初めてのキスは暖かくて柔らかくそして甘かった。
唇だけじゃない、髪から匂う花のような香り、暖かすぎる体温、そして恥ずかしさで少し赤らめた頬、上坂が求めていたものがすべて腕の中にあった。
上原に抵抗するそぶりはない。
唇を離した上坂は上原が頬を染め上目遣いで見ていることに気づく。
二人を邪魔するものはいない。
上坂は柔らかな桜色をした唇に顔を近づける。
「結局、ひーちゃんとれー君は付き合う感じ?」
背後からの突然な声に上坂は肩が跳ねる。
失念していた。
嫌、決して忘れていたわけではない。なんせ今声をかけた少女も大切な幼馴染の一人だからだ。
文字通り目と鼻の先にいる上原は声の主が視界に入り目を見開いていた。
上坂は壊れかけたロボットの様に首だけをゆっくり動かし振り向いた。
考えてなかった訳ではない。ただ上原に会うまでの興奮の熱と、夜遅くに居る訳がない、という常識が深く考えさせることを止めていた。
上坂は一番簡単なことを忘れていた。
背筋が凍る思いをしながら振り返った先にはニヤリと笑った天使の皮を被った白い悪魔、
上坂の幼馴染の一人で、肩にかからない程度の短い白髪の少女。昔からパーカーのようなゆったりとした服装を好んでいたが、今着ているパジャマは確かに青葉好みのゆったりなものではあるが胸元だけがゆったりを通り越してぶかぶかだった。パジャマという服装なことから上原から借りたものだろう。かがめば中が見えかねないのにそれを全く気にしない程のマイペースさは六年前と変わらないが、眠たそうに垂れた目から光る何かが腹黒さを感じさせるようになっていた。
言葉を失った上坂に満足し青葉は口元を手で隠してなおニヤニヤと笑うが、問題は青葉だけではない。
その後ろにもあった。
「お前ら……いつからそこに……?」
幼馴染が勢揃いしていた。
公開羞恥プレイに顔が真っ赤になるのを通り越して乾いた笑みが浮かぶ。
にやけている青葉は手遅れな感じがするが、青葉の後ろに控えている三人の幼馴染の口から、今来たところ、と言うのを上坂は本気で願った。
「モカちゃんはひーちゃんが泣いたあたりから見てたよ。ひーちゃん達ずっと自分達の世界に入ってたみたいで気づかなかったみたいだし」
「あたし達はその……あれだな。仲直りしろとは言ったけど、まさかあそこまでいくとは……」
「もういっその事言ってくれー!」
宇田川は笑い言葉を濁すが、最後の言葉が全てを語っている。
羽沢は真っ赤な顔を両手で覆い隠していたが指の隙間から二人を除いていた。
そして、
「蘭……」
上原家に幼馴染が全員集合していると言うことはもちろん美竹の姿もある。約束通り宇田川が何とかしてくれたようだ。
美竹は睨む。それでもSPACEであった頃に比べれば穏やかだった。
「何びびってんの。あたしは確かにあんたをぶん殴ってやりたいと思ってる。でも、そんなひまりの顔見せられたら怒れる訳ないじゃん」
上原を見れば赤らめた顔で口角を軽く上げ上目遣いで上坂を見ていた。
「澪、あたしが言いたいのはたった一つ、またひまりを悲しませたら今度こそあんたを許さないから」
『許さない』そう言っていた少女がチャンスを与えてくれた。
きっと少女はかなり我慢をしている。
だったらただ甘えるのではなく、最大限彼女の気持ちに応えなければならない。
「もうひまりを悲しませるようなことはしないよ」
上坂はもうひまわりのような明るい笑顔を陰らすわけにはいかない。
「それにひまりだけじゃない、巴につぐ、モカ、そして蘭、みんなも悲しませたりはしないよ。……もし、もしそんなことがあったら、その時は好きにしたらいいから」
「……分かった」
「ありがとう、蘭」
「うっさい!」
一喝した後に美竹は小さく本当に小さく笑った。
まるで上坂がそう答えるのを待っていたかのように、
