<Infinite Dendrogram> 王は今日ものんびりと自殺する 作:そらからり
■レジェンダリア西部 アラハルト採掘場
途轍もなく惨めに。
これ以上なく哀れに。
絶叫を上げ、悲鳴を上げ、赦しを乞い、命を乞い、ひたすらに逃げ回る。
だとしても、何をしても、状況は一変しない。
追う影は増々濃くなり、深くなり、増え続ける。
「は! はははははぁ! 逃げ足だけは早いようだけどよぉ! それももう終わりだぜ」
影を操る主。
否、蚊の大群の主であるモストーンは嗤う。
口吻を器用に曲げ、高らかに嗤い続ける。
「俺の配下に吸われた生き物はよ、体液を一瞬のうちに失っちまうんだ。だからよ、てめえもからっからに干からび……あん?」
モストーンの配下が遂に白い獲物を捕らえる。
全身に纏わりつき、その肌に鋭い口吻を刺し、体液を啜ろうとし、しかしそれは叶わなかった。
そして、配下の内数十匹は獲物に容易く叩かれ殺されてしまう。
「……チッ。相変わらず耐久力だけは低いんだよなぁ。っつうか、その全身の……邪魔だなぁ」
白い獲物は白い体表では無かった。
それは衣服であり鎧。
呼吸のための穴すら無く、全身を覆っているソレは配下を一匹たりとも内部に入れず、口吻も貫かせない。
「……てんめぇぇ、生意気だぜ」
「……」
獲物はモストーンを一瞥し、そのマスクの中の表情こそ見えなかったが、その少しだけ様子を伺ったことこそが生意気な態度であるとモストーンを逆撫でする。
そして、再び獲物は走り出した。
「……チィィ」
追わなければ良い。
このまま、白い獲物は諦め、去れば良い。
だが……何故か蜜に群がる蜂のように吸い寄せられてしまうのだ。
水は甘いぞと、血は濃いぞと、そう促されるかのように。
「(第一段階はクリアだな)」
白い獲物――バウムはマスクの下で小さく安堵する。
計算通りに動けていると、自分を鼓舞する。
尤も、絶叫も悲鳴も慟哭も何もかもが本当のことだ。
逃げているように見せかけているのではなく本当に逃げており、逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
だが、このままモストーンを振り切るわけにはいかない。
蚊の大群を操るモンスター。
倒すにはバウムが適任だ。
プシュケーにもジャミラにも、相性は決して良くないのだから。
「(誘き寄せ、次は蚊を少しでも多く殺す)」
いわゆるフェロモン。
昆虫が好みそうな疑似的なフェロモンを【薬剤師】のスキルで作り出す。
即興で、簡易的なものであるため、あるいは気づかれているかもしれない。
いや、言葉の端々から伝わる通りの、あまり頭の良くないモンスターの可能性もある。
「(くそっ……まさか俺が蟲を集めるだなんて、な)」
昨日までの自分ですら考えられなかった行動だ。
トラウマを脱却したわけでも、忘却したわけでもない。
抱えたまま、覚えたままの行動。
手も震えるし足も震える。脳だって常に揺れている。
意識を失わずに済んでいることが奇跡のよう。
「(だが……ここで俺が踏ん張るしかないだろう。プシュケーが耐えようとしているんだ。俺だって……俺だって、少しくらいは男を見せないわけにはいかない)」
美しさに拘ったプシュケーが腐敗した自身の姿を見て、それでも正気に戻って来れた。
ジャミラもまた、一度は落ちた闇から這い上がった。
その姿を見て、何も感じなかったわけではない。
むしろ、自分だって何かしたいと、そう思うくらいには心が動いた。
その果ての現状だ。
蟲の大群に追われ、惨めな敗走兵を演じる哀れな男。
……その全てが演技と呼べるかどうか。
あるいは本心から出る言葉もあったかもしれない。
「あ、ああああああああああああああ!」
誘き寄せた大群を両手で叩く。
夏に現れる蚊を叩き潰すかの如く。
数こそ違えど、性質こそ強大であれど、蚊に対する対処法など限られている。
叩いて潰す。
古来より伝わる原初的な方法。
バチン、バチンとその手で潰れていくモストーンの配下。
その死骸は塵となって消える……こともなく、バウムの手の中で、もしくは地に落ちていく。
流石に既に吸われていた他者の体液が出ることは無かった。
「師匠様様だな。これくらいなら防げるんだからな」
マスクもスーツも、蚊の大群から身を守ってくれる。
その事実こそがバウムを正気で保ってくれる大きな要因であろう。
「これをパズズに取り込ませて……と」
本来であれば叩き潰すなんてことはせずに、【高位薬剤師】で殺虫剤でも作り出して殺したかった。
