六年前を覚えている   作:海のハンター

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今回は初の10000字越え。頑張りました。


15話 『ライバル』

 先日の一件から少し時は経ち五月中旬。

 春も後数日で終わり、そろそろ風通しの悪い学ランでは熱く感じシャツ一枚の夏服が恋しい頃。上坂は一枚の紙きれを見ては必死に感情を抑え込んでいた。

 

 上坂は先日の彼女出来ました宣言で男子に相手にされなかったが、幸運にもそれは先週末にあった中間テストと共に終わった。

 自由を手に入れた男共にとっては上坂の事なんてどうでもよくなっていたと言うよりかは相手が他校の生徒だと言うのが一番の理由だ。美少女が揃う花咲川で争うライバルが減った事は男共にとって朗報でしかない。

 ただ上坂の恋人が美少女だと知れば再び同じようなことになり兼ねないということもあり上坂はクラスメイトに相手がどんな子か教えていない。

 それでも全ての情報を遮断することは不可能で、『どんな子?』と言う質問に対し『危なっかしくてほっとけない子』と上坂は言うのだが視線は戸山に集まり、危うく戸山と付き合っているというありもしない噂が広まりかけた。

 

 そんなひやりとした過去も一枚の紙きれの力によって綺麗に塗りつぶされた。

 

「澪、テストの結果どうだったんだ?」

 

 予鈴と一時間目が始まる間の五分の短い自由時間。本来授業の準備をしなければいけない時間なのだが、金髪のイケメン四季春夏(しきはるか)は準備もせず楽しそうに話しかける。

 四季のお目当ては上坂の持つ紙切れもといテストの結果が書かれた紙だ。

 

「そういう春夏はどうなんだよ」

 

「俺か⁉︎俺はそうだな〜、いつもどうりだぜ」

 

 楽しそうな顔から一変、四季は慌て言葉を濁す。

 

「春夏、自分が自信ないのによくその話切り出せたな」

 

 上坂に先を越され傷ついた心が癒えなかった四季はテストの直前まで引きこもっていた。

 そんな奴がテストで点を取れるなんて考えにくい、と言うよりも、慌てる表情からおおよそ想像はつく。

 

「俺はまだ言ってねえだろ。そ、そんな可哀想な目を向けてくんなよ! 俺の事はいいんだ、澪お前の順位はどうなんだよ!」

 

「俺か? 見ても後悔するだけだぞ?」

 

「澪、そんなこと言って結果悪かったんだろ? なんせ彼女が出来たんだもんな。さっ、澪が無様に落ちた瞬間を拝んでやるぜ!」

 

 四季が上坂の持っている紙を取り上げ中を見る。

 

「はぁ! 一位!」

 

 学年順位が載ってある右端の数字には一の数字が堂々と書かれていた。

 花咲川高校は四○人、七クラスの約二八〇人で上坂はその頂点に立っている。

 入学して直ぐの実力テストでは一桁ギリギリの順位だったが、今回は幼馴染と仲を取り戻し後ろめたい気持ちがなくなった事で集中でき今回の結果となった。

 

「言っただろ、後悔するって?」

 

 初めての一位は嬉しく、四季から紙を取り返す際、上坂は顔は悪い笑みを向ける。

 四季の大きな声によって瞬く間に結果はクラス中に広まった。クラスメイトの大部分を占める女子からの賛辞が追い打ちとなり、四季は机に突っ伏した。

 

「春夏、落としたぞ……」

 

 拾ったのは長方形の紙、中には()()()数字が書かれていた。

 上坂は黙って紙を半分に折りそっと四季の机の上に戻した。

 

 

 

 ホームルームと同時に上坂は鞄を手に取る。部活をしていない上坂には放課後、学校に残る理由はない。

 

「澪くん、教えて」

 

 視線をあげるとなんちゃって猫耳少女戸山香澄(とやまかすみ)が立っていた。

 

「教えるって勉強?」

 

 一位を取って調子づいていたこともあるが、戸山がテストの結果を見て青い顔をしていたのを知っているからだ。

 

「勉強もそうだけど、今日は楽器かな?」

 

「別にいいけど、香澄ギターだよな。普通俺じゃなくて綾人に頼むんもんじゃないか?」

 