「それで~、結局ひーちゃんとれーくんは付き合うの?」
上坂は上原に視線を戻す。気持ちを伝えたがまだ答えを聞けていない。
部屋中に何とも言えない空気が漂った。
上坂は緊張で固唾を飲み込み喉をゴクリと鳴す。
上原はゆっくり口を開いた。
「澪、そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。キスまでしたのに断るわけないじゃない」
上原はキスの感触が残る唇を優しく指でなぞり顔を赤らめた。
こうしてと上坂と上原は恋人になった。
「ほんとみんなには迷惑を掛けた。俺に出来ることなら何でもするから」
上坂は駆けつけた幼馴染に頭を下げた。と言うよりは土下座だ。
幼馴染達にしたことを考えれば頭を上げることはできない。それだけのことを六年にも渡って上坂はしてきた。
「れーくんの土下座レア~」
「っていうか初めてじゃないか?」
「いい気味」
「もぅ、みんなひどいよ。澪がこんなに謝ってるってのに。つぐ~何とかしてよ」
「澪くんも今回ばかりは悪いことしたんだしいいんじゃないかな?」
「つぐまでひどいよ。みんながひどいことばっかり言うから澪の頭、全然上がらないじゃない!」
上原が指さすが、上坂の床につけた額はピクリとも動かない。
「まっ、からかうのもこの辺にしとくか」
「あたしはまだ全然足んないけどね」
「蘭、流石にもういいだろ。澪、もう頭下げなくてもいいぞ」
宇田川に言われた通り頭を上げると、上坂は驚いた。怒涛の一日があったにも関わらず幼馴染達は遠い思い出のように楽し気に話していた。
「でもほんと大変だったよな」
「ほんと」
「でも今日という日も、きっと私達にとって大切な思い出になるよ」
「私にとってはすでに大切な日だよ。ね、澪。……澪?」
他の幼馴染にとっては大変な一日だったかもしれないが、上原にとって今日は記念すべき恋人になった日であり、既に忘れる事の出来ない大切な日になっている。
そんな大切な日だというのにパートナーの表情は浮かなかった。
「あっ、ごめん。……いや、あんなことがあったっていうのにみんな切り替えが早いなーって思っただけ」
「そんなの決まってるじゃない!」
上原が勢いよく腕に抱き着き視線を部屋の入り口に向ける。上坂も視線につられ入り口を見ると、そこには笑っている幼馴染達の姿が。
「そうだよ澪くん。私達は何より澪くんが戻ってきてくれたことが憂しいんだよ」
「つぐ……」
羽沢だけではない、幼馴染みんなが同じ思いだった。
「澪、またあたしたちと一緒に居たいんでしょ? だったらいつまでも座ってないで早く立ちなよ」
「分かってる。蘭、そう急かすなよ」
上坂は腕に上原くっつけたまま立ち上がる。
「ねえ澪、さっきは聞いてなかったようだからもう一度言うけど、私達にとっては今日は大切な日だよね」
上原が不安そうに見るが上坂には上原が何に不安がっているのか分からない。
「もちろん大切な日に決まってるだろ? こうしてまたみんなの元に帰れたこともそうだし、何より……」
上原が一番聞きたいところで上坂の口がピタリと止まる。
顔を赤くしているわけではない、むしろ難しい表情をしていた。
「一番いいところだよね!? どうしてそこで止まるのよ~!」
上原は抱き着いていた腕を離し、上坂の肩を大きく揺さぶるが何も返ってこなかった。
「ひーちゃん、れーくんは気づいちゃたんだよ」
「モカ、澪は何に気づいたの?」
「何って、そりゃあこれから毎年みんなからお祝いされるってことだよー」
「おい、ちょっ、モカ!」
上坂は止めようとするが青葉は聞く耳を持たない。
「お、それいいな。やろーぜ」
「じゃあその日は、うちでお祝いしようよ」
いつもであれば青葉のからかいを止める側である宇田川、羽沢も今回ばかりは、散々迷惑をかけた上坂を懲らしめる為に敵に回る。
