上坂がいるのは一軒の家の前。小さくもなく大きくもないそんな普通の家だ。そして表札にはの苗字である『上原』と書かれている。
上原家は商店街から外れているとはいえ羽沢珈琲から近く、走った上坂に疲れは見えない。
だが目と鼻の先に上原がいると思うと、緊張で脈が早くなる。
上坂は大きく深呼吸をし、震える指でインターフォンを押す。ピンポーン、と電子音と同時に家の中から足音が聞こえドアが開いた。
「どちら様ですか?」
出てきたのは桃色の髪をした女性。上原の母親で名前は
インターフォンで誰が来たかを確認せず不用心に玄関の扉を開けた夏葵は夜に訪れた年頃の男の子の姿に少し警戒していた。
「お久しぶりです。上坂です! 上坂澪です!」
過去のことを考えれば名前を出したところで警戒が解けるとは限らない。むしろより一層警戒され、なんならバケツ一杯の水ぐらいかけられてもおかしくはないが叫ばずにはいられなかった。
「澪君なの!? 見ない間にカッコよくなって。待ってて今をひまりを呼んでくるから」
夏葵は上坂だと分かると警戒心がなくなり距離をつめてきた。無警戒さは上原が過去のことを話してないのかとさえ上坂は思う。
だが安心はした。嫌われていたのならば、まず合わせてもらえない。
「すみません、お邪魔します」
入り口を隔てる鉄のドアを開け上坂は夏葵の隣を横切る。許可もなく人の敷地に侵入することは不法侵入罪で通報されてもおかしくない。しかし上坂はフランクに話し掛けてくれた夏葵の優しさを信じ甘えた。
上原を呼んでもらうのは別に悪い事じゃなかった。ただ散々待たせた上に会いに来てもらうなんて恥ずかしいことは出来ない。
逃げた一回目とは違う上坂は正面から胸を張って上原に行きたかった。
他人の家にも関わらず上坂は玄関で靴を脱ぎ捨て階段を駆け上がった。
階段の段数は十三段。他の家と変わりはない。しかし上坂にはたった十三段の階段が学校の階段すべてを登るのか、と思わせるぐらい長く感じた。
許可もなく他人の家に入っていった礼儀も知らない少年の後ろ姿に上原の母親、上原夏葵は頬が緩んだ。
六年前引っ越した少年はやはり娘の元に帰って来た。夏葵はもちろん娘と少年の間に何があったのか知っている。子供ではない夏葵は小さかった少年の青臭い考えぐらいお見通しだ。
娘の口から出てくる男の子の名前は決まって不法侵入をした悪い少年だった。嫌、最近もう一人『綾人くん』というどこの馬の骨か分からない男の名前が出てきてきたが、もう可愛い娘の脅威にはならない。
今日はいつも以上に良く眠れそうだ。夏葵は伸びをする。
「さ~て、今日は……遅いから、赤飯は明日ね。おめでとうひまり、ひまりの六年間は決して無駄なんかじゃなかったわ」
夏葵は窓の開いた娘の部屋を見上げて小さく呟いた。
上坂は息を切らしていた。たった十三段の短い階段が上坂の体力を消耗させた。
勢いよく駆け上がった階段はスピードこそあったが無駄な動きが多く、それに加え地面を走るのと変わらない登り方をしたことで階段の角で足や脛を打ったり、あまつさえ踏み外し落ちそうになったりもした。
そんな短くも小さな冒険をした上坂は一つの部屋の前に立っていた。
何度も来たことのある部屋、六年前のこととはいえ今更間違えるはずがない。
部屋の扉には六年前にはなかった自分の部屋だと主張するプレートがかけられてそもそも間違えようがない。
その可愛らしいプレートは見るだけで女の子の部屋だと実感させるが、礼儀知らずの悪い少年はノックもせず勢いよく部屋を開けた。
「‼︎」
中にいたのは桃色の髪の少女、上原ひまり。上坂がどうしても会いたかった少女だ。服装はSPACEであった私服のようなライブ衣装とは違い、髪と色と同じ桃色の薄手のワンピースのパジャマに変りそれだけでは寒いのか上から水色のカーディガンらしきものも羽織っていた。風流にも夜風を楽しんでいたのか部屋の窓は開いており、手には写真立が握られていた。今は驚きの表情に塗り替えられているが、写真立を持ち乾ききっていない髪が夜風で揺れていた様子は儚く絵にも描けない美しさだった。
上坂は安心した。着替えられた服、乾ききっていない髪を見て少なくとも少女は入浴を済ませる程度には気持ちが落ち着いていた。
