もし、碇ゲンドウが少しだけ器用で、用意周到な男だったら。   作:煮魚( )

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第弐話 孤独な、幼兵。

 柔らかな触覚に包まれて、微睡みから目覚めた。

 

 左腕が、痛い。

 

 頭が、痛い。

 

 あれから……どうなったんだっけ?

 

 確か、エヴァに乗って、出撃……したんだっけ……。

 

 頭が痛くて、ぼうっとしている。もやがかかったみたいだ。

 

 上半身を起こすと大部屋に、一つベッドが置かれていて、そこに居るのが分かった。

 

 病院……だろうか。

 

 痛みがつらくなって、また横になる。

 

 枕に後頭部がうずまると、少し落ち着いた。

 

「……ここ……どこだろう」

 

 知らない、場所だ。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここは山間の、NERVが管理する病院だった。

 

 『身体には問題ありませんが、記憶の混濁が見受けられます。1日様子を見た方が良いでしょう』

 

 メガネを光らせて、そう言われた。

 

 記憶の混濁……。

 

 何故か、昨日を思い出そうとすると、頭が痛くなる。その激痛があるから、僕は、何も考えないように、山々の景色を見てぼうっとしていた。

 

 白い部屋に寝ていると、色々考えてしまうから……。

 

「初号機パイロット」

 

 だからだろうか、背後に現れた、青髪の女性が、いつからそこにいたのか、全く分からなかった。

 

 赤い瞳。

 

「いっ……君は……」

 

 痛みの中、記憶から、飛び立つ鳥と、消えた人の映像が、フラッシュバックする。

 

「君は……あのときの……?」

 

「私は初めて会った」

 

「あ……あァ……グッ……」

 

 その声が聞こえる前に、脳髄を貫かれる痛みが、左腕が折られた恐怖が、胸のおくそこから這い出て、身体中の筋肉を食い散らかしてしまったようだった。

 

 立っていられなくなって、座り込んで、震える肩を抱く。

 

「はあっ……はぁっ……はっ……」

 

 映像がフラッシュバックする。

 

 眼前に迫る、死の仮面。

 

 折られた、左腕。

 

 頭に突き刺さる、光のロット。

 

 装甲が剥がれ、剥き出しの頭部に、〝生えた〟エヴァの〝瞳〟

 

 父さんの手紙。

 

 あれは、確かに人だった。

 

「ぁ……アぁ……っ……」

 

 人に、人の、中に、乗って……。

 

「……誰か、呼んだ方がいい?」

 

 呟くような声に、地面の、リノリウムの冷たい触覚が戻ってきた。

 

「……ぃや、だい……だいじょうぶ……」

 

「顔色、悪そうね」

 

「きみは……?」

 

「綾波、レイ。14歳。マルドゥク機関の報告により発見された、ファーストチルドレン。0号機専属パイロット」

 

 まるで練習したかのように、スラスラと出てくる台詞に、呆然とするしかなかった。

 

 なんとか見上げた視線は、彼女の瞳とぶつかる。そこには、何の表情もない。

 

 そして、次は貴方の番。とでも言いたげに、黙っている。

 

「……僕は、碇、シンジ……その……どうして、ここに?」

 

 相手の感情が分からない。恐怖が形を変えた事で、いくぶんか軽くなる。

 

 手すりに体重を預けつつ、震える足を叱って立ち上がった。

 

「定期検診」

 

 彼女はそれだけ言うと、黙ってしまった。

 

 何か……用があるんじゃ……ないのかな?

