、なにをしているのだろう。
こんなのはもうこれまでだ。
時期だってちょうどいい節目になる。
なにを思うこともなく共に在るような日々は終わった。
この先どうなるかなんて私にも分からない。
いまはすっかり鳴りを潜めているが、いつ最悪の形でこの気持ちが発露するのか――考えただけでおぞましい気分になる。
だから、決断しよう。
決意しよう。
動かなければ変わらない。
私は醜悪な獣だが、この生はまさしく人のものだ。
ならば人のルールに、常識に、流れに従うのが当然の事。
郷に入ってはなんとやら。
人であるのなら、この獣性を撒き散らしてはいけない。
誰かの幸福を願えないのは間違っている。
私という欠陥を抱えた人間はそこが駄目なのだ。
彼の幸せを願うなら。
彼の人生に幸あれと望むなら。
私は彼の傍から、離れなくてはいけない。
彼の近くに、居てはいけない。
……それはそうと。
これは単純な、面倒な思考を一切挟まない私個人の直感的な意見として。
彼の制服姿は、目を見張るほど――思わず見入ってしまうほど、格好が良かった。
◇◆◇
――所詮、二度目の生だ。
人と獣の違いがあるとはいえ、私にとっての命はふたつめ。
生き抜いた先に誤って意識を繋いだようなもの。
なら、今生に拘る必要もとくにない。
なにより私は私で、言ったように息をして過ごしているだけで幸せだ。
優先するべきはどちらなのか、客観的に見ても明白だった。
遙に良い人生を送ってほしい。
本能ではなく理性でそう願う。
それを下らない
普通なら喜べるはずだ。
彼の幸せを祝福できるはずだ。
けれど私はそれができない。
どうせ人になりきれていない紛い物。
根っこから人らしく、なんて土台無理な話だったのだろう。
――小学校を卒業して、中学に上がった。
彼と接する時間は目に見えて減った。
私は新しい友人にも新しい環境にも恵まれて、忙しない日々を送っている。
それでいい。
それがいい。
幼馴染みだろうがなんだろうが、関わらないほうがいいのならそれが正解だ。
きっとそうだ、そうに違いない。
だって私は、彼が女子といるだけで胸がざわつくような、度し難い屑なのだから。
「――――あれ、流裂は?」
「休み? 昨日までは元気だったけど」
「あー、なんか体調崩してるっぽい。病気ではないみたいだけど」
「マジ? どこ情報?」
「本人。ライン」
「うわー、ご愁傷さまじゃん。誰かお見舞い行く?」
「流裂の家知らねえしなぁ……」
やがて。
数ヶ月経って、そんな日が回ってきた。
「へぇ、結仁。聞いたか?」
「聞いているよ。別に、休むぐらい大したコトないだろう」
「相変わらずだなァ……幼馴染みなんだろ? 心配とかしないんだ?」
「する必要がないからな」
当然だ。
遙の身体のコトは知っている。
驚くような情報でもない。
たまにある不調の時期だ。
昔と比べて大分良くはなったが、それでもまだ脆さは残っている。
とくに拗らせたりしなければ明日にでも登校できるぐらいになるだろう。
「いこう、夏鳥。次は科学室だ。早くしないと授業に遅れる」
「ん、了解。まァ、静かに過ごすのもたまには良いかもな?」
「…………そうだな」
絞り出した声は思っていた以上に小さかった。
どうしてかなんて分からない。
いまは考えたくもない。
わざと避けるようになった私と打って変わって、彼は積極的に話しかけようとしてくれた。
ありがたいことだ。
誰かにそこまで思われるというのは相応の幸せなのだろう。
けれど、それを甘受する資格は私にはない。
「あまり彼とは、関わらないほうがいいから」
「…………ふぅん」
すくなくとも、この胸の疼きが取れるまでは。
◇◆◇
――――なんて、思っていたのに。
「……………………、」
どうしてか帰路に着いた私の足は自分の家ではなく、スーパーに寄ってから彼の家まで一直線だった。
気付けば隣家の門の前。
表札を正面に愕然と固まる。
ほとんど無意識だった。
授業も終わって一時間程度で部活も切り上げて、さて帰ろうとひとりトボトボ歩いていただけなのに。
いつの間にか見舞いのリンゴなんか手に提げて、人差し指でインターホンを押しかけている。
ここまで、無意識だった。
〝――――なにがしたいんだ私?〟
正直混乱している。
ワケが分からない。
なにがどうすれば当たり前のように彼の部屋へ顔を出せる?
ついこの間まで意図的に離れようとしていた人間がどの面下げて?
馬鹿なのだろうか?