そうすれば蚊の大群であろうと瞬時に殲滅出来たであろう。
だが、それでは届かない。
蚊の主であるUBMの命までは届かない。
もっと致命的な威力にまで引き上げないと、もっと致命傷足りえる攻撃にしないと。
警戒されればそれで終わる。
今はまだ、叩き潰すしか能が無いと思わせないといけない。
「(まだだ……まだ……)」
「ひゃはは! 面でダメなら点で攻めろってな。兄者が言ってたぜぇ!」
蚊の大群がバウムの右側頭部に集まっていく。
口吻が一か所に刺さっていく。
交互に、連続して、回転すらして、そうしてマスクの一か所にだけ負荷をかける。
すぐにバウムは集まっていた蚊を叩き殺す。
集まっていれば殺すことも容易だ。
それに、パズズの殺傷性も高められる。
「まだ、まだ……!」
今の蚊の攻撃で少しだけ、マスクが解れている。
僅かな破損を確認し、バウムは考える。
「(仕掛けるまでの猶予が減った……が、相手も好機と捉えるはず)」
焦ってはならぬ。
パズズの殺傷性が十二分に整うまで、まだ発動は出来ない。
走るバウムを蚊の大群は追う。
数十、数百潰したくらいでは全く減ることは無い。
どこからか生み出しているのだろう。
「……ふぅ」
仕方ない、とバウムは足を止めた。
そしてモストーンへと振り向く。
「最初にお前を見た時」
「……あ?」
「ドラグロットとかいう化け物が吐き出したお前ともう一匹を見た時、俺が相手しなければならないのはお前だと感じていた」
「……何を言っている?」
ドラグロットから吐き出された腐りかけのUBM2匹。
腐りかけの死にかけは、見分けのつかない程に弱り切っていた。
だが、バウムはその違いを捉えていた。
見たくないからこそ。
認めたくないからこそ。
怖いからこそ。
目を逸らすことが出来なかった。
そのおかげで、フライヤーとモストーン。
両者のうち、モストーンの周囲に小さな蟲が羽ばたいているのが見えた。
ああ、これは嫌いな虫だと思った。
同時に、そのまま死んでほしいと思った。
ドラグロットの力が増しても構わない。
どうか、どうか、このまま小さな虫を操るであろうモンスターは倒れていてくれと。
「俺の望みは叶わない。こと蟲関係に関しては特にな」
今も尚、バウムに蚊は群がる。
手で払いのけても、潰しても、去ることは無い。
モストーンが手を振るう度に何処からか蚊は生み出される。
「(モストーンとかいうUBMと蚊の大群の結びつきは強い。即ち、パズズは有効)」
手の中のパズズを握る力が強くなる。
次第にパズズの熱は強くなっていく。
「すぅーはぁー」
呼吸を整える。
大丈夫、まだ空気はスーツ内で循環している。
蚊は一匹も侵入していない。
「だから、お前を倒すのは俺だと言っているんだ。倒せるからここに俺は立っている」
「……何を言い出すかと思えばよぉ。つまんねぇことだなぁぁぁぁ!」
蚊の大群がバウムのマスクだけを覆う。
黒が視界を染める。
「なっ――」
「もう壊れかけってことはわかるよなぁ? ちんたらと走っているのも限界ってこともよぉ。諦めて足を止めたのかと思えばおしゃべりなことだぜぇ」
右も左も上も下も。
全てが分からないまま。
恐怖に染め上げたまま、ただマスクを削ろうとする音だけが聞こえる。
そして、遂にはマスクの右側頭部に穴が空く。
空気がマスクの外へと漏れ出る。
空気がマスクの外から侵入する。
蚊の大群を巻き込むように。
「あ、ああああああああ!? やめ、やめて――」
「無理な頼みだぜぇぇぇぇ! 手こずらせた分、たぁっぷりと味合わせてもらうとしようかぁ」
「(……今!)」
パズズを握る手で穴の開いた場所を隠す。
頭を振り回す。
そのおかげか、一瞬だけ蚊の大群が振り払われ、視界が開ける。
すぐ近くにモストーンの声がした。
パズズを発動するなら――
「――怪しいもんは没収だぜぇ」
――時既に遅かったのかもしれない。
手からパズズの缶が弾き飛ばされた。
「……え」
「さっきからよぉ、見えていたんだよ。俺の配下がソレに吸い込まれていくのをよぉ」
モストーンの脚の1本にはパズズが。
そして、ソレは遠くへと投げ捨てられる。
「どうせ碌なもんじゃねえよなぁ? だったら、要らねえよ」
「(ああ……やっぱり)」
バウムの眼前にモストーンが迫る。
マスクの穴の開いた場所だけは右手で死守する。
だが、果たしてUBMの力に抵抗出来るのか。
……そもそも、マスク自体の強度が持つのか。
モストーンの脚がバウムへと伸ばされる。
長い棘のような、刃のような脚だ。
「(蟲になんて関わるべきじゃなかった)」
容易にマスクは切り刻まれた。