イデア・シュラウドがスカラビア寮における反乱未遂を知ったのは、恥ずかしながら事件収束後四半日も過ぎてからのことだった。アズール・アーシェングロットによる実況配信はもう閉じていて、復元できるのはイグニハイド寮でも指折り数えられるくらいの人数しかいない筈だ。イデアは言うまでもなくできる側だが。
「ハーツラビュル寮長が九月の初週」
いつものように炎の髪とディスプレイの青色光だけが照らす薄暗い自室の中、寮生の話題を思い返す。ハーツラビュル寮における決闘の存在は隠されていたわけではない。アンチマジックに興味のある寮生がひっそり送り込んだ(そして大破した)ドローンによる魔力濃度計測と、元々中庭に設置されていた監視カメラの映像。教職員用の共有データからも裏付けは取れていた。純粋な人間としては異様なくらいの速さで持ち直した彼が、魔法的な悪影響を打ち消すに向いた体質であることは疑いようがない。ユニーク魔法は、魔法性質を見るのに一番向いた指標の一つだ。
「サバナクロー寮長が校内マジフト大会開催日」
試合用に定点カメラを用意したのは、言うまでも無くイグニハイドだった。試合で使われた魔法の殺傷性を判断するためには魔法的な観測のできる代物が必要で、別件で開発中の品を流用したから魔力値異常に応じて自動で起動するようになっていた。対単体のはずのユニーク魔法の広域発動過程の細分化、使用されただろう魔力量の概算、ストレス因子の推定。ブロット関係の研究に寮内で関わるつもりはないが、内容は知っている。あまりに急な爆発のことも、王と呼ばれる獣人だからだろうか、直後にあれだけ動いても随分健康体のままだったことも。
「オクタヴィネル寮長が期末後の再テスト期間」
人魚、それも蛸の全身種!彼らのオーバーブロットには先例がない。水中はブロットの拡散が早く、一人でブロットを溜め込むのはほとんど不可能だ。渡し守が出動する事態になる前に、広域で健康被害が出るのが落ちだった。無軌道に振るわれたらしいユニーク魔法で吸収でもされたのだろうか、鎮圧にあたった生徒にも健康被害は見られなかった。人魚がブロットを溜め込める構造なのか、イデアは知らない。
「それでウィンターホリデーに今度はスカラビア副寮長」
まだ三ヶ月やそこらで、これで四度目のオーバーブロット。魔力量の割に制御能力に欠けた新入生等ではなく各寮の正副寮長、鎮圧にあたった生徒のブロット被爆と思われる影響もなし、慢性ブロット蓄積期間は高々数日程度と極度に短く、鎮圧も簡単に達成されている。今回の事件の詳細は分からないが、居合わせたオンボロ寮の監督生が生存している辺りそう変わりないだろうと思う。
「いやもうこれ偶然じゃないでしょ。しかも全員一週間かそこらで快復済み?」
改めて養護教諭とスクールカウンセラーの残している記録と、イデアの知るオーバーブロット生還者のデータを並べ、呟く。
「なんの冗談だよ」
ひとつめ。そもそもの話、オーバーブロットは稀な現象だ。本来まともな魔力消費で発生するものではない。数ヶ月、あるいは数年に渡って慢性的に蓄積したブロットが魔法石自体にこびりつき石が変質するようなことがあれば別だが、そうでないなら高位の妖精族でもない限りブロットが溢れる前に急性魔力枯渇で意識を失う。
ふたつめ。化身が出現するほどのブロットが溜まっていたにもかかわらず、生還者も対応した生徒も後遺症があまりに少ない。血中にブロットが残るようなこともなく、僅かな間意識を失う以上の体調不良も見られない。二例目に至っては直後に試合で魔法を連発している。ブロットの化身と至近距離で相対したはずの生徒にも健康被害は見られず、ブロットの流入が起きたようには思えない。普通なら生身で化身に相対して影響が出ないはずがない。渡し守の装備はなんのためだと。