部屋の主の少女は上坂の姿に驚き手に持っていた写真立を落とす。落ちた写真立は小さな音を立てて落ちるが少女は拾おうとはしない。
少女は目の前の光景が信じられない、とばかりに上坂を真っすぐ見ていた。
「れ……い……? 澪がどうしてここにいるの?」
情報の処理が追いつかず、軽く混乱している少女に上坂は短く端的に答えた。
「ひまりに会いに来たんだよ」
短い言葉に混乱が覚めた上原は上坂を部屋に招き入れる。
「この部屋も変わったな」
上坂はあまりの部屋の変わりように呟く。以前は人形やぬいぐるみと言った可愛い物を詰め込んだ感じの部屋だったが、今ではファッション雑誌や化粧品といった年頃の女の子の部屋になっていた。
「そりゃあ私だって成長するもん」
自慢気に言う上原はベッドに腰かけ、上坂にも隣に座るように促す。
「久しぶりだな」
上原の隣に腰かけた上坂は呟く。
「六年ぶりだもんね」
上原の声は落ち着いていたが、それでもぎこちない。それは上坂も同じことで、二人はただ当たり障りのない会話をしているだけだ。
「…………」
「…………」
六年という時間が二人の関係をぎこちないものにしてしまった。
「……ねえ、澪……。どうして今日、私達を置いてどっか行っちゃったの?」
上原が言っているのは上坂がステージに上がる前の出来事だ。
「本当はみんなの傍を離れたくなかった。ひまりも知ってるだろ? あのキラキラ星歌ってたやつ。あいつ友達なんだ。だから助けたかった」
そむけた目は一向に上原を見ない。
怖かった。昔の友達より今の友達を優先するんだ、なんて言われてしまえば真実は違えど事実ではそうとしかとらえられない。
本当に救わなければいけない少女を置いていったのが何よりの証拠だ。
「澪は……昔の友達より今の友達を優先するんだ……」
「ち、違う。そんなことは───」
寂しそうに呟く上原の言葉を否定しようとした。しかし目の前には胸を痛めるような少女の姿はなく、にやりと笑う少女の姿だけだった。
「嘘に決まってるじゃん。もお、澪ったら本気にしちゃって。そんなに必死にならなくても分かってるよ」
上原は笑顔のままけらけらと笑っていた。だからこそ上坂は奥歯を噛みしめた。
上坂が六年前見た少女の最後の表情は怒り、泣いていた。こんなに笑顔が似合う少女から笑顔を奪ってしまった過去の自分自身を殴ってやりたかった。
「……ひまり、ごめん。長い間辛い思いさせて」
上坂はぽつりと呟き頭を深く下げる。
「本当はみんなに会うつもりはなかったんだ。あんなに傷つけたというのに今更どんな顔をして会えばいいんだって。でもみんなと同じくらい大切な友達が俺の背中を押してくれたんだ。それでここに来るまでに、みんなからひまりがどれだけ傷ついたかのか聞いた。どれだけ辛かったのかも聞いた」
感情が高まる。
「全部俺の所為だ! 俺があんな事言わなければひまりは辛い思いをせずに済んだ」
もっとまともな断り方をすれば、今とは違っていた。
「俺はただひまりに嫌われたかった。俺なんか忘れて自由になってほしかった」
きっと普通に振っても上原は待つだろう。
また会える保証がないのに何年も何年も、
だからわざと嫌われるような事を昔の上坂は行った。
だけど上原を傷つけただけだった。
「忘れられるわけがないじゃん!」
上原はボロボロと涙を流し、上坂の服の胸辺りを両手で力強く握り締めた。
上原の叫び声は部屋中いや家中に響いていただろう。
「私にとって澪との思い出は宝物なんだよ。それをどうして取り上げるの? そんな残酷な事しないで!」
それは言葉通り大切なものが取られたかのような訴えだった。そんな中、上坂は床に落ちた写真立に重なっている写真を見た。幼い日の上坂と上原のツーショットの写真。上原はなんともないように上坂を部屋に招き入れたが、大切な宝物を拾い忘れるぐらい動揺していたということだ。
「私は知ってる。澪が傷つけるだけの人じゃないって、だからあの言葉にも何か意味があるんじゃないかと思えた」
震える声で、それでも涙に負けないように強く噛み締めながら。
「私は知ってる。澪が優しい人だって、困っていたらいつも助けてくれた」
