<Infinite Dendrogram> 王は今日ものんびりと自殺する 作:そらからり
111話 新しい世界
■未知を追い求める少女について
幼少期から知らないこと、興味を惹かれることを追いかけていたわけではない。
むしろ、その少女は大人しかった。
子供でありながら大人のように、無感情とまではいかないまでも感情的にならず、蟻が出入りする地面の小さな穴をただ見つめているだけのような子供であった。
少女には少し歳が離れた兄がいた。
少女と比べれば、兄は変わり者と評されている人物であった。
少女もまた、兄を変わった人間だなぁと感じていた。
海の底でじっと水面を見続けているような。
力がありながら、しかし力を隠したまま水底に沈んでいくような。
そんな、自ら底辺を望んでいる兄であった。
「下は気楽だ。這い上がることだけを考えていればいいからな。上に上がれば上がるほど、上がることと下がらないことを考えなければならない。2つ考えるよりも1つだけを考えている方が余裕も出来るだろう」
兄は言葉通り、ここぞという場面だけ力を発揮していた。
鳥が狙った獲物をかっさらうように。
実力を隠し、ふとした時に実力を見せることもあるような人間であった。
兄と比べれば少女は普通であった。
まともであった、と言い換えても良いのかもしれない。
少女は家族の中で唯一、まともであったのだ。
「2人とも仲が良くて良いわねぇ。これはご褒美よ」
母は事あるごとにご褒美と称して小遣いを渡してきた。
年齢に見合わない金額を、まるで毎日が元旦であるかのように大金を渡してくるのだ。
投資で儲けているから、と母の懐が尽きることは無く、むしろ渡された者の使い道が尽きる方が先になるかもしれないと錯覚するほどには、子供らは金を受け取っていた。
兄は早々に貯蓄を始めていた。それも秘密裏に。
周囲に金があることを見せびらかすよりも、むしろ金が無いように見せかけていたのだ。
対する少女はというと……欲しいものをとにかく買い漁っていた。
新しい玩具を、菓子を、遊び場所を。
とにかく欲しいものは全て手に入れた。
とはいえ、受け取った金額こそ年齢にそぐわないものであったが、欲しいものは年相応であった少女の買うものは高くても数千円といったところ。
蟻の巣穴を見つめることが趣味みたいな少女は、テレビコマーシャルで流れるような玩具が欲しくなったところで、すぐに興味を失ってしまう。
まだ宝石に目を奪われるような歳では無かったし、母も金を渡すくせに宝石店などへ連れていくことは無かった。
「ははは。欲しいものがあるのなら自分で掴みに行きなさい」
父はとにかくアグレッシブな人間であった。良い意味で。
とにかく家にいなかった。
時には兄や少女を連れ出して釣りや登山、キャンプなどへ連れて行ってくれた。
どれもこれも父がやりたかったことで、兄や少女が希望したものではない。
兄の底辺を望む感情も、母の金をばら撒く欲望も、少女の無気力な気持ちも理解したうえで自身を優先して動く人間であった。
少女だけがまともであったのだ。
いや、少女以外もまともだったのかもしれない。
家族に金を残したい母と、様々な経験を積ませたい父であったのかもしれない。
兄はよく分からない。
ともかく、少女は自身が家族の中で一番まともであると、そう思い込んだまま――父母の訃報を兄と共に聞いたのであった。
少女が高校へと進学してから間もなくの頃であった。
「……え」
「落ち着いて聞いてください。貴方達のお父さんとお母さんは今朝、ご遺体で見つかりました。〇〇山を登っているのか降りていたのかは不明ですが滑落したのだと思われます」
見られたものではない、と兄が言っていた。
何が、と返したら父と母の今の姿らしい。
獣や鳥に食い荒らされてしまったらしい。
「……これからどうする?」
「どうするって?」
兄が尋ねる。
その顔はすでに覚悟と決意に満ち溢れていた。
普段からは見られないような顔であり、少女は父母の死を忘れ兄の顔を見つめていた。
「幸い、金はある。……母さんが残してくれているからな。だから、俺がお前くらいを養うことの負担はない」
「なら、それでいいんじゃないかな」
「……そうか」
その時の兄の表情はどんなものだったのだろう。
落胆?