「綾人くんは今日用事があるんだって」

 

 相沢はRoseliaと上坂の幼馴染達Afterglowのバンドの指導をしている。幼馴染達から練習があることを聞いていない辺り今日はRoseliaの指導なのだろう。

 上坂も一度、上原に強制連行されAfterglow の練習を見に行った事がある。相沢の教え方はとても分かりやすく感性だけ上達した上坂とは違い立派にコーチをしていた。

 

「じゃあ春夏は?」

 

 朝、泣き散らかしていた奴もベースとギターの両方が弾け、指導経験がないにしてもギターが弾けない上坂に比べたら明らかにましだ。

 

「誘い辛いなら俺が……」

 

「俺は参加するぜ」

 

「あっ、春くん」

 

 春くん? 

 

 戸山の突然な呼び方に上坂は理解が遅れた。

 

「香澄が楽器教えて欲しいって頼んで来たから行くんだけど、なんか他の楽器の子もいるみたいだし澪も誘ったらって言ってみた」

 

「あー、そういうこと」

 

 返事をするがいまいち話が頭に入ってこない。

 四季と戸山が話しているところは見たことがある。だが愛称で呼ぶまで仲良くなっていたことを上坂は知らない。

 

「春夏と香澄って仲良かったんだな」

 

「うん、友達」

 

「友達って正面から言われると照れるぜ。……でもそうだな」

 

 二人が笑い合う異様な空間に話を振った上坂が無理やり話を戻す。

 

「楽器教えるって言っても俺ギターは出来ないぞ」

 

 上坂の担当はドラムとキーボード、戸山はギター、かすりもしていない。他の子がいると言ってはいたが相手は同じクラスでふんわりとした黒髪の少女、牛込(うしごめ)りみだろう。

 

「澪くんにはキーボードと後ドラムで曲を合わせて欲しいの」

 

「なぁ香澄、なんで俺がピアノ弾けるの知ってるんだ?」

 

「俺が教えた」

 

「やっぱり……」

 

 上坂は別にピアノを弾ける事を隠していたわけではない。ただ話していなかっただけだ。

 

「すっごい上手なんだよね」

 

 瞳を星のようにキラキラさせた戸山が顔のすぐ近くにまで詰め寄る。

 

「まぁそれなりには……」

 

 体を後ろにそらした上坂はブランクのせいもあった素直に上手と言えなかった。

 

 

 

 上坂は戸山達の練習場所である音楽室に向かった。

 花咲川では吹奏楽部や軽音楽部などと言った音楽関係の部活はない。軽音楽部に関してはこの地域自体がガールズバンドが盛んな為わざわざ部活に入らずともバンド人口が多い。吹奏楽部に関しては完全に管楽器の人気が弦楽器に負けているため、昔はあったものの今では廃部になりなくなった。

 

「ほんとはおたえにギター教えてもらうはずだったんだけど今日バイトが入ったから来れなくなって」

 

 戸山、上坂、四季の三人は並んで目的地へと向かう。

 目的地は聞いていない。戸山が、着いてからのお楽しみ、と言って頑なに教えてくれない。きっと大したこともないだろう、と思いつつも上坂は黙って戸山の隣を歩く。

 

「で、俺らを誘ったって事か」

 

「おたえって誰?」

 

「澪くん知らないの⁉︎」

 

 上坂の呟きに戸山は驚愕する。

 

「だからおたえって誰?」

 

「同じクラスの花園さんの事だぜ」

 

 上坂はクラスメイトの名前はもちろん覚えているが、流石に愛称までは把握しきれていない。

 

「なんで春夏が花園の愛称を知ってるんだ?」

 

「そんなの香澄に聞いたからに決まってるからじゃねえか」

 

 四季が女子(戸山)と普通に話せていることに感動すると同時に、女子と話しただけで慌てていた四季が懐かしく寂しくなった。

 

 

 

「とおちゃーく」

 

 上坂が案内されたのは大きな教室だ。入り口には『音楽室』とプレートが刺さっている。

 

「なぁ香澄、いつもこんな所で練習してるのか?」

 

 バンドを結成しているならまだしも、まだメンバー募集中の戸山が音楽室のようなサイズも設備も申し分ない教室を練習のたびに借りれるはずがない。

 