上原は知ってほしかった。
「私は知ってる。澪が素直じゃないってこと。素直な様に見えて以外に強がりでカッコばかりつける」
上坂澪がどんな人なのか。
「私は知ってる。澪が大好きな事。だから辛くてもずっと待っていられた」
上原は知ってほしかった。
「
みんなにとって上坂澪がどれだけ大切な存在なのか。
「だからみんなの所に帰ってきてよ! れいいいいぃいいいいぃぃぃ〜〜〜!!」
話す事も出来なくなった上原は上坂の胸で泣き続けた。
泣き疲れて上坂の胸で眠っていた上原は目を覚ました。
「あれっ? ここは……」
ハッと思い出し上原は驚いた勢いで上坂を突き飛ばす。
「うおっ」
突き飛ばされた上坂の体がベットに沈む。
「澪、大丈夫?」
「下がベットだったからなんともないよ」
上坂はベットに沈んだ体をゆっくり起こした。
「ねえ、私どれぐらい寝てた?」
子供の様に泣き疲れて眠ったのが恥ずかしかったのか、両手の人差し指を胸の前でくるくる回していた。
「せいぜい一〇分ぐらいだよ」
「よかったあ~」
安心した様に上原は胸をなで下ろす。
「なぁひまり、眠る前自分がなんて言ったか覚えるか?」
「その……覚えてるけど」
上原の言葉の端切れは悪かった。
それもそのはず、泣いて叫んだ言葉が冷静になった今、凄く恥ずかしかったからかだ。
「だったら……」
上坂は腕を伸ばし上原の額を軽く指で弾いた。
上原はどうして自分が叩かれたのか分からないと言った顔をするが答えはすぐに分かった。
「ひまり勘違いをしているようだけど俺は別に謝るだけにここに来たわけじゃない」
上坂は呆然とする上原に笑いかけ、
「俺がひまりの所、みんなの所に帰るってことも伝えに来たんだ。だから『帰ってきて』じゃなくて、『帰るんだ』よ」
上原は、涙が枯れるまで泣いた筈がまた瞳から涙が溢れていた。この涙は悲しみの涙ではない、幸せがあふれ出した喜びの涙だ。
上坂はそんな溢れ出す涙を指で優しく拭う。
「泣くなよ」
「だって〜」
子供のように間延びした声に上坂は笑った。
「泣いたらただでさえ止まっていた話が進まないだろ?」
「えっ、澪まだ何かあるの?」
上原は袖で乱暴に涙を拭い急いで涙を止める。
「そうだなー。この話が終わってようやく俺はひまりの元に戻れるかな」
「どんな話?」
上原が絵本を読む前の子供のような表情を浮かべるが、上坂の顔は赤い。
「ひまり」
真っ直ぐ上原を見る。見れば伝染したのか上原もかしこまっていた。
緊張する。
脈が早くなり、心臓の音もはっきり聞こえる。
走ってもいないのに呼吸が乱れて苦しい。
きっと六年前の上原も同じ、いやそれ以上だったに違いない。
それを上坂は踏みにじった。
(本当に最低な事をしたんだな)
今、この時になって初めて上原の気持ちが理解出来た。
上坂は大きく息を吸ってゆっくりと吐いて……
「俺はひまりが好きだ」
『好きだ』の一言だけでも死ぬ程恥ずかしいのに自然と言葉が、思いが、溢れてくる。
「俺は、これからも幼馴染みんなで一緒に歩いて行きたい。だけどひまり! ひまりの隣は俺が歩いていたい。ひまりが転んだら一番に俺が手を差し伸べ、俺が道を間違えそうになったら一番にが引き止める。そうして同じペースで歩いていきたい。ひまりが思っている以上に俺はひまりが好きなんだ」
上坂にとって上原が、
上原にとって上坂が、
一番でありたい。一番であって欲しい。
「……ねえ澪、それって私が大人っぽい女性になったから?」
笑っていた。だけどいたずらをするような悪い笑みだ。
『年上のお姉さんがタイプなんだ』六年前上坂が言った言葉だ。
ただ上原は”年上のお姉さん”を”大人”と認識していたようだ。
「ひまりのどこが大人っぽいんだよ。唯一大人なのはその大きな胸ぐらいだろ」
「なっ‼︎」
上原の雰囲気、幼さが残るあどけない顔からはとてもじゃないが大人らしさを感じられない。ただ胸だけは別で立派に育っていた。
真っ赤な顔の上原に満足した上坂は軽く笑い。
「年上とか大人とかそんなの今も昔も関係ないよ。ひまり、お前だからだよ」
上坂は左手で上原の体を抱き寄せ右手を頭に回し、
そして優しく口づけをした。