みっつめ。事件聴取にせよカウンセリング記録にせよ、生還者の記憶がオーバーブロット直前から抜けている。これは第三例が部活で溢した内容とも一致するが、通常とは違う作用が起きているとしか思えない。イデアは覚えている。
あまりに綺麗にブロットが抜けていることも合わせれば記憶が抜けたのはその副作用だろうと仮説は立てられるが、それにしては記憶の欠けが少ないのだ。 渡し守は何もかもを忘れている。
「寮長用の魔法石の容量を越えたなら取り込まれない方がおかしい。魔法石に細工があった?だとしたら一番ありそうなのは……まー学園長っすよな。……めんど」
はあ、と息を吐いて椅子に背を預ける。養護教諭任せで一般の病院へも連絡しないこと含め、現状で一番怪しいのは学園長なのは否定できない。だが、制御可能で後遺症のないオーバーブロットを求める者は数知れず(それこそS.T.Y.X.もそうだ)、儀式の一種である可能性もある。
「イグニハイドの番になる前に片付けないと」
ハーツラビュル、サバナクロー、オクタヴィネル、スカラビア。儀式であるなら七は大いなる数字であり、次いで五だろう。イデア自身ならばまだしも、副寮長がオーバーブロットした今となってはオルト・シュラウドが「対象」となる可能性は否定できない。
「二度と弟をオーバーブロットなんてさせるものか」
ぱちり、と火の粉が音を立てて飛んだ。自分にできうる限りの対策は積んでいるから、通常運用の範囲内でオルト・シュラウドがオーバーブロットすることはない。けれど誰かの悪意があるというのなら。人為的にブロット汚染を試みられたのなら、話は別だ。
化身Ο、幻影Ο。その奥に眠る二つ違いの小さな弟。今もまだ兄のことを呼んでいる永遠の命。あの場所に、オルトまで並べるわけにはいかない。
───***───
「オルト。冬休み中アズール氏のマジカメアカウント……鍵の方に投稿された動画、削除済みのも含めて確保。スカラ副寮長のオーバーブロット実況したらしいから、コメントの反応含めて押さえといて」
毎朝の生体魔導スキャニングと服薬、毎週の魔力特性検査・血圧測定・採血・尿検査、月に一度炎髪のサンプル提出と投薬、三ヶ月ごとのブロット耐性検査(在学中は夏休暇のみ)、不定期の追加試験。専用の魔導ヒューマノイドが割り当てられた十年前から、イデアに一生付き纏う面倒の話だ。
「それから、このところ多発してるオーバーブロット経験者のここ一年の診断とカウンセリング記録も、まとめて次の検診データと一緒に研究所に送って」
切開の必要な深さで首に埋め込まれた位置追跡機能付きのミリオーダー魔導チップ、護衛/監視/弟の送信する毎週の行動レポート、無尽蔵に与えられる研究費の代わりに外部への発表はS.T.Y.X.の決定に従うこと。今も嘆きの島で失った自我を探しているイデアの弟から離れないために、一度は汎用補助型ヒューマノイドSOTERだったイデアの「弟」を失わないために。あるいは空と海を知らないために、渡し守の戦力を知っているために、天の主君の権勢を理解しているために。イデア・シュラウドが逃れようとももはや思わない、彼の首輪の鎖の話だ。
「ああ、そうだ。ヴィル・シェーンハイトの動向に気ぃ配っといて。近いうちに彼もオーバーブロットするかもしれない」
オルト・シュラウドが頷く。オルトやイデア、あるいは妖精族であるマレウス・ドラコニアやリリア・ヴァンルージュと比べれば、杖の形状に拘る程度で配布された魔法石をそのまま使っているヴィル・シェーンハイトは余程干渉しやすいことだろう。
S.T.Y.X.が動くのは明日のことだろうか。来週だろうか。来月だろうか。もう一人、オーバーブロットしてからだろうか。まさか初めから戦闘部隊を動かすとも思えないが、どうだろう。イデアには、チェス盤を挟んだことのない父母の考えがわからない。