いや馬鹿なんだろう。
そうだ、思えば私は昔から頭が弱くて――――
「あら、結仁ちゃん?」
〝あ゛ッ〟
「……ありがとう、結仁……」
「…………礼を言う必要は、ない」
胸中で息を吐きながら項垂れる。
さっさと自分の家に戻らず固まっていたのが悪かった。
そんな場面を遙のお母さんに見られたのだから運の尽き。
きらっきらな笑顔で「さあさあ入って! あがって! ハルも喜ぶから!」と彼の部屋まで通されてしまったワケだ。
……本当、なにをやっているんだろう、私……
「……リンゴ、食べるか……? というか、食欲はあるか……?」
「……少しは。うん。全然食べる。……お願いしてもいい?」
「ああ、いいぞ。任せろ。大体、ずっとそうやってきただろう」
「……それも、そうだった」
自己嫌悪に苛まれながら果物ナイフで皮を剥いていく。
最悪だ。
なんでなんだろう。
私はいま、ここで、こんなコトをしていて良い生き物ではないのに。
彼にはもっとマトモな人と過ごしてもらいたいのに。
……もしかしなくても。
その位置を奪ってしまっているのは、やっぱり私なのだろうか。
だとしたらとんでもなく、最悪だ。
恥を知れと自嘲したくなる。
「……なんか、さ」
「ああ」
「安心、した。……最近、結仁、冷たかったから。なにか、悪いことでもしたかなと思って」
「……そうだったか?」
「うん。いや、オレの勘違いかもしれないけど。なんか、あんまり話せてないなって」
とんでもない。
遙はなにも悪くない。
悪いのは私だ。
終わっているのは私だ。
私の変えられない、醜い性根がいけないのだ。
「幼馴染みなのに、離れちゃったなって」
「……そういうコトでもないだろう」
ほら、この通り。
おまえと話すだけで、胸が、痛い。
「私とおまえと、家族だけで世界が完結していた時とは違う。……色々と繋がりが増えた。でも時間は限られていて、一日の長さも、おまえが使える長さも同じままだ。単純にひとりあたりと過ごす時間は短くなる。……それは別に駄目なことではない。関係性が広がるのは良いコトだ。みんなと仲良くなっていくのは素敵なコトだろう」
「…………それは、そうだけど」
「良いじゃないか。私以外にも、親しい相手がいる。頼れる誰かがいる。私にこだわる必要なんてない。おまえの時間だ。大事に使っていけ。たかだか幼馴染みひとりに無駄遣いするコトもない」
「………………」
くすくすと笑いながら口を動かす。
嘘ではない。
本心からそれは喜ばしいことだ。
彼が私以外の誰かを頼って、
彼が私以外の誰かを信頼して、
彼が私以外の
彼が、彼が、彼が、彼が、
遙が。
「結仁?」
「――――――――ッ、り、リンゴ。でき、たぞ」
「え、あ……ありがとう。ごめん、いつも」
「いい。……私の勝手で、していることだ」
呼吸が苦しい。
胸が痛い。
心臓が潰れそうだ。
彼の意識が食べ物に向いている隙に、押さえつけるよう胸ぐらを掴む。
わからない。
なんなんだこれは。
どうしてここまで彼に対して
そこまで遙が嫌なのか。
そこまで彼を嫌っているのか。
冗談じゃない。
理性ある私が好きなものをどうして本能が拒否している。
控えろ、黙れ、私は私だ。
彼のことを憎む私なんて、欠片も必要ない。
「――――無駄遣いとは、違うと思う」
「――――――――、は、ぁ……?」
「だから、さっきの話」
ふと、遙がリンゴを咀嚼しながらそう切り出した。
顔色はいつもと比べてすこし悪い。
でも悪いときの状態だと考えれば大分マシなほうだ。
真っ青になって寝込んでいたあのときから随分と良くなっている。
「たしかに友達とか、部活の先輩とか、関わる人は増えたし、時間も色々と取られるようになったけど、それをどう使うかはオレ次第っていうことだろう?」
「……まあ、そうだな……」
「じゃあオレは少なくとも率先して結仁に使いたい。幼馴染みなんだし、そのぐらいの贔屓はする。なによりみんな平等とか、オレできないし。そこまで性格良い奴じゃないし。いちばんが結仁なんだから、そこに時間を注ぎ込んでも無駄じゃない」
「しかし」
「要するに、なんか難しいコト言ってるけど関係ないよ。結仁との時間は、大事だ」
「――――――そう、か」
ぽつりと返す。
胸の痛みが一瞬取れた。
……ああ、おまえは凄いな。
とんでもないよ。
でも、だからこそ。
余計にそれは頷けない。
頷いてはいけない。
誰かに優しくできる彼なら、
誰かとの時間を大事と言葉にして伝えられる彼ならば、
もっとマトモで良い誰かと仲良くなれるはずだ。
こんな紛いモノ。
こんな醜い化け物にわざわざ執着するコトはない。
やっぱりそうだ、間違っている。
私と彼では生きていける世界が違う。
触れられるモノの価値が違う。
つり合いなんて概念があるのなら最初から取れていない。
だから駄目なんだ、遙。
私はおまえと一緒に居られない。
気持ちは嬉しい。
とても嬉しい。
もう、思わず笑っちゃうぐらい幸せになれる言葉だった。
でもな、駄目なんだ。
だって私は悪いヤツで。
おまえが誰かと居たら心がすぐにくすんで。
大好きなおまえと他人の幸せを望めないような、器の小さい生き物だから。
駄目なんだ。
なにもかもが。
きっとそうだ、すぐに気付く。
なあ遙。
はやく目を覚ましてくれ。
こんな馬鹿に付き合っても良いコトなんてない。
間違いなく、私が傍に居ないほうがおまえは幸せになれるんだから。