驚愕?
呆れ?
少女が父母の死を既に受け入れていることに対し、兄は何を思ったのだろう。
あまりにも簡単に死んでしまった父母の死を、あまりにも簡単に受容する。
「兄さん。分かったんだよ」
「……?」
だが、少女は父母の死を受け入れるどころか、まるで待ちかねていたのだ。
死んでほしかったわけではない。
ただ、解放されたかったのだ。
「手に余るほどの金を渡されても困る。手を引かれて知らない場所に行ったところで印象に残らない」
「……何を」
「だから、私はこれまで自分を受動的な人間だと思っていたんだ」
蟻の巣穴を見つめる幼い少女。
されるがままに、金を渡され、知らない場所へ連れていかれ、感情的にならず、しかし無感情にもならない。
親の都合の良いままに生きてきた。
故に、彼女は何も出来なくなってしまった。
暗く、底の深い巣穴の先をどうにか見ようと画策する毎日しか残らなくなってしまった。
「これが自由ってやつなんだね! ああ、父さんの言っていた言葉は正しかったのさ」
欲しいものがあったなら自分で掴みに行け。
その言葉は正しく、しかし父の行動こそ間違っていた。
「父さんは私達を様々な場所へ連れて行ってくれた。だけど、そこは私が行きたかった場所ではない! 私が行きたかったのは私が知らない場所であり、父さんも知らない場所だ。母さんも、お金をくれるから私は手に入れる喜びを薄れさせてしまっていた」
どちらも与えてくれていた。
だけど、違うのだ。
それは自分から掴みに行ってはいない。
「兄さんも分かるだろう? だって、兄さんも私と同じだ。私と同じでまともではない人間だ」
「……俺は」
何かを言いたげな兄の言葉を少女は先んじて消す。
「上がることだけ考えていれば楽だって? ははは、兄さんは性格が歪んでいるのを随分と好印象みたいに言うね。上にいる人間を下に叩き落すのが喜びなのだろう? それが兄さんの本性だよ」
「……」
兄は言い返せない。
少なからずそういった感情を自覚していたから。
少女の言葉に対して自身の言葉を発せない。
「……俺が異常なのはいい。だけどお前は普通だ」
「そうかい? 私は自覚しているよ。他人よりも自身の興味を優先する人間だってことをね。今までは抑圧されて我慢してきたけれど。それは与えられていたからだ。需要よりも供給が多すぎたからだ」
金も、経験も、もう与えてくれる父母はいない。
残ったのは他人を下から突き崩す兄だけ。
「ねえ、兄さん。世界はまだまだ未知に溢れているよ。キラキラと、輝いているよ」
世界は知らないことだらけだ。
知らないことを自分で見つけに行ける。
知らないことを知らない。
人間の短い生の中ではとてもではないけど足りない程の未知の数々。
「何をする気だ」
「何も? 別に魔王になりたいわけではないよ。これは意識の問題さ。学生らしく勉学に興じて、部活動に励んで、人並みに青春を送るだけさ」
違うのは、受動的であった人生が能動的になるだけ。
自身の意思で動くということだけ。
「楽しいね、人生は。ねえ、兄さん?」
「……そうだな」
そうして少女は兄と2人で暮らすことになった。
楽しく暮らすことになったのだ。
少女は自身の言葉通り、青春を送る。
誰が見ても楽しそうに、毎日がキラキラと輝いていた。
それから数年後、少女は――大学に進学した彼女は出会う。
新たな未知の世界に。
〈Infinite Dendrogram〉という未知に自ら触れるのだ。