「違うよ。いつもはね、有咲の家の蔵でするんだけど……有咲って言うのはキーボードを弾く子の事でね」

 

「つまり俺達が来るから今日は音楽室ってことか」

 

「どうして分かったの⁉︎」

 

「分かるよ、そのありさって子も初めて会う奴がいきなり家に来るなんて嫌だろうしさ」

 

 そう言って上坂は音楽室のドアを開けた。

 

「遅いぞ!」

 

 鋭い声が聞こえ、上坂は声の主である金髪のツインテール少女と目が合った。

 鈍い金髪に高い位置でとめたツインテールに制服の上からでもわかる大きな胸。先の捻じれたツインテールが一昔前のお嬢様のようだった。

 少女はドアを開けてすぐの所で仁王立ちをしており、今か今かと戸山を待っていたことは一目瞭然だった。

 

「すみませ〜ん、人違いでした。オホホホホホー」

 

 上坂を見た少女は間違えた事が恥ずかったのか何事もないように音楽室に引き返した。

 

 上坂はあまりに先程との違いに声が出なかった。

 きっと最初のが素で、このお嬢様の様な話し方ら演技なのだろう。

 

「有咲ごめーん」

 

 戸山が上坂の隣から飛び出した。

 

「あっ、香澄ちゃん」

 

 黒のショートボブの少女牛込(うしごめ)りみがアンプにコードを繋いでいた。

 

「戸山さんだめじゃないですか、遅くなるならあらかじめ教えてくれないと。今度からは気をつけて下さいね」

 

「どうしたの? いつもと違うよ、変なものでも食べたー?」

 

「ブフッ」

 

 戸山と必死に猫を被る少女のやり取りが面白くて上坂は思わず吹き出す。

 笑い声が聞こえてしまったのか、猫被り少女が睨みつけるがたが直ぐに優しい表情に戻した。

 

「おい、お嬢様って本当に居るんだな」

 

 そんな猫かぶり少女のバレバレの大根芝居に親友四季は騙されていた。

 

「お嬢様にあんまり夢を持つなよ。それにが思ってるほどお嬢様って良いものではないぞ」

 

「澪にお嬢様の何が分かんだよ!」

 

「いや、分かるよ。嫌っていう程な……」

 

 思い出しただけで冷や汗が流れる。

 昔、遊びに付き合わされた自由の権化といっても過言ではない少女を思い出して、

 

「俺はお嬢様全員がアレならお嬢様なんて滅んでしまえばいいと本気で思う」

 

 上坂は遠い目をした。

 

「お……そうか」

 

 上坂の思いもしない反応と言葉に四季は口を閉じる。

 

「戸山さん、あちらの方は誰なのですか?」

 

 ようやく話が終わったらしく猫かぶり少女は上坂と四季について尋ねる。

 

「そうだ忘れてた。今日私達に教えてくれる澪くんと春くん」

 

「「よろしくおねがいしまーす」」

 

「こちらが市ヶ谷有咲(いちがやありさ)。有咲って凄いんだよ〜。キーボードも上手だし、勉強もずっと一番だし……」

 

 市ヶ谷を紹介する時の戸山の声は弾んでいたが、ふと何かを思い出したかのように口が止まる。

 

「そう言えば澪くんが一番って春くんが言っていたような……今回のテストどうだった?」

 

 戸山がダイナマイト級の爆弾を落とす。

 

「残念ながら二番でしたわ」

 

 聞かれた市ヶ谷は何とか笑顔を保っているが笑顔が引きつっており、上坂はとても生きた心地がしなかった。

 

「あなたが一番でしたのね。負けた事は正直悔しいですが、次は負けないように頑張りますわ」

 

「あぁ……」

 

 無理して笑う市ヶ谷の笑顔に威圧され上坂は言葉が詰まった。今も市ヶ谷は頭の血管がひくつかせいつ破れてもおかしくはなかった。

 

「牛込さんも待ってる見たいですし、早く練習を始めましょう」

 

 これ以上戸山に余計な事は言わせまいと話を無理矢理切った市ヶ谷は、隣の教室にある音楽準備室室から用意したと思われるキーボードの所へ戻っていった 。

 

 

 

 戸山達は練習を始めたものの曲を合わせたりしなかった。

 