 

 ジッとその赤い瞳で見つめられると、しかし、なぜか、安心するような……気がした。

 

 なぜだろう……。

 

「あー……と……何か、用があったの?」

 

 人の反応を待たずに、二の句を継いだ事に、自分の事ながら驚愕。

 

 こんな事、今までしなかったのに……。

 

「いえ、別に」

 

「そ、そう……」

 

 沈黙。

 

 やっぱり慣れないことは、しない方がいいな。

 

「乗ったとき、違和感はなかった?」

 

 唐突にそう切り出され、僕は混乱した。

 

 違和感といえば違和感でしかないが、どこをどう捉えた質問なのか、分からなかった。

 

 例えば、なぜ人造人間なのに操縦する必要があるのか、とか、感覚を共有するシンクロってなんなの、とか。

 

 なぜ、あんなことに……。

 

「……いろいろ……あるけど……」

 

 思考をまとめきれずに、そう答えた。

 

 次に仮面に焦点があったら、僕は……。

 

「そう……」

 

 彼女は、ふぅ、と息を吐くと、思考の海に潜っていった。

 

 目線を下に逸らして、佇んでいる。

 

「綾波さんも、違和感があったの?」

 

「えぇ、今も、そう」

 

 今も。

 

 エヴァ。

 

 それは、そうなんだろうな……。

 

 気持ちは……分かるけど……。

 

 うーん……。

 

「貴方なら、分かるかと思って」

 

「ごめん……いろいろ……あるんだけど、その……言葉に、できないんだ」

 

「そうね」

 

「うん……」

 

 沈黙。

 

「ありがとう」

 

「えっ」

 

「分からない事が、分かった」

 

 意味を捉えかねて、言葉が出ない。

 

 沈黙。

 

「こういうとき、ありがとう。と言うはず……何か、違う?」

 

 相変わらず感情は見えない。

 

 が、首を少し傾げる姿は、本当に分からない、という風だ。

 

「……い、いや……その、こちらこそ、僕と話して、くれて、ありがとう? というか……何か楽になった気が、する……からさ……」

 

 ありがとう、を問われると、分からなくなる。今まで何気なく使っていた気がしたけど、意識すると、確かに数えるほどしか言ったことがない。

 

 感覚がおかしいのは僕かも知れない。

 

 それが恥ずかしくなって、言葉がうまく見つからなかった。

 

 変な事を言った気がする。

 

 話してくれて、ありがとう。なんて……。

 

 頬が熱い。

 

「そうね」

 

 綾波は、いつの間にか、笑っていた。

 

 口角を少し上げるだけ。

 

 しかし、

 

 目を奪われる、純粋な微笑みだった。

 

「うん……」

 

 思わず目を逸らしてしまったが、これ以上見つめ合うと、熱が出てしまう。ような気がした。

 

「じゃあ、またね」

 

「あ、うん、また……」

 

 彼女は、僕の言葉を聞く前に、歩き去って行く。

 

 綾波レイは笑っていた。

 

 分からない。でも、分かってくれた気がした。

 

 苦々しい暴走の記憶は……もう、痛く無い。

 

「ありがとう……か……」

 

 少し、頬が、熱くなった。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 病院の、待合室。

 

 エレベーターから出てきた、黒服で、髭面の、サングラスをかけた……

 

「……父さん」

 

「話せる事は、あまりない」

 

「……いいんだ……分かる気がするよ」

 

「そうか」

 

「…………」

 

「…………」

 

「シンジ……靭く、なったな」

 

「僕は、強くなんてない……」

 

「……そうか」

 

「…………」

 

「…………」

 

「手紙の事、ぜんぶ、本当なんだね」

 

「そうだ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「父さん……父さんは、父さんだよね?」

 

「……ああ」

 

「…………」

 

「…………」

 

「その、ありがとう……父さん。時間を、作ってくれて」

 

「…………」

 

 左腕の時計を確認すると、父さんは踵を返して、エレベーターに乗り込む。

 

「またね、父さん」

 

 その背中に、呪いをかけるつもりで、僕は呟いた。

 

「またね……」

 

 少ない会話。

 

 何も与えられない情報。

 

 胸が苦しい。

 

 だが、耐えられる。

 

 今は事情があって、話せないのかも知れない。だが、手紙が真実だと、父さんに言って貰えた。今はそれでいいんだ。

 

 それでいい。

 

 また、会うために。

 

 認めてもらう為に。

 