「えつ! みんなお祝いしてくれるの⁉︎ちょっと恥ずかしいけど……嬉しい。澪もそうでしょ?」
上原は腕に抱きついたまま、恥ずかしさで顔を赤らめながらも、上坂に満面の笑みを向ける。
「ひまりはちょっと恥ずかしいぐらいですむかも知れないけど、俺はなー」
今日一日で、かっこ悪い所、情けない所、泣いた所、沢山を見せてしまった。これが毎年、思い出話で蒸し返されると思うと耐えられない。
遠慮する、と口を開こうとすると、上原が捨てられる子犬のような保護欲をそそる目を向ける。
上坂は両手で顔を覆い大きなため息を吐いた。
「もう、勝手にしてくれ……」
上坂の諦めた反応に青葉、宇田川、羽沢、そして美竹まで笑う。一人、上原だけが何のことか分からず戸惑っていたが、みんなの姿を見て意味もわからず笑った。
お祝いも初めは青葉の冗談だっただろう。だが幼馴染達が乗ったことと、ましては当事者である上原が望んだ事によって嘘が真へと変わってしまった。
上坂はこれから毎年、今日という日にはからかわれるだろう。
記念日の数日前には、プレゼントは用意した? と急かされ、なんだかんだで上原を抜いた幼馴染みんなでプレゼントを選び、そして上原は仲間外れにされたことと、幼馴染全員の思いが入ったプレゼントに泣くのだろう。
楽しい未来予想図だが、少し疲れる。
一年は三六五日と長い。
だから、来年の事は来年の自分に任せよう。
上坂は覆っていた両手を離し笑った。
「あはははははは────」
今はみんなで笑いあえるのが幸せなんだから。
上原家から聞こえる笑い声は、窓も開いていた事から遠くまで聞こえていただろう。だけど、
上原の母親が近所迷惑だ、と怒りにくる事はなかった。きっとあるべき形に戻った事が嬉しかったのだろう。
「それじゃあ、私からお願いしていい?」
そうお願いしたのは上原ではなく羽沢だった。
「なんだ?」
「私、澪くんのピアノが聴きたいな」
「「‼︎」」
「つぐ、お前……」
羽沢を除いた幼馴染達は驚く。無理もない、上坂にピアノの話をするのは禁句だからだ。
「澪くん、どうなの?」
羽沢はわざとらしく、小首を傾げる。
だがそれは過去の話だ。
「つぐ、そんな簡単なお願いでいいのか?」
「そんな簡単な事がいいんだよ」
「じゃあ、喜んで弾かせてもらうよ」
そこには強要されたような嫌な顔も困った顔もない。あったのは良く知る男の子の顔だった。
二人はみんなを驚かせるべく、わざとらしく大げさに話した。
「つぐ、どうして澪がピアノ弾けるって知ってるの?」
今のわざとらしいやり取りを見たら、流石に誰でも羽沢が上坂がピアノを弾けるようになった事を知っているのだと分かる。
上原は上坂の服の裾を掴んでいるにも関わらず羽沢に聞く。まだ上坂本人に聞くのは怖いようだ。
「実は、澪くんがひまりちゃんの所に行く前に弾いてくれたの」
上原は上坂の顔を見てすぐに羽沢の顔を見た。
「ずるい、つぐ。先に澪のピアノ聴くなんて」
両手を軽く振って、いかにも怒ってますよっていうアピールをする上原に羽沢はそっと近づいて耳元で囁いた。
「これくらいはいいよね」
「?」
上原は言葉の意味が分からず首を傾げ、その顔を見た羽沢はクスリと笑い上坂を見て目配せをした。
「ははっ……」
上坂は引きつった笑みしか出なかった。
「ピアノを弾くって事は澪の家か?」
宇田川が切り出す。上坂の家には大きなピアノがある。その上、夜でも迷惑にならない完全防音の部屋で演奏するにしてもこれ以上ない環境だ。
だが羽沢は宇田川の提示したプランAに対しプランBを提示する。
「今日はうちのお店でお願いしたいの」
「そりゃ、また、どうしてなんだ?」
羽沢の言葉は、優しく言っているように見えるがどこか力強く感じた。