「春く〜ん、このコードが分かんない」

 

 何故なら戸山は全てのコードをまだマスターできておらず、曲を合わせるまでのレベルには至らなかった。

 四季も本来得意なのはベースなのだが戸山が余りにも分かっていないため、戸山につきっきりだ。ベース担当の牛込は練習が始まってからずっと一人で黙々と練習をしている。

 

 四季が丁寧に戸山にコードを教えているのを上坂はぼーっと眺めていた。

 

 春夏、彼女が欲しいなら戸山でいいんじゃないか? そんな高校生らしい事を上坂は考えていた。

 

「貴方は先程から練習を見てばかりですね。どうして来たのですか?」

 

 隣では笑顔を辞めた市ヶ谷がキーボードの鍵盤から手を下ろしていた。

 口調は丁寧でもやはり負けたことのないテストで負けたのが悔しく話す言葉の所々に毒が含まれていた。

 

「香澄に頼まれたからだよ。見てるのも俺はあんまり教えるの上手くないし、それに俺の担当は香澄と違って優秀みたいだし、まぁあまり言う事がないんだよな」

 

 実際市ヶ谷のキーボードは申し分なかった。

 聞いてる限りじゃ音も安定していて、昔から鍵盤を触っていたそんな音だった。

 

「そういえば貴方楽器は……」

 

「ドラムと後キーボード……になるのかな?」

 

「どうして疑問系なのかしら?」

 

「ピアノは弾けるけどキーボードは弾いた事ないんだよ」

 

 市ヶ谷はクスクスと笑い。

 

「ピアノとキーボードはそんなに差はありませんわ。私だって初めて一ヶ月も経っていませんもの、あなただってきっと大丈夫ですわ」

 

「そうなのか、だったら俺も初めて見ようかな?」

 

 キーボードを初めるにしてもまず買わなければいけない。機能、メーカー、価格これから調べないといけない事が沢山ある。

 上坂はキーボードについてぶつぶつと呟いていた。

 

「あなたお名前は?」

 

 振り向けば市ヶ谷の顔は赤くなっていた。猫を被らないと人付き合いのできない不器用なお嬢様が精いっぱい振り絞った勇気。

 始めてから一か月もたっていないと言っていたことからきっと上坂が同じ楽器を担当する初めての知り合いなのだろう。

 

「澪だけど」

 

「苗字のことです」

 

 質問の意図が伝わらず市ヶ谷は呆れた顔をしていたが笑ってもいた。

 

「上坂」

 

「上坂……」

 

 苗字を聞いた市ヶ谷は上坂の名前を噛み締めるように呟くと、赤くなった顔はみるみると青くなっていった。

 

「上坂って……あの……コンクールに出ては金賞を持っていったあの上坂か?」

 

 猫を被る事もできないほど動揺した市ヶ谷は確認するかのように恐る恐る話した。

 

「まぁ俺も昔は、コンクールで金賞は取った事はあるし、同姓同名も聞いたことないから多分そうなんじゃないか?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()は市ヶ谷が心を開いたと上坂は思った。

 

「なんだ市ヶ谷、俺の事知ってるのか?」

 

 目の前にいる市ヶ谷の変化に気づかず、上坂は昔の知り合いだと思い声が弾む。

 

「やっぱりお前が……」

 

 聞こえた声は静かだが明らかに怒りの感情が含まれていた。

 

「お前のせいで私は……」

 

 握った拳は震え、必死に怒りを抑えようとする市ヶ谷の声は上坂に深く刺さった。

 

「有咲!」

「有咲ちゃん!」

 

 市ヶ谷は二人の呼びかけに応えず音楽室を出ていった。

 

 

 

 市ヶ谷が飛び出した音楽室は静寂に包まれていた。

 

「おい澪、お前あんな可愛い子に何したんだよ」

 

 内容はともかく、そんなどうしようもない静寂を破ったのは四季だった。

 

 上坂は空気の読めない四季に不思議と苛立つ気持ちが湧かなかった。

 あるのは、早く市ヶ谷を追わなければいけない、と言う気持ちだけだった。

 追わなければまた幼馴染との関係のように、取り返しのつかない事になる、という不安が頭に過る。

 

「悪い、ちょっと行ってくる」

 

