一本の長い通路を上坂は観客席のフロアに戻る。
ステージを見ればグリグリのライブが続いている。観客は熱気であふれ上坂はその人だかりに逆らう様に進みライブハウスを飛び出す。途中ロビーでクラスメイトから声を掛けられるのだが上坂は気づかない。
外は夕暮れの赤を越え夜になっていた。街灯や建物から溢れこぼれる光が血の気の悪くなったコンクリートに朱を差す。台風が上陸したばかりにも関わらず風が強く感じ、すでに落ち一ヶ所に集められた桜の花びらが前を横切る。
そんな少し強い風も人混みを必死に抜けた上坂には心地よかった。
息を整え走り出そうとした。
「澪くん、久しぶりだね」
「つぐ……」
「澪くん、ひまりちゃんのところにいくんでしょ」
上坂は黙って頷く。
「ひまりちゃんがどこにいるか知ってるの?」
「まあな。つぐがここにいるって事は、ひまりは家にいるんだろ?」
羽沢の家は商店街で苗字のまま『羽沢珈琲店』という喫茶店をしている。
そこは昔、幼馴染全員が何かあるごとに集まった最も思い出のある場所だ。
だからこそ上坂は上原の居場所を羽沢珈琲店か、上原家か、この二箇所に絞り込んでいた。
今、目の前に羽沢がいる事から上原の居場所が家だということはまず間違いはないだろう。
「澪くん、流石だね。正解」
羽沢は隠すことなく簡単に居場所を言う。
なんの躊躇いもなく。
誤魔化すなんて考えが最初からなかったかのように。
「やっぱりな」
「…………」
「…………」
「行かないの?」
羽沢は驚いた。居場所が分かれば、直ぐにでも上坂は飛んでいくとそう思っていた。
「俺だって早く行きたいよ。だけど……つぐはどうしてここにいるんだ? 何かあるからここで俺を待っていたんじゃないのか? それとも本当にひまりの居場所を親切に教えに来てくれただけなのか?」
上坂も気持ちが早まっているのか一度に複数の質問をする。
羽沢が居場所を教えに来てくれただけだとは思っていない。
優しさから出来ているような羽沢であっても、ただ居場所を教えるだけだなんて、そんな甘い事はしない。そこには目的がある。
「凄いね。澪くんには何でもお見通しか」
「分かるよ。だって幼馴染だからな」
フフッ、と羽沢は小さく笑う。
「本当はね、澪くんとお話するために待ってたの」
道路の上を転がる小さなアスファルトの破片を小さく蹴りながら呟いた。
「少しぐらいなら付き合うよ」
本当は今すぐに上原の下に行来たい上坂だが、向き合うと決めた以上大切な幼馴染の願いを無下には出来なかった。
「久しぶりだから沢山お話ししちゃうかも」
羽沢は首を大きく横に振った。
「時間かかるなら今度でもいいか? 流石に長時間は付き合いきれないよ」
向き合うとは言っても流石に一般的な子供の寝る時間までには話が終わらなければ上坂も困る。
「澪くんが、早くひまりちゃんの所に行きたいのは分かるよ。だけどね、ひまりちゃんにも気持ちを整理する時間がいると思うの」
その通りだ、と上坂は思ってしまった。美竹は『取り乱していた』と言っていた。経過した時間からして混乱は収まっているかもしれない。だが落ち着くだけの時間がない。
駆け足をしていた足はいつのまにか止まり、上坂は真っ直ぐ羽沢を見ていた。
上坂は自分の気持ちを大切にする余り、大切にしなければいけない人の気持ちを考えきれていなかった。
(変わらないといけない事が沢山あるな)
今までの上坂なら、ダメだな俺、と悲観的になったかも知れない。だけど今、変わる事を決めた上坂は違う。少しずつだが前へ進もうとしている。
だから、羽沢に諭されている筈の上坂の顔は穏やかだった。
「分かった、つぐの言うとおりにするよ」
「じゃあうちに行こっか」
上坂は羽沢の後ろを歩いていった。
向かった先は羽沢の家、『羽沢珈琲店』。異性におうちに招待されれば多少は何かを期待するかも知れない。しかしそうはならない。
これは決して上坂が異性に興味がないわけではないく、正確には