 いつか、家族に、なるために。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 キッチン、バスルーム、リビングのみの無機質な、マンションの一室で、リビングに置かれたベッドに彼女は腰掛けていた。

 

 綾波レイ。

 

 掃除が終わり、本日の予定は就寝前の食事を残すのみであった。

 

 規則通りの彼女の生活は変わらない。

 

 夕陽に照らされながら、ベッドの脇のタンスに据え付けてある〝日記〟を読んでいる。

 

「ありがとう……感謝の言葉

 

 私が発言するのは、初めての言葉。

 

 記憶の言葉……」

 

 エヴァに乗るたびに感じる、違和感。

 

 自分が何かに、侵食されるような、とても言い表せない、感覚。

 

 まるで、自分が『曖昧』になっていくような……。

 

 まろびでる碇司令との記憶。

 

「心理感覚の相違……」

 

 それが、赤城リツコ博士が、シンクロの妨げとして挙げた理由だった。

 

 1番目にあって、自分に無いもの。

 

 碇司令。大切な人。1番の人。

 

 でも、それだけじゃ、ない……。

 

『言葉に……出来ないんだ……』

 

 シンジの姿が、脳裏に現れる。

 

 自分の事じゃないのに。

 

 私と同じように苦しんでいて、言葉に出来ないと言われて、知らない感覚が体を襲っていた。

 

 エヴァのと似ていて……。

 

 でも、嫌じゃない。

 

 あたたかい。

 

『その、ありがとう。気持ちが楽になったというか……』

 

 彼の気持ちが楽になると、なぜか、あたたかくなる……。

 

『あ、うん、また……』

 

 碇、シンジ。碇くんの言葉……。

 

 どうして……。

 

 瞬間、記憶と感覚が結びつく。

 

「うれしい……私、うれしいのね」

 

 分かった事が、また嬉しくて、今日の日記に書こうとシャーペンと下敷きを取り出したが、一文字目で筆が、ぴたりと止まった。

 

「分からない。嬉しい、をどう書いたら……」

 

 頭では、分かっている。状況を書いて〝嬉しかった〟と表現するだけ。

 

 起動を成功させた初号機パイロットに問題を相談。解決はしなかったが、同じ違和感を感じている事が判明。その後、気持ちが楽になったと告げられ、嬉しかった。

 

 意味が、わからない。

 

 今までの日記と何も変わらない。

 

 これでは次の自分がまた困惑するだろう。任務に支障が出る。

 

「言葉にできない……」

 

 1人目にあって、私に無いもの。

 

 今は、輪郭はあるが、それが、碇司令と結びつく事は無かった。

 

 どうして?

 

 碇司令は、私を作ったもの。

 

 私のすべて。

 

 1人目は、碇司令の事を考えると嬉しくなる、と書いていた。

 

 私もそうなって当然だと考えていた。

 

 それが計画、私の意味なのだから。

 

 ならなければならない。

 

 でも、そうじゃない……。

 

 どうして?

 

 碇くん……あなたは、なに?

 

 綾波レイはその日、明日も行われる起動実験に対して、不安がある事を書き残した。

 

 

 

 

 

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 翌日。

 

「0号機って、出撃したんですか?」

 

 病院の待合室。

 

「どうして、0号機の事を……?」

 

「綾波さんに教えて貰ったんです」

 

「あぁ、レイに。会ったのね」

 

 迎えに来た、と言うミサトさんに、気になっていた事を聞いていた。

 

 ミサトさんは、暫く黙って何かを考えていたが、ゆっくりと口を開く。

 

「0号機は……起動しなかったのよ」

 

「起動しなかった……?」

 

「ええ、ハーモニクス値は基準以上、ただ、シンクロ率は最大で6% 起動指数には、届かなかったわ」

 

「そうですか……」

 

 ずっとその方が、良いかもしれない……。

 

 綾波が使徒と戦う姿は、想像出来なかった。

 

「あらぁ、心配なのぉ? もしかしてぇ……」

 

 意味ありげな目で、腰にしなりを作り、そこに手を当てるミサトさん。

 

「……?」

 

「ひ、と、め、ぼ、れ?♡」

 

 そう言い、バチコン、とウインクをした。

 

 好き。

 

 その単語で、反射的に頬が熱くなる。

 

 まだ、会ったばかりなのに、そういうのは早すぎるというか、なんというか……。

 

 とにかく!