イデア・シュラウドは、この弟を損なわせないためならなんでもする。同級生でも、ゲーム仲間でも、毛皮の柔らかないきものでも、こんな自分を一人の生徒として受け入れると言った教育者でも、誰でも。何人でも。出られないと知って奈落の底まで案内する。こんな日のために、イデアは友人などいないと言ってきたのだから。
───***───
誰が自分を呼び戻したのか。父母はどこにいるのか。どうして息の掛かった病院でなくわざわざ本部で検査を行うのか。本当に検査だけなのか。なぜ急襲の形を取ったのか。答えは等しく「禁則事項」だった。わかっていたことだ。
輸送コンテナよりはマシとはいえ財閥関係者よりも屈強な軍人が似合う(イデアとオルトを除く乗員は所属以外まさにそうだが)辛うじて固くはない椅子に身を沈めて、隣に立つ弟の濃紺の指先を右の手で握る。視線を向ければ、隊員の一人が立ち上がった。ボードゲーム部のイデア先輩の時間はおしまい。
この《渡し守》はオルト・シュラウドが生まれるのと同じような時期に調整され、丁度イデアと同じ時期に教育を受けた個体だった。幼馴染という概念に一番近い存在かもしれない。あの頃はイデアより倍も大きい、けれど弟のような相手だった。なにせイデアの方が飲み込みが早かったので。
「イデア所長代理」
渡し守の任に就く者の大半は教育訓練が始まる時点で、過去のほとんど全てを忘却している。彼らはかつて魔法士であり、幻影に飲まれるまで魔法を使って、体内の魔法機能を散々に損なった者達だ。
「ん」
一度呑まれた魔法士からブロットを除くのは、過去そのものを除くことに等しい。溢れ出るブロットの化身は魔力よりむしろ多大な絶望と過去の記憶とでできていて、術者がその幻想に呑み込まれる頃には魔力は引き絞られて残らない。その状態でブロットとかいう高強度の神秘に肺まで浸かると魔法機能がこれでもかと歪んで、普通は一生魔法が使えなくなる。更に少なくない人数が魔法アレルギーとでも言うべき疾患を発現し、耐魔素材なしでは暮らしていけなくなる。
渡し守部隊はその辺りブロット対策でがちがちに固めるので、記憶喪失のフォローも含め化身被摘出者の多くは渡し守となる。いずれにせよブロット汚染の後遺症や摘出時に未発表の再生処置を行う関係上、おいそれと島の外には出せないのだが。
「今回の輸送対象に関する検査予定の内容です。まず、被検体AからEについてですが──」
五人のオーバーブロット生還者。一体のブロット蓄積性凶暴化魔獣(鎮静済み)。一人の重要参考人。魔獣と変身薬服用中の人魚については環境レベルで、王者の咆哮や蛇のいざない、美しき毒の華といった厄介なユニーク魔法には拘束具のレベルで、最低限調整が必要だろう。把握している限りの注意事項を連ねて、難しいだろうが警戒させないのが一番だと添える。どうせ、誰も彼も意図的に伏せてある札の二枚や三枚あるだろう。
「それから、被験体Ιについても追加の実験要請があります」
その言葉に、真っ先に反応を見せたのはオルト・シュラウドだった。ぐるり、と振り返って内容を問い質そうとしたところをイデアの言葉が遮る。静謐さと陰鬱さの境界にある声。
「それ、僕が聞いていいやつなの……」
「いえ。なので詳細については秘匿事項となる旨だけ、お伝えいたします」
「……ども」
対象Ιは、現状最も奈落の淵ぎりぎりのところから戻ってきた魔法士だった。
いかに才覚に疑いなくとも、十年前のその日、イデア・シュラウドはまだ幼子と言ってよい年頃でしかなかった。自分だけの魔法石に憧れ、弟の前で高度な魔法を披露したがる、小さな子どもだった。そして、こっそりと盗み出した魔法石の、致命的な変質に気づけない程度に彼は、ブロットについて無感覚だった。