店の入り口には、曲線が滑らかな木の板に店の名前である『羽沢珈琲店』と大きく書かれている。
羽沢が入り口のドアを開けるとカランカランと金属同士がぶつかる軽い音が鳴り響く。
「変わらないな」
余りの懐かしさに言葉が漏れた。幼馴染もそうだが思い出深いお店も上坂の知る昔のままだ。内装も六年前とほとんど変わらず木材を中心としたシックな感じだった。
「本当は何度か改装の話が会ったんだけど、ここにはみんなとの思い出が詰まってるから変えないでってお父さんに頼んだの」
テーブル席に案内された上坂は一人された。どうしたらいいか分からず店内をキョロキョロと見渡していると、目の前に少し冷えた夜には湯気が立ち上るぴったりな温かいコーヒーが置かれた。
「私からのサービス」
コーヒーを置いた羽沢はテーブルの向いの席に座る。
「本当に久しぶりだね、いつ帰ってきたの?」
どんな話が来るのか身構えいた上坂は普通に世間話に肩の力が抜けた。
「四月からだよ。高校に通うために戻ってきたんだ」
上坂の報告を聞いた羽沢は勢いよくテーブルに両手をつき、身を乗り出した。
「じゃあ、ずっといるんだよね!」
テーブル越しに詰め寄る羽沢に上坂は圧倒され仰け反る。羽沢もそれに気づき、ごめん、と一言いい椅子に座る。
「つぐは怒らないんだな」
「何が?」
「会いに来なかった事だよ」
羽沢は一瞬考え、
「もちろん怒ってるよ。私達ずっと一緒だったのに、どうして会いにこなかったのって思うもん」
羽沢は真剣に怒っているが、顔は怒りとは遠い存在にあった。結局、優しさで出来ている羽沢には怒る事なんて出来ない。
「だけどね、そんな事忘れるぐらい、澪くんが帰ってきた事が
羽沢は極上の笑顔を向ける。
「私達はって、さっきその事について蘭にめちゃくちゃ怒られたんだけど」
「あ……その、蘭ちゃんは、ほら素直じゃないし、でも澪くんが帰って来た事、絶対嬉しいと思ってるよ」
揚げ足を取られた羽沢は慌てながらも、一生懸命に返す言葉を探していた。
「あはははは」
「もう、からかわないの」
「ごめんごめん」
上坂は羽沢が慌てふためく姿が面白くて笑う。
「そういえば澪くん、私達のライブ見てくれてたんでしょ、どうだった?」
羽沢は何か思い出したかのように肩が跳ね、目を大きく開いた。
本来であればライブに参加していた本人が思い出したと言う表現はおかしいと思うが、決して間違いではない。それだけ上坂が帰ってきたことは羽沢にとって衝撃的だった。
「正直、個人の技術はまだ拙いところがあると思う。だけどバンドとしての一体感だけは今日来てたバンドの中で一番だったよ」
羽沢は前半部分で思い当たる所があるのか複雑な顔をするが最後まで話を聞き嬉しそうだった。
「澪くんは厳しいな。だけど技術面も問題ないよ。最近練習を見てくれるコーチが出来たんだ。今はまだ教えてもらって日が浅いから、あんまり結果は出なかったかも知れないけど、その人楽器も教え方もすごく上手で、もう教わる事ばかり。だから次、澪くんが聞きに来た時は私達はもっと上手になってるよ」
羽沢は自信満々に胸を張りながら言う。
「そのコーチいい奴だな。無償で教えてもらってるんだろ?」
友達が褒められる事は嬉しかった。
「そうなるかな」
羽沢の言葉の歯切れが悪かった。練習を見てくれるコーチは、無償では見てはくれているが上司からの命令のため一〇〇%善意ではない。その例のコーチは初めこそ抵抗して嫌がっていたが、今では嫌がる振りをしていて実質一〇〇%善意なのだが羽沢含め幼馴染のメンバーはそのことを知らない。
「でも、凄くいい人だよ。今度紹介するね」
「大丈夫、紹介しなくていいから」
「どうして……?」
「知ってるから。あいつは、相沢綾人は俺と同じ学校の同じクラスで友達。そして俺のバンドメンバーだよ」
「本当に⁉︎」
羽沢の声が無人の店に響き渡った。
羽沢は驚いていた。目の前にいる涼しい顔をしている少年が、自分達のコーチと知り合いだと言う事、それもあるが羽沢が一番驚いた事は……。