 

「そ、そんな訳ないじゃないですか!!」

 

「あらぁ、隠さなくても良いのよぉ、良いじゃない、青春! って感じで!」

 

「だから違います!! その……同じパイロットだから……心配になっただけです」

 

 言いながら、思わず目を地面に向けてしまった。心がもやもやする。心配したのは、たぶん、そんな理由じゃないのに……。

 

「ま、いいわ……なんにせよ、パイロット同士で交流があるのは良い事よ。これからも仲良くしてあげてね、レイと」

 

 あの、『微妙な』扱いづらそうな雰囲気を滲ませるミサトさんに、思わず眉を寄せた。

 

「はい……」

 

 きっとこの人は、綾波に対しても〝こう〟なんだろうな。

 

 正直に言うと仕事人間のミサトさんには、あまり関わりたくない……。

 

 綾波レイ、か……。

 

 そういえば、最初に会った綾波は、何だったんだろう。見間違え? 幻覚……かな?

 

 

 

 

 

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 NERV本部に〝入所〟の手続きをしに、ミサトさんの付き添いで来ていた。

 

 正直、父さんの手紙があれば一通りの手続きは一人でも行えたので、丁重にお断りしたかったが、きっと彼女も仕事なのだろう。

 

 嫌味を言われるのも嫌なので、大人しく言う通りにしていた。

 

 それに何かあったとき、大人の人が居ないと、困るし……。

 

 そんな言い訳をしながら、いよいよ手続きも最後を迎えていた。

 

「君の住居は、この先の第六区画になる」

 

「ありがとうございます」

 

 これでやっと終わり。

 

 一息つける、と息を漏らした所だった。

 

「一人でですか!?」

 

「……そうだ。問題は無かろう」

 

 対応している職員さんも怪訝な顔をしている。

 

 思わず、左側に立つミサトさんを見上げた。

 

 どういう事だろう?

 

 パイロット同士で綾波と相部屋……なわけないか。相部屋の男子寮とか……?

 

「それでいいの? シンジ君」

 

 こちらに話を振るミサトさん。

 

「良いんです、一人の方が……楽ですから」

 

 相部屋の、2段ベットの隣人に気を使いながら生活する様子を想像してしまって、思わず苦笑した。

 

 父さんは……言えない事の方が多いようだし、今は……空白の時間の重さを、知ってしまった。

 

 同居はまだ無理だ。

 

 次点で、一人の方が楽なのは本心。

 

 ただ、ミサトさんの憐れむような目は、明らかに僕を放っておくようには見えなかった。

 

「分かりました……」

 

 予想に反して、ツカツカと廊下に出るのを見て僕はすっかり安心していた。

 

 書類を処理してくれた人にペコリとお辞儀すると、後を追って廊下に出る。

 

「ミサトさ……ん……」

 

 ──今日は、これで──

 

 という言葉は、虚空に消えていく。

 

「ええ、そうよ。私が責任を持って引き取ります」

 

 引き取る。

 

 僕を?

 

 書類の手続きは?

 

 え?

 

「そんなのあんたがやっときなさいよー!! 大体ねぇ!!」

 

 ……リツコさんも、大変だなぁ……。

 

 理解の追いつかない展開に、もはや自分の脳は対岸の火事として処理する事を決めたようだ。

 

 なんだか、映画でも見ている気分だった。

 

「よし。シンジくん、行くわよ!」

 

「あ、はい……」

 

 アッサリと覆された書類手続き。

 

 思い出されるのは、盗まれたバッテリーだった。抵抗しても、無駄だろう。

 

 監視役、とか……?