イデア・シュラウドは天才だった。どうしようもなく彼は優秀で、それ以上に豊富な魔力の保有者だった。ただ彼は、正常な魔法石というものを知らなかった。ブロットをたった370%生成しやすく変質した魔法石で、彼が化身を生成するには十分だった。
化身は、インク瓶の蓋の代わりに青い炎の髪を立ち上らせていた。
イデア・シュラウドは死ぬまで、弟のあの悲鳴を忘れることはないだろう。彼は逃げおおせるよりも先に、火の粉のようにブロットまき散らすイデアの嘆きに触れてしまった。ブロット被曝によるオーバーブロット連鎖現象が、体験談ではなく映像記録として残された瞬間だった。
彼ら兄弟にとって最も幸いだったのは、そこがブロット研究所の敷地内で、三十秒もせずに完全武装の鎮圧部隊が飛んできたことだろう。不幸だったのは、さほど広くはない屋内で二体の化身を相手取るのは彼らでさえ困難であったことだろう。
イデア・シュラウドは、覚えている。弟の悲鳴も、鎮圧部隊の奮闘も、太ったのと痩せたのと二人分のパーツを継ぎ合わせたような化身に飲み込まれるオルト・シュラウドの伸ばした小さな手の形も、幻影から流れ込む淀みで自分が再構築されていく感覚も、イデアは覚えている。
半ば化身に飲み込まれていたイデア・シュラウドを、渡し守らはなんとか引き剥がすことに成功した。それはオルト・シュラウドを飲み込んだ亡霊が鎮圧され停滞処理を受けてから、ほんの数秒だけ後のことだった。
青炎の化身から分離したイデア・シュラウドは、もはやヒトのようには見えなかった。温度なく鮮やかに燃える青の髪、幽霊染みて蒼白の肌、何故か肉食の人魚であるかのように奥までずらりと尖った歯。まだオーバーブロット状態にあるといわれた方が余程納得のいく様相の彼は、しかし応対の面では全くの正気に思えた。被験体Ιは生還したのだ。容貌が化身を思わせるように変化し、ブロット許容量増加の代償のように自浄能力を事実上失い、内臓のいくらかはほとんど用を為さなくなっても。
イデア・シュラウドはS.T.Y.X.の次期所長である。嘆きの島の奥底にあるものを御するには、今以てシュラウドの血筋に頼るほかに術がない。シュラウドはこの島を捨てられない。そして同時に、S.T.Y.X.は被験体Ιを逃がさない。人と幻の定義の合間を縫うような、たった一つのサンプルを彼らが手放すことはない。マイクロチップ、研究費用、弟を飲み込んだ化身、専用の人型機械。
イデアは、ただ弟が万全であればそれで良い。どこかへ行きたいような気がしていたのも、もうずっと昔の話だった。
「同級生だからとかじゃなくてさ。ファントムでもない、カウンセリングや検診記録なんかからも快復傾向が見えてる個体なんだから、丁寧に扱ってね。これは命令」
仮の部下の一人にそうに言って、イデアは弟の腕を軽く引いた。僅かに近寄ったオルトの冷たい器を抱きしめる。この永遠の子供だけが、イデアが隣に置いていいものだった。
備え付けの端末から輸送コンテナ内での会話が聞こえる。アズール・アーシェングロットの嘆きの声がした。到底オーバーブロットには繋がらないだろう、あんまり健全な叫びが。
「僕なんか比べものにならないくらい、正常に戻れるんだろうから」
薔薇の蔦も鋭い爪も蛇の髪先も彼らにはない。イデアほど希少でもなければ、イデアほどブロットが残ったわけでもなさそうだ。それはそれで興味深い現象ではあるけれど、再現性があるとも限らない。どうせならマジカルペンの精査の方が先だ。
イデア・シュラウドはどこへも行けない。弟を置いていくことも、他の誰も負えない責任を投げ出すこともできない。けれどこの被検体たちは違うかもしれないから、もしかしたらと配慮することはできる。所詮代理の権限の内でできうる限りに、いつかあの地下を出て行けるかもしれない者達のために。一生付き合うような何も残っていないのだろう彼らのために。