「澪くん、バンドやってるって本当⁉」
余りの衝撃に、一度に信じられなかった。
上坂がピアノを弾ける事は知ってはいるが、上坂の母親が亡くなってから引けなくなったのも知っている。
「今日結成したばかりだ。まぁ、楽器はドラムなんだけど」
上坂は羽沢が何に対して驚いているか察し楽器名を答える。
羽沢はまた上坂のピアノが聴けるかと期待したが違った。
少しがっかりしたが、それでも嬉しかった。上坂が音楽を続けていた事が。
「だったら、いつか同じステージに立てるね」
「その時はよろしく、先輩」
「先輩は恥ずかしいから辞めてよ」
目の前で笑う上坂を見て思った。
上坂も自分達と同じようにバンドを組んだ。
そこにはどんな理由があったかなんて分からない。
ドラマや漫画のような凄いストーリーがあったかも知れない、それとも、なんとなくバンドを始めました。みたいな理由かも知れない。
だけど一つ言える事がある。
それは、また同じ場所に立っているという事。
だから彼にも知ってもらいたい。
「澪くん、私達がどうしてバンドを始めたか分かる?」
真っ直ぐ少年を見て少女は言った。
真剣な眼差しを向ける羽沢に上坂は首を横に振る。
「いいや」
コーチをしている相沢からもAfterglow 創設の話など聞いた事がない。
「答えはね、私達がずっと一緒にいる為なんだ」
「そうか」
羽沢の言う一緒に上坂は入っていない。そう思うと、思わず表情が曇る。
「中学二年生の時、蘭ちゃんだけ違うクラスだったことがあったの」
上坂は不安に思った。
人見知りの美竹が幼馴染と離れてうまくいくわけがない。
思っていたことが分かったのか羽沢は頷く。
「そう、澪くんの思っている通りだと思うけど、蘭ちゃんクラスにうまく馴染めてなかったの、だからみんな心配してみんなで出来る事を探したんだ」
思い出しているのだろうか、楽しそうに歌うように言葉を並べる。
「それがバンドか」
彼女達がどれだけ離れていても一つになれる場所、それがバンド。
「そうだよ」
そして上坂に優しく語りかけた。
「だけどそれだけじゃないんだ。私達がバンドを始めた理由」
「何があるんだ?」
「澪くんだよ」
羽沢の声に優しさが増し、まるで聖母のような優しさがそこにはあった。
「本当は、私達が集まれるなら何でもよかったの。だけどバンドにしたのは、種類は違っていても音楽を続けていたらいつかまた澪くんに会えると思ったからなの」
幼馴染は諦めていなかった。
上坂に会うことを。
慣れない音楽を始めてまで追っかけてきたというのに。
結局、上坂は逃げていただけだった。
初めから帰る場所はあったというのに。
飛び込む事が怖かった。
もっと早く向き合っていれば……
「そしたら今日、本当に会えてビックリしたよ。……って澪くんどうしたの!?」
上坂の目から涙が流れていた。
涙を流している上坂に拭くものを持ってこようと羽沢は立ち上がるが、腕を掴まえ離さない。
「俺の帰る場所は最初からあったんだな」
静かに涙を流しながら呟いた。
呟く上坂の手を羽沢は優しく握られていないもう一方の手で優しく包んだ。
「そうだよ。澪くんの帰る場所は最初からあったんだよ。ただちょっと長い家出をしていただけ」
握られた手はいつのまにか離れ、羽沢は隣に立っていた。
「だから……お帰り、澪くん」
羽沢は涙を流す上坂を優しく抱きしめた。
温かい体温に甘い香り、聞こえる心音そのすべてが心地よかった。
だが同時にこっぱずかしくもあった。昔、仲良く走り回った相手に母親のように優しく抱きしめられ頭を撫でられる、こんな恥ずかしいことはない。
それでも嬉しかった。鍵をかけずドアを開いて迎え入れてくれることが、
上坂は涙で顔を濡らし震える声で言った。
「ただいま……」
この言葉は、みんなと一緒に歩くための魔法の言葉に違いない。
流れた涙は止まっていた。
「その、ありがとう。……変な意味じゃないから」