 

 それならそうと、最初からそう書いてくれればいいのに。

 

「国際公務員、か……」

 

 風通しが悪いんだな。NERVって。

 

「な〜んか、言ったかしらん?」

 

 笑顔のミサトさん。

 

「ひ、いえ、なにも!」

 

 車に到着するまでに、結局、妙案は思い浮かばなかった。

 

「さぁ〜! 今日はパーっとやるわよ!! パーっとね!!」

 

「あはは……そう、ですね……」

 

 背中を叩かれて、無理に笑いを絞り出す。

 

 知らない人と、しかもミサトさんと、仕事で暮らす。

 

「はぁ……」

 

 初めてのことばかりな上、明らかに気を遣っているミサトさんに、どうしても緊張してしまう。

 

 (あまりにも理不尽だよ。父さん……)

 

 仕方がないと分かっていながら、届くはずもない苦情を、ジオフロントの責任者に念じざるを得なかった。

 

 しかし、シンジは、そのぼうっと地面を見つめる表情を、ミサトに盗み見られているのを、知らない。

 

 ましてや、その胸中など、知る由もなかった……。

 

 

 

 

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 ミサトさんの車は、住宅街ではなく、郊外に向かって走っている。

 

 レトルトとお酒をぽいぽいと放り込むと、さっさと会計してしまうミサトさん。

 

 手続きもあったし、僕はすっかり疲れていて、終始黙っていた。

 

 それがいけなかったんだろうか。

 

 郊外に逸れた時、違和感を感じて問うた。

 

「どこ、行くんですか?」

 

「ふふ、イ、イ、ト、コ、ロ♡」

 

 教える気はない。

 

 運転も荒くない。

 

 表情も、表面的には笑顔だった。

 

 だが、詳細は話さない。

 

 怒られる……のかな。

 

 やがて山道に入り、「自然の展望台」と命名されそうな公園にたどり着くと、整備された柵に向かって歩き始めた。

 

 景色が開けるにつれて、第3新東京市の全体が見えてくる。

 

「…………」

 

 ミサトさんの少し後ろで立ち止まる。

 

 格納されたビルの天井ハッチが、夕陽に照らされていた。

 

 その光景は酷く殺風景で……第3新東京市という名前には似つかなかった。

 

「なんだか、寂しい街ですね」

 

「…………」

 

 ミサトさんは左手の腕時計を見ている。

 

「時間だわ」

 

「……?」

 

 突如鳴り響いたサイレン。

 

 心にさざなみが立つのが分かる。

 

 何か来るんだろうか……。

 

「ビルが……生えてく……」

 

 カゴンッ、フシュー。

 

 それぞれの場所から機械の作動音が鳴り響く。

 

 陽炎の海の中に、無骨な塔が聳え上がってゆく。その力強く異世界じみた光景は、目を奪って離さない。

 

 敵対存在のサイレンかと思ったが、そうではなかった安心が、感動を促進させていた。

 

「これが、対使徒迎撃要塞都市──第3新東京市、私たちの街よ」

 

 ミサトさんは微笑を湛えている。

 

「そして、あなたが守った街」

 

「…………」

 

 何も言えなかった。

 

 心に浮かぶのは、暴走の記憶と、綾波と、仕事人間のはずのミサトさん。

 

 そして父さん。

 

 街を守った、という気持ちはカケラも無かった。

 

 僕は……なんて自分勝手な人間なんだろう。

 

「シンジ君……」

 

 表情を曇らせたミサトさん。

 

 思わず顔を背ける。

 

「……すいません」

 

 潮風に吹かれながら、そう答えた。

 

 

 

 

 

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「シンジくんの荷物はもう届いてると思うわ。実は私も先日、引っ越したばっかりでね〜」

 

「…………」

 

 気まずい。

 

 こんな関係性は初めてだった。

 

 ミサトさんに気を遣わせてばかりでは、いけない。

 

 話しかけられる度に、失礼のない、場を盛り上げる返し方を考えるのだが、考えた時には、機会を逸していた。

 

 それで、ずっと黙っている。

 

「さ、入って」

 

 視線を上げると、開いたマンションの一室から暖かい光が漏れていた。

 

「あ、その……お、お邪魔します……」

 

「シンジ君?」

 

 少し険しい顔のミサトさん。

 

 失礼、だったかな……?