 四季の疑問に答えず、上坂は勢いよく音楽室を出て市ヶ谷の後を追った。

 

 

 

 上坂は勢いよく音楽室を飛び出したものの市ヶ谷の居場所を知らない。だから一番行かれたくない所へ向かった。

 昇降口だ。

 帰られてしまうと見つける事が出来ないからだ。

 

 上坂は真っ直ぐ靴箱へ向かった。

 予想は当たり、そこには手ぶらで靴箱からローファーを取りだそうとしていた鈍い金髪のツインテールの少女がいた。

 

「市ヶ谷、待てよ!」

 

「離せ! 気安く私の名前を呼ぶな!」

 

 上坂は市ヶ谷の手首を掴むが市ヶ谷はそれを跳ね除ける。

 

「ちょっ、待てよ。俺が何したって言うんだよ!」

 

 上坂は分からなかった。今日初めて会った人がどうしてここまで怒っているのか。

 

「お前本当に分かんねーんだな?」

 

 呆れていたのか急に顔が冷め、赤色の顔がみるみると元の肌色に戻る。

 

「私は、お前の目にすら入っていなかったんだな」

 

「どう言う……」

 

 その顔は寂しそうだった。

 

「私だって昔は様々なコンクールに出ては賞を取った銀賞も取った事もある。だけど金賞だけはいつもお前が持っていった」

 

 ピアノ、コンクール、賞……

 

 上坂は何か思い出しそうだった。

 

(いた、そう言えば、いつも食いつく様に俺の演奏を聴いていた金髪の子が……)

 

「市ヶ谷って……」

 

「おせーんだよ。やっと思い出したか!」

 

 呟いた言葉は細くて小さかったが、市ヶ谷にはしっかりと聞こえた。

 確かに上坂は市ヶ谷を思い出したが、あの頃の市ヶ谷はふわふわのドレスで本当にお嬢様のように見えた。間違えても今のような姿ではない。

 

「市ヶ谷お前の事を忘れていたのは悪かった。だけど、どうしてお前はそんなに俺を目の敵にするんだ?」

 

 上坂は市ヶ谷が怒った理由が分からなかった。二人の繋がりはピアノのコンクールしかない。それにお互い名前は知ってはいるが話したのは実質今日が初めてだった。

 話したことのない相手を怒らせる理由は上坂にはない。

 だからこそ分からなかった。市ヶ谷がどうしてここまで目の敵にしているのか、

 

「教えてやるよ。私は、お前のせいでピアノをやめたんだよ!」

 

 はっ? 上坂は市ヶ谷の思いもよらない言葉に一瞬頭が真っ白になった。

 

(何を言った? どうして俺のせいで、話したこともない市ヶ谷がピアノをやめる?)

 

 本当に訳が分からなかった。

 

「私が本当に辞める前とは別にピアノをやめようと思った時があったんだよ」

 

 声はひどく沈んでいた。

 

「上手くならないってのが理由だった」

 

 昔の話を初めて声は沈んだままだが、顔は少し明るくなっていた。

 

「最後に一回コンクールに出てピアノを辞めようと思ったらお前がいた。お前の演奏を聴いたら私の抱えていた悩みなんてちっぽけに思えてきた。そして私もお前の様な人の心を動かすピアノが弾きたい、そう思ってたくさん練習した。そしたら賞も取れるようになって銀賞までも取れるようになった。後は金賞だけだ、そう思っていたのに……」

 

 話すに連れ市ヶ谷の顔は曇っていった。

 

「市ヶ谷……」

 

 あまりに苦しそうな顔をする市ヶ谷を見ていられなかった。

 

 突然顔を上げた市ヶ谷は上坂の胸ぐらを両手で掴んだ。

 

「どうして六年前、夏のコンクールに来なかった! いや、それだけじゃないそれ以降もだ! 私はやっとお前に勝てると思ってたのにお前はあれ以降一度も来なかった!」

 

 手にかかると力が更に強くなった。

 

「二年だ! 二年もお前を待った! いつお前が戻って来てもいいように練習も手を抜かなかった! だけどお前は帰ってこなかった。どうしてなんだよ‼」

 

 市ヶ谷は掴んでいた手を離し開いた手を胸元へと引き寄せる。

 