上坂の顔は赤かった。羽沢も上坂の顔色から理解したらしく同じく真っ赤になる。
上坂はそんな気まずい空気を壊すように両手の平で自分の頰を叩き気合を入れる。
「よしっ!」
「行くの?」
勢いよく立ち上がった上坂に羽沢は聞く。
「いいや、行く前に一つやっておきたい事があるんだ」
「え……うそっ!」
羽沢は上坂の視線にあるものを見て口元を両手で抑える。
視線の先には黒いピアノが置かれていた。羽沢が小さい頃に練習していたピアノだ。上坂と羽沢は昔、このピアノを使ってよく知り合いばかりを集めたミニコンサートを開いていた。
上坂はそんな懐かしのピアノが置かれているカウンターのすぐ横にまで歩いて行った。
上坂は鍵盤を指で撫でた。長い間弾かれず置かれていたにも関わらず埃や錆なんてない。
そんな手入れが行き届いた鍵盤を撫で振り向いた。
「俺は、バンド仲間の綾人や春夏、そして学校の友達に、幼馴染の蘭、巴、ひまり、モカ、それにつぐ、みんなのお陰で俺は前に進む事ができた」
再び鍵盤を撫で、
「でも、結局これを弾けなければ俺の、上坂澪の物語は本当の意味で始まらないんだ。だから俺は弾くよ。みんなの元に戻る為に。だからつぐ、聞いてくれるか?」
「もちろんだよ」
上坂は椅子に腰かけ鍵盤に指をのせようとするが指が震えていた。
無理もない。上坂が最後にピアノに触ったのは母親が亡くなる前日だったのだから。
笑った顔、亡くなった時の感情が抜け落ちた静かな表情が脳裏に浮かぶ。
上坂は鍵盤から指を離し目を瞑った。
今日の出来事を思い出した。
四季に怒られた事、
相沢に諭された事、
戸山に勇気を貰った事、
美竹に拒まれた事、
宇田川に元気付けられた事
羽沢に励まされた事、
上坂は泣きたくなった。本当に自分がどうしようもない奴だと思えて、
だけど、
(大丈夫一人じゃない、俺には、みんながいる)
みんなの顔を思い浮かべると自然と震えは無くなっていた。
大きく息を吐き、もう一度、今度はゆっくり鍵盤の上に指を置き弾いた。
上坂が弾いているのは、ピアノが弾ける人なら誰でも弾けるそんな曲だった。
この曲は上坂が初めて弾けるようになった曲で上坂の原点だ。
ゆったりとした曲調が心地よく、先程まで指が震えていたのが嘘かの様に滑らかに鍵盤を弾いた。
ピアノの音は店中を包み込み、聴いている人全てがその曲の世界に入り込んでしまうそんな演奏だった。
上坂は余韻に浸っていた。ピアノから奏でられる音、鍵盤の重さ、冷んやりとした手触りピアノの全てが愛おしかった。
どうしてこんなに良いものを六年も辞めていたのだろう。
ピアノを弾き終えた上坂にはもう一生分からないだろう。
「どう……だった……」
振り返った上坂は恐る恐る聞いた。
六年もブランクが、羽沢をがっかりさせていないか心配だった。
「何も変わってない、私が聴きたかったあの音だよ」
涙が溢れていた。羽沢は涙がこぼれない様に指で涙を拭っていた。
「ねぇ澪くん、私達の出会いって覚えてる?」
「あぁ覚えているよ。コンクールだろ」
羽沢もピアノを習っていて、幼稚園の時のピアノのコンクールで二人は出会った。
「そうそう、それで私、澪くんの演奏を聴いて思わず声をかけたんだよね」
「あれはビックリしたな。それで家が近所だって事が分かって。あれからだよな、俺達が一緒にいるのって」
昔を思い出して懐かしくなった。
「始めは澪くんだけだったのが、ひまりちゃんに巴ちゃん、モカちゃんに蘭ちゃんみんなに出会う事が出来た。ありがとう澪くん、私をみんなに合わせてくれて」
真っすぐ感謝を伝えられ上坂は顔を赤くする。
「私、本当はね、澪くんの事好きなんだ」
あまりに突然だった。初めは冗談だと思った。だが、ほんのりと赤らめる顔がそうは思わさなかった。
「一目惚れなんだ。初めはピアノを弾いてる姿がカッコいいって思ったから、勇気を出して声をかけたの。どうしたらそんなに上手になれるの? って。でもね澪くんと一緒にいるうちにピアノを弾いてる澪くんじゃなくて澪くん自身に惹かれていったの」