 

「ここは、あなたの家なのよ?」

 

 しばらく意味を捉えかねていたが、何かを期待していそうな、満面の笑みのミサトさんを見てピンときた。

 

 だが、それは、またもや数回した使ったことのない言葉だ。

 

「た……ただいま」

 

 間違っていないか、分からない。気恥ずかしくて頬が熱くなった。

 

「おかえりなさい」

 

 ミサトさんは監視で来たんじゃ……ないのかもしれない。

 

 満足そうな声音を聴いて、安心していた。

 

「じゃ、適当に寛いでて〜」

 

 いたの、だが……。

 

「あぁ……まぁ、ちょーっち、散らかってるけど気にしないでね〜」

 

 ミサトさんは奥の部屋に入っていった。

 

 そして目に飛び込んで来たのは、洗ってない食器、空いた弁当箱、捨ててないゴミ袋。大量の飲んだあとのビール缶、瓶、積んである段ボール……。

 

 少なくとも人に見せられる状態ではない、リビングだった。

 

「これが……ちょっち……」

 

 ミサトさんには、これより上がある。

 

 この上は、生ゴミだろうな……。

 

 想像できてしまうだけに、胸に暗い影を落としていた。

 

「ごめん、食べ物冷蔵庫に入れといてー」

 

 部屋からミサトさんが言う。

 

「あ、はい……」

 

 ひとまず冷凍庫を開けると、氷。

 

 チルド室を開けると、ツマミ。

 

 冷蔵室には、大量のビール……。

 

「どんな生活してるんだろ……」

 

 仕事に支障とか出ない……んだろうな。出撃前とか、酔ってなかったし。

 

 うーん。

 

 分からない。

 

 部屋を見渡すと、さらに大型の冷蔵庫らしき機械もある。

 

「あのー、冷蔵庫2つ使うんですか?」

 

「あー、そっちはいいのー、まだ寝てると思うから」

 

 寝てる……?

 

 何かを……飼ってる? 冷蔵庫で……??

 

 かなり気になるけど、寝てるなら開けない方がいいかな。

 

 ヘビとか出てきても困るし……。

 

「さ、ご飯にしましょ!」

 

「あ……はい」

 

 部屋から出てきたミサトさんは、黄色の半袖Tシャツ(なぜか袖をまくってタンクトップになっている)にホットパンツのラフ過ぎる格好だった。

 

 普通なら、見ていられない格好だけど、なぜか、何も感じなかった。

 

 全体的に整っているというか、フォルムが一定なお陰で、図書館の庭の彫刻のように、人体として印象を受けているのか。

 

 それか、ミサトさんだからか……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「いっただっきまーす!!」

 

「いただきます……」

 

 テーブルに並ぶ、温めた缶やレトルトの食品。

 

 手を合わせるや否や、猛禽の目でビールの蓋に手をかけたミサトさんは、ゴッゴッゴッ、とここまで聞こえる音量で喉を鳴らしてそれを流し込むと、恍惚の表情で余韻に浸っていた。

 

「ッぷはぁぁー! やぁっぱ人生、この時の為に! 生きてるようなモンよねぇ〜!」

 

 本当に嬉しそうだ。

 

「あれ、食べないの? けっこうウマイわよ、インスタントも」

 

「あっ、いえ、あの……」

 

 食べ始めるのは目上の人が先、と聴いたこともあるし、失礼は無いようにと考えていたのだが、そのまま言うわけにもいかない気がして……

 

「こういう食事……慣れてないので……」

 

 あまりオブラートに包めなかったかもしれない。苦笑いを浮かべると、ミサトさんは眉を釣り上げた。

 

「ダメよ! 好き嫌いしちゃあ!」

 

 ふんす、と鼻息あらくミサトさんは、眼前まで顔を近づけてくる。

 