「中学受験の時ピアノをどうするか考えたよ。だけどお前のいないコンクールで賞をとっても意味がない、現にあのコンクールで私は初めて金賞を取っただけどお前がいないコンクールで金賞を取っても虚しさしかなかった。だからピアノを辞めた。……まっ、お前のせいとか言ってるけど、結局辞めたのは受験のせいなんだけどな」

 

 市ヶ谷も上坂が傷つけてしまった一人だった。

 ピアノを辞めたのは上坂のせいではないと言ってはいるが、最後に後押しをしたのは上坂だ。

 もう上坂は市ヶ谷を見捨てることは出来ない。

 自分で蒔いた種は自分で解決する。それが幼馴染達と同じ上坂の帰りを待っていた人ならなおさらだ。

 

 市ヶ谷は話した。ピアノを辞めた理由を、

 

 だったら次は──

 

「市ヶ谷、六年前のあの日、俺はピアノをやめたんだ」

 

 上坂の事を待ち続けた市ヶ谷に上坂は話す義務がある。

 

「六年前のあのコンクールの前日、母さんが倒れたんだ。心臓の病気だったよ。そしてコンクール当日、母さんは死んだ」

 

 あの日の上坂はピアノを弾ける状態じゃないというよりはピアノなんて頭の隅にもなかった。

 

「ピアノは母さんとの思い出なんだ」

 

 初めてピアノを触ったのは三歳になる少し前だった。

 

「母さん昔から体が弱くて外へ行けなかったから、俺が家にいる時にピアノを教えてくれたんだ」

 

 ピアノを弾いている時だけが母と上坂を繋ぐ大切な時間だった。

 

「上手に弾けると褒めてくれてそれが嬉しくて、……だから母さんが亡くなってからはピアノが怖くなったんだ。ピアノを前にすると母さんの事を思い出して指が震えて、気付いた時には大好きだったピアノには埃が積もっていた」

 

 上坂はゆっくり一呼吸を入れた。

 

「それが俺がピアノをやめた理由だ。そのまま次の春に父さんの仕事で引っ越して今年ようやく帰ってきたんだ」

 

 

 

 市ヶ谷は納得した。と言うよりは納得するしかない。

 亡くなった人には勝てないと言うがなにも結婚相手や恋人だけの話ではない。家族もまた同じだ。

 話が分からない程、市ヶ谷もバカではない。

 

「わる……かったよ」

 

 どうして上坂がピアノを辞めたのか、

 どうしていつまでたっても上坂が戻ってこなかったのか。

 市ヶ谷の知りたかった全ては分かった。

 

「別にいいよ。誤解も解けたし。何より俺と市ヶ谷、二人ともこうしてまたピアノを弾けるようになったんだしな」

 

「あぁ、そうだな」

 

「それに俺はこれからも市ヶ谷と仲良くしたいと思ってるし」

 

「急にどうしたんだよ」

 

 急な上坂の友達宣言に思わずつっこんだ。

 

「俺と市ヶ谷って似たもの同士だと思うんだけどな」

 

「はぁ? どこがだよ」

 

 上坂との共通点はピアノしかない、だから何が似ているか市ヶ谷には見当もつかなかった。

 

「俺も市ヶ谷も一度はピアノは辞めた。だけど俺には沢山の友達が、市ヶ谷には戸山がそれぞれ背中を押してくれた」

 

「なんで分かるんだよ!」

 

「分かるよ。だって市ヶ谷、といる時凄く楽しそうだし、まぁ牛込さんはまだちょっと硬いかなー」

 

「香澄はそんなんじゃ……まぁ、ちょっとだけな」

 

 確かに戸山といる事は楽しいめんどくさい事やしんどい事は正直多い。

 それ以上に戸山といると新しいことの連続で毎日が楽しい。

 

「俺達は確かに勉強は出来る。だけどそれだけなんだ。俺達は決して一人で生きてはいけない、誰かの助けがなくちゃ生きていけない、そういう所が似てるんだよ」

 

 上坂も市ヶ谷も頭がいい。だから大抵のことは自分で解決できる。ただその分解決できない問題を前にして人を頼る事をせず自分で抱え込んでしまう。

 

「だから困った事があったらお互い相談しあえるそんな友達になりたいと思ってる」

 