優しく、困っている人がほっとけない。そんな上坂が羽沢は好きだった。
先頭で引っ張るような人ではなかったが、幼馴染が同じ方向を向くようにまとめていた上坂に憧れもあった。
幼馴染全員が上坂がいなくなった後も誰一人欠けず一緒にいるのは、まとめ地盤を固めた上坂のおかげなのだが上坂は知らない。
「つぐ、おれ……」
言葉が出なかった訳ではない出せなかった。たとえ逃げる行為だとしても上坂は羽沢を傷つけることが怖かった。
「分かってる」
羽沢は優しく呟いた。
「ひまりちゃんが好きなんでしょ」
「なっ!」
上坂は驚く。
「見ていたら分かるよ。澪くんいっつもひまりちゃんのこと見てたし。それにひまりちゃん以外みんな知ってるよ。澪くんがひまりちゃんが好きな事」
羽沢は笑いながら、からかう様な口調で話した。
「嘘だろ?」
上坂は突然の爆弾発言に開いた口が閉まらない。
「澪くんって賢い割に分かりやすいんだから」
おかしく顔をゆがめる上坂に羽沢はクスクスと笑う。
「振られたんだし、今日ぐらいはからかってもいいよね」
「…………」
どんな鈍い男だろうがそんなこと言われたら言い返せるはずがない。
「……つぐ、その……これからも友達でいてくれるか?」
とても振った相手に言う様な言葉ではない。傲慢ではあるが上坂はもう何も失いたくなかった。
からかっていた羽沢の口が止まる。
「もちろん。それに今更そんな事言わないでよ。私はこれからも澪くんの友達でいるつもりだよ」
「つぐ、ありがとう」
「もう、澪くんが変なこと言うから、これ以上からかうなんて出来ないよ。だからもうひまりちゃんの所に行っていいよ」
羽沢は店から追い出す様に上坂の背中を押す。
「澪くん頑張って、私応援してる」
羽沢は手を胸の前で小さく握る。
「ありがとう。絶対にひまりと仲直りしてみんなの元に帰るよ。だから……」
「だから?」
羽沢は小首を傾げる。
上坂は恥ずかしかった。
羽沢は知らないとは言え、普段言わない言葉(決めゼリフ)を二回も言うなんて、
「つぐ、次会う時は六人一緒だ」
「うん」
上坂は過去を乗り越えみんなの元へ帰る為に、暗くなった夜の町をかけた。
上坂を見送った羽沢の目から涙が溢れていた。
理由は分かっていた。上坂が上原の事を好きなのは知っていた。だけど本人から聞いたわけでもなく、あくまで観察してそう思ったからだ。
だけど、今日、上坂が上原が好きな事を直接聞いた時、羽沢の中で何かが崩れる音がした。
もしかしたら上坂は上原の事を好きじゃないかも知れない、そう例えれば母性や父性のような見守るべき存在という考えだ。
羽沢の中でもその考えはほとんどなかったかもしれない。
しかし、ゼロに近いその考えを羽沢は捨てきれなかった。
今日、上坂によってそのゼロに近い考えがゼロにされた時は本当は泣きたかった。だけど泣いてしまえば上坂はきっと羽沢の側にいてくれただろう。
だから泣かなかった、上坂の決心を鈍らさない為に。
だから泣かなかった、笑顔で上坂を送り出す為に。
だけど上坂は言った『友達でいてくれるか』と
その言葉に再び涙が出そうになった。だから涙を流す前に追い出した。
きっと次に会う時は、二人は恋人になっている。
だって、二人は両想いだから。
(私の大切で自慢の友達)
羽沢は流れる涙を慌てて服の袖で拭いた。
(こんな姿お客さんに見せたら失礼になっちゃう)
袖で擦られたまぶたは腫れるまではいかないが、見たら分かる程度に赤くなっていた。羽沢は赤くなったまぶたに気付かず、涙が止まったことに安心していた。
カランカラン、と金属同士がぶつかる軽い音が鳴り、お店のドアが開いて外から新しいお客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
太陽の様な眩しい笑顔で羽沢はお客を出迎えた。
こうして少女の一〇年以上にも渡る長い初恋は終わった。