「あ、いえ、あの違うんです」

 

 必死に次の言葉を考える。

 

「えっと……」

 

「楽しいでしょ?」

 

「へ?」

 

 ミサトさんは、ニンマリと笑っていた。

 

「こうして他の人と食事すんの」

 

「あ……はい」

 

 思わず目を逸らして、苦笑いしてしまったが、仕方ない気がする。

 

 もう何が失礼とか、分からなくなりそうだ。

 

 

 

 

 

「じゃあ、次、行くわよ」

 

 食事も終わり、2人して真剣な面持ちで、かれこれ20分ほどじゃんけんをしていた。

 

「あらー、悪いわねぇシンジ君」

 

 ミサトさんがまた〝2人の生活当番表〟に『シ』と書き込んでいく。

 

 今や、その表の殆どは『シ』で埋められていた。

 

「おし、公平に決めた生活当番もこれでオッケーね〜」

 

 じゃんけんをする前、ミサトさんばかりになったら不味い……なんて心配をしていたが、杞憂に終わった。

 

 ミサトさんはグーばかり出すので、簡単にこういう状況に出来たのだ。

 

 ただ、これくらいの気遣いはミサトさんも察しているはずで〝公平に決めた〟と、わざわざサボらぬように釘を刺されるのは心外だった。

 

「はい……」

 

「さて……今日からここは貴方の家なんだから、なーんにも遠慮なんていらないのよ?」

 

 指を突き出し、ウインクをするミサトさん。

 

「あ……はい……」

 

 流石にこれはポーズだよな。

 

 あ、でも遠慮されると気持ち悪いからっていう警告かもしれない。

 

 読み切れず、自分が微妙な表情になってしまうのが分かった。

 

「もー……ハイハイ、ハイハイって辛気臭いわねぇ〜、おっとこのこでしょう! シャキッとしなさい、シャキッと」

 

 頭をぐしゃぐしゃと掴まれる。

 

「はい……」

 

 もはや予測不能な行動に、力なく応えるしか無かった……。

 

「まいいわ。ヤな事はお風呂に入って、パーッと洗い流しちゃいなさい。風呂は命の洗濯よ?」

 

 

 

 

 

 気まずく感じたまま脱衣所に入ると、ブラなどの下着が干してあった。取りやすいからここなんだろうけど……。うーん。

 

 入る段になっても存在を無視できずに、扉の前で思わず眺めていると、足に水飛沫が……

 

 水飛沫?

 

「グワワワワッ!!!!」

 

 謎の生物が、目の前で赤いトサカを揺らして身震いしている所だった。

 

「うわぁぁあああ!?」

 

 思わず脱衣所の出口まで走り、謎の生物と、ミサトさんを交互に見やる。

 

「んみっ、ミッミサトさん!? あの、あれ、その……」

 

「なに?」

 

 謎の生物を指さそうとしたが、それは悠々と足元を通り過ぎるところだった。

 

「あ……」

 

「ああ、彼? 新種の温泉ペンギンよ」

 

 そのまま冷蔵庫に向かうと、自分でボタンを押して開けて、入っていってしまう。

 

 タオルの掛け方も様になっているし……。

 

「あ、あれ……」

 

 エヴァやNERVに関係あるんじゃ……。

 

「名前はペンペン、もう1人の同居人」

 

 が、それは飲み込んだ。

 

 ミサトさんがそう言うなら、それ以上は知らない方がいいんだ……たぶん。

 

「それより前、隠したら?」

 

「アッ……」

 

 ミサトさんの焦点がそこに合っているのを見て、羞恥に悶えながら風呂に入った。

 

 見てたよな……。うぅ……。

 

 思い出して、何度も頭が熱くなる。

 

 最悪だ……。

 

 

 

 

 

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 湯船に浸かるのは、あの時以来だった。

 

 葛城ミサトさん……か……。

 

 気を遣ってくれるし、分からない事も多いけど、最初思ってたより、悪い人じゃないんだ……。

 