「せっかくの澪くんのピアノだよ。私達だけなんてちょっともったいと思わない?」
「……それもそうだな」
羽沢が頑固になるときは決まって考えがある。考えを言わない当たりサプライズか何かなんだろう、と宇田川は思う。
「つぐの所に決まったんなら早く行こ」
「蘭~、れーくんのピアノ好きだもんね」
「違っ、そんなんじゃない! ただこのままいたらひまりのお母さんに迷惑がかかるから……」
「蘭はほんと素直じゃないんだから~」
青葉が美竹をからかうが、誰も止めようとしない。
これが上坂がいなかった時間にできた彼女達の日常。
上坂もこれから少しずつ知らなかった彼女達の時間を知っていく。それが嬉しかった。
話が進まないと感じた上坂は部屋を出ようとした。
「澪、どこ行くの?」
「ピアノ聴きたいんだろ?」
行先は羽沢珈琲店だ。
「で、でも……」
言葉の端切れが悪い上原はなんだか恥ずかしそうにしていた。
「どうしたんだ?」
「私とモカこんな格好だし、着替えないと」
上原と青葉の格好はパジャマ姿だった。
「れーくん、締まんな~い」
「うるさい! モカ、お前も早く着替えろよ」
格好を付けたのに空振りをした上坂は、顔を赤くして部屋を出た。
上坂、宇田川、羽沢、美竹の四人は玄関で二人を待っていた。
最初上坂は玄関で一人で待つと言ったのだが、美竹が、あんた絶対覗くでしょ、と信頼ゼロの言葉によって必要のない見張りが付くことになった。そして二人では心配だと宇田川もついてき、だったら私も、と羽沢もついてきて今に至る。
「遅い」
それが上坂の感想だった。
時間としては何十分も掛かっているわけでもなく精々一〇分程度だろう。
だが上坂家の家族構成は上坂と父と弟と男オンリー、女の子の身支度が時間がかかるなんてことは知らない。
「澪くん、女の子は着替えに時間がかかるもんだよ」
「そんなもんか?」
「でも、モカにしては長いよね」
「たぶん、ひまりにあれこれ言われてるんだろ」
遅いのは上原が原因だと幼馴染は言う。
上坂もファション誌や化粧品が揃えられている部屋を見た時から薄々そうではないかと疑った。
「ごめーん、おまたせ」
謝りの言葉と同時に、ドタドタと上原が階段を降りてきた。後ろには着せ替え人形にされたと推測される青葉がげっそりとした顔で降りてきた。
青葉は別にファッションに無頓着ではない。ただ持ち前のセンスで簡単に服を決め手いるため、今日のような着せ替え人形は慣れていない。
上原の格好はごめんと謝る割には隙なくバッチリオシャレをしており、今から高級フレンチのデートにでも行くのか、と思わせるほどだった。
「あれ、澪どうしたの?」
「澪くん、女の子の着替えが時間かかるなんて知らなくて……」
「待ちくたびれちゃったって訳? だからひーちゃん言ったじゃん。早く着替えて行こーって」
青葉も余程着替えの時にしんどい思いをさせられたのか、追い討ちをかける。
「だったら先に行っててもよかったのに……」
「先に行ける訳ないだろ」
ぐったりとした上坂が両手で膝をついてゆっくり立ち上がりドアに手をかける。
「俺達は六人一緒なんだから。それとひまり、その服似合ってるよ。待った甲斐もあった」
夜風は涼しく、上坂の熱を持った頬を冷ましてくれた。
後ろには幼馴染達が付いてくる。
いつも上坂が先頭を歩いているわけじゃない。
今日がたまたまな上坂なだけ。
幼馴染は皆平等。
誰が一番でも誰が最下位でもない。
みんなが同じ。
その証拠に後ろから、からかいや冷やかしの声が届く。
それが隔てる心の壁がもう存在しないと証明する。
上坂は嬉しかった。
溢れた笑顔は誰に見せなかった。
だって、何もないところで笑うなんて、恥ずかしいから。
だけどその笑みを崩さない。
だって、これからずっとみんなと笑っていけるから。
そう思うと笑わずにはいられなかった。