 一人の知恵より二人の知恵、それが賢ければ尚のこと。

 上坂は手を差し出すが、その手を軽く跳ね除ける。

 

「友達って、香澄見たいなこと言いやがって。お前となんかぜって〜友達になんかなってやんねー」

 

 上坂は予想外の発言に戸惑っていたが市ヶ谷は、ざまーみろ、とさえ思う。

 これまでずっと背中を追って来たのにいきなり仲良く隣になんて入れるわけがない。

 何より上坂を抜かすために努力をした市ヶ谷本人がそれを許さない。

 

「お前は私の目標で、その……ライバルなんだからな!」

 

 追い抜いて始めて友達になれる。

 

 市ヶ谷は右手の人差し指を上坂に指して宣言した。

 

 

 

「あはははは……」

 

 笑ってしまった。

 

「何がおかしいんだよ!」

 

 笑ったことに対して市ヶ谷は顔を真っ赤にして怒っている。

 

「そうだな、俺達は互いを高めあうライバルだ」

 

 上坂と市ヶ谷は友達という関係よりこれから競っていくライバルの方がいい関係が築けるだろう。そう上坂は思い手を差し出し握手を求めた。

 

「油断するなよ、したらその鼻先へし折ってやるからな!」

 

 二人は硬い握手を交わした。

 

 

 

 

 

「あ、り、さぁ──‼」

 

 教室に戻りドアを開けた瞬間、戸山が市ヶ谷に抱きついた。

 

「有咲ちゃん良かったー。私も心配したんだよ」

 

 牛込も市ヶ谷の側へ寄る。

 

 なんだか和ましい空気を壊さないように上坂はその場を離れる。

 

「一体、何したんだよ」

 

 何も分からず置いてけぼりにされた四季は不満気だった。

 

「大した事ないよ。ただ俺と市ヶ谷の間にあった誤解を解いてきただけ」

 

「大した事って、お前……」

 

 四季は文句を言うが上坂は聞いていなかった。

 

「有咲ぁー、本当に心配したんだよー」

 

 市ヶ谷に抱き着いている戸山は未だ離れない。

 

「あっバカ、制服が濡れるだろ、はーなーせ~!」

 

 言葉では嫌がってはいるが顔はどこか嬉しいしそうだった。

 

 上坂も市ヶ谷も大切な人に出会ったから今の笑顔がある。そしてその笑顔はこれから先も永遠に途絶えないだろう。

 

 

 

「そうだ、せっかく音楽室に居るんだしピアノ弾いてやるよ。戸山が聴きたがってたし、市ヶ谷も聴くだろ?」

 

 音楽室には立派なピアノがある。

 

「聴きたい!」

 

 戸山は目を輝かせ、市ヶ谷は、

 

「折角だし聴いてやらねーわけでもない」

 

 顔を赤くし照れていたが、頰が少し緩んで嬉しそうに見えた。

 

「有咲は素直じゃないんだから」

 

「うるせー」

 

 戸山と市ヶ谷の絡みが落ち着き上坂は音楽室にあるピアノの椅子に座った。

 

「折角だし曲は今香澄達が練習してる曲でいいか?」

 

 戸山達が練習している曲『私の心はチョココロネ』は牛込が作ったオリジナル楽曲だ。

 上坂がこの曲を選んだのは、市ヶ谷に今の上坂の実力を見せる為、いわば宣戦布告。

 

 音楽室のピアノな事もあり調律はバッチリ、上坂は鍵盤に指を置きゆっくり音を鳴らした。

 

 

 

 市ヶ谷は心が熱くなった。

 待って待って叶わなかった上坂のピアノが六年越しに叶った。

 

 牛込の作った『私の心はチョココロネ』は楽器が素人の戸山でも弾けるように短くて簡単だ。

 演奏はあっという間終わった。

 ブランクは確かにあった。何度も何度も、それこそビデオテープが擦り切れるまで上坂のピアノを聞いた市ヶ谷には分かる。

 だがそのブランクをもってしても市ヶ谷はまだ勝てないと思った。

 

()()

 

 握った手には力が入っていた。

 壁は高ければ高いほど登り甲斐がある。

 

(見てろよ、すぐに追い抜いてやる)

 

 市ヶ谷は自分に誓った。


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