『風呂は命の洗濯よ』

 

 脳裏に浮かぶ笑顔のミサトさん。

 

 優しい人なんだ。

 

「でも風呂って、嫌なこと思い出すんだよな……」

 

 手首が痒くなる。

 

 心のささくれが血を流していた。

 

「エヴァか……」

 

 心のささくれ、それは今2つあった。

 

 もう乗りたくない。

 

 今まで通り自分を諦めてしまえば、価値が無ければ、心が無になれば、人形生命体の一つになれば……何も感じなくて済む。

 

 だが、乗らなければならない。

 

 自分にしか、乗れない。

 

 人類の敵、使徒を倒せる。

 

 愚かにも、それに喜び、もろ手をあげてエヴァを歓迎する自分がいるのも事実だった。

 

 エヴァに乗っていれば、僕は生きていける! 

 

 価値があるんだ! 僕にだって!!

 

 すごいんだ!! 僕だって!!!!

 

 そう叫んでいるんだ。

 

 生きているだけの自分と、エヴァに乗る自分が離れていく。

 

 だけどエヴァは与えられているだけだ。

 

 このまま依存して、そして……。

 

 エヴァが無くなった時、僕は……。

 

 手首がヒヤリとして、とても痒くなった。

 

 心がバラバラになって、胸の虚空が広がる。

 

 頬を伝う涙。

 

 僕は。

 

 湯船を飛び出した。

 

 やっぱり、水は苦手だ。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 いつもの曲を掛けると、心が落ち着いていく。何も考えなくても大丈夫になる。

 

 曲の調べに身を任せて、ぼうっとしていた。

 

 ベッドや枕が違う。

 

 ここも知らない場所なんだと、肌で分かる。

 

『ここは貴方の家なのよ』

 

 脳裏に浮かぶミサトさん。

 

 でも、家じゃない。

 

 ミサトさんは優しいけど、保護者だ。

 

 先生と同じだ。

 

 ここに安らぎはない。

 

 しかも、この街で知っている場所なんてどこにもない……。

 

 僕の場所はない。

 

「なんでここに居るんだろう」

 

 口をついた自問。

 

 僕がここにいる理由。

 

 エヴァ。

 

 知らない兵器。

 

 シンクロ、人造人間、〝瞳〟

 

 なにも知らない。

 

 エヴァってなんなんだ? なんで僕しか乗れないんだ? 使徒ってなんだ……どうして攻めてくるんだ……。

 

 いきなり降って沸いた状況が、出来すぎている気がする。

 

 そもそも、なぜ初陣で勝てたのか分からない……。

 

 もし、もし次に乗るときは?

 

 また分からないまま勝つのか?

 

 それとも死ぬのか……?

 

 喉が、乾く。手がじっとりと湿っていた。

 

 冷や汗が背中を濡らしている。

 

 どうやって……。

 

 なにかおかしい……。

 

「シンジくん、開けるわよ」

 

 思考は、ミサトさんの声に分断された。

 

「一つ言い忘れてたけど、あなたは人に褒められる立派な事をしたのよ」

 

 息を吸うミサトさん。

 

「胸を張っていいわ、おやすみ。シンジ君」

 

 その声は、やはり気遣いが滲んでいる。

 

「がんばってね」

 

 去っていく足音。

 

 頑張ってね。

 

 期待、されている。

 

 その甘美な響きを死の恐怖に被せて、僕は〝それ〟をゆっくりと、心のおくそこに封印した……。

 

 でなければ、僕はエヴァになってしまう。

 

 そんな、気がした。

 

『ええ、今も、そう』

 

 綾波、レイ。

 

 今すぐにでもここを飛び出して、この違和感を言葉にして、伝えてあげたかった。形を与えて、一緒に語らいたかった。

 

 だけど……。

 

 僕はやっぱり、説明できないよ。

 

 綾波……。

 

 あの笑顔を思い出すと、糸が切れるみたいに、スッと意識を手放してしまった。

 

 深い、眠りだった。






 次回 「停止する、心。」
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