幼い頃から、駆けっこは得意だった。
同年代の子に負けたことは一度もなかったし、年上が相手でもめったに負けることはなかった。
そんな私に向かって、周りの大人たちは「さすがだね。あの人の娘なだけある」なんて言って褒めてくれた。
嬉しかった。誇らしかった。
私はあの人が芝を駆ける姿が、好きだったから。
でも、お母様が私の走る姿を見ることはほとんどなかった。私が物心ついたころから、仕事を忙しそうにしていて、家に帰宅するのは夜遅く。休日も滅多に家にいないから、私が遊んでいる姿を見ることなんて、なかった。
初めて私が走る姿を見せられたのは、初等学校の運動会。
私はその時は負け知らずだったから、お母様に良い所が見せられる、と意気込んでいた。
そして私は思惑通りに1番を取った。
なんて言って褒めてもらえるだろう。そんな風にうきうきしてお母様の元に駆け寄った私が目にしたのは——失望の、表情だった。
私には理解できなかった。納得も、できなかった。
悔しくて、悲しくて、その日の夜はなかなか寝付けなかった。
トレセン学園に入学すると言ったときもそうだ。理不尽なまでに大反対されて大喧嘩をした。
他の学校の入学願書なんて絶対に書かないし、無理やり手続きを進めたって、部屋に立てこもってでも行かないから。そんな、子どもっぽいけど精一杯の反抗の果てに、あの人は呆れかえりながらもトレセン学園の入学手続きを進めてくれた。
けれど、この学園に来て私は思い知った。
私には、溢れんばかりの才能なんて、なかった。
それを持っていたのは、私の同級生のライバルたちだった。
絶対に絶対に、意地でもそれを口にすることはしなかったけれど、本当は分かっていた。
ただ、それを受け入れるのは、少しだけ時間がかかった。
お母様の才能を、受け継ぐことができなかったのだと認めるのは、苦しかった。
けれどなんとか切り替えることはできた。
私の目標は、才能を受け継ぐことじゃない。一流の、ウマ娘になることなのだ。
そのための手段は、生まれ持った才能を磨き上げるということだけに限らない。
神様は慈悲深い。
生まれ持った才能の差を埋めるため、『努力』という手段を用意してくれた。
もともと、努力をすることは嫌いじゃなかった。
目的に向かって、技術や経験を少しずつ積み上げていく作業は私を裏切らない。そう思っていた。
けれど——
「今なら少しだけ分かるわ。どうしてあの人が、あそこまで難くなに私を認めなかったのか」
癪だけどね。そう言って彼女が浮かべた苦笑いは、いつもの力強い高笑いとはあまりにもかけ離れていて、ざわりと胸に不安と焦りがうごめく。
これじゃあ菊花賞の時と同じだ。やっと、やっと高松宮記念でGⅠを取って、光明が見えたと思ったのに。先月のスプリンターズステークスは7着、そして今、走り終わったばかりのマイルチャンピオンシップも……7着。
「こら、へっぽこ。一流のトレーナーがそんな顔しちゃダメじゃない」
キングヘイローが腰に手を当てて振り向く。
「まぁ、今のは私が悪かったわ。でも一流のウマ娘には、しょげて立ち止まっている暇はないのよ。結果が出なかったのだからトレーニングメニューは見直さなくちゃ。私の才能にふさわしいメニューを検討しなおしなさい。そしてまた記者たちの目をひん剥かせてやるんだから! おーっほっほっほ!」
「ああ、そうだ。そうだな!」
そう言いながら、俺は思いっきり両手を頬に打ち付けた。
何やっているんだ、俺は。敗戦直後の担当ウマ娘に気を使わせて。
「よし、今度は完璧なメニューとレースプランを用意するからな!」
「そうね。じゃあ私は学園に戻って走り込みを——」
「それはダメだ」
とんでもないことを言い始めたので、慌てて止めた。
「ただでさえ最近はオーバーワーク気味だったんだ。せめて今日はゆっくり休んでほしい。レースを重ねて身体にも負担がたまっているんだから、追い込むだけじゃなくて、うまく調整しながら、な」
そんなこと、きっと彼女は分かっている。だから、俺が止めなくちゃいけないんだ。
「……分かったわ」
意外にあっさりと、彼女は受け入れた。けれど、
「ねぇ。神様って、残酷ね」
ぽつりと、そう言った。
「才能の差を埋める手段があると期待させておきながら、きっちりと上限を設けておくんだから」
軽はずみな答えが許されない空気に、思わず言葉に詰まってしまった。
けれど元々答えなんて期待していないかのように、キングヘイローは顔を上げたまま控室に戻っていった。
「URAファイナルズ?」
「ああ、秋川理事長の尽力でなんとか年末の開催にこぎつけられた。俺たちにも正式に参加依頼が来ている。次に出走するレースはこれにしようと思うんだけど、どうかな?」
「そうね。いいんじゃないかしら」
キングヘイローはうなずいたが、どこか覇気がない。
先日の様子を見て、彼女には何か大きな目標が必要だと感じていたから、この話は渡りに舟だと思ったのだが……不発だっただろうか。
「それで、出走するコースを申請する必要があるけど、どうする?」
最近のレースは短距離が続いたが、それに絞る必要もない。そして、彼女の同期のライバルたちはおそらく中距離で申請してくる。
「……少し、時間をもらってもいい?」
「そうだな。キングが、キングらしい走りができる一番いい選択ができるように、考えてみよう」
「あら、分かっているじゃない」
キングヘイローは不敵な笑みを浮かべるが、どこか強がりにも見える。
そして俺自身、彼女がすぐに答えを出せなかったことに少し動揺を覚えたのも事実だ。
それを振り払うように、別の話題を振ってみる。
「ああ、それから。君の後輩の子が、来週末のレースに出るそうだ」
「知ってるわよ。もちろん」
突然すぎていぶかし気な表情を浮かべながらも、キングは頷いた。
そう、彼女は面倒見がいいから、後輩のレースの予定やその結果もしっかり把握していたりする。
「この間、その子とたまたま会って、是非キングと一緒に来てくれって言われたんだ」
「そう。珍しいわね」
その割に直接レースに応援しにいったりしないのは、余計なプレッシャーを与えたくないと考えているからのようだった。
「でも呼ばれたのだったら行くわよ。当然」
そう言って、キングヘイローは少し嬉しそうに微笑んだ。
そしてその翌週、キングと二人でレース場に入ると、観客席の一番前に陣取った。
キングの後輩である、ネコ目のウマ娘が走るのは、この日のメインレース。
彼女がゲートに入った姿を見ると、キングはピンと両耳をそろえてそちらに向けた。
ゲートが開いたその瞬間から、キングヘイローはコロコロと表情を変える。
「いいわ! 最高のスタートよ!」
「そのまま、そのままっ」
「あっ、もうちょっと! もうちょっと頑張りなさい!」
顔を真っ赤にしながら、腕をぶんぶんと振って大声を上げる。
「……あっ、あっ」
しかし、先頭のウマ娘がゴールすると、キングは力なく腕を下ろした。
後輩の子の着順は5着。悪い順位ではないが、決して望んでいた結果ではないだろう。
キングの尾が一度所在なげに揺れて、力なく垂れ下がった。
彼女自身が負けたわけではないのに、そのしょぼくれ方は傍目にも明らかで——しかし、それはすぐに払拭され、キングはピンと背筋を伸ばす。
彼女の視線の先を見て、すぐにその理由は理解できた。
「キング、来てくれたんだ」
控室に戻る所だったのだろう、ネコ目のウマ娘が、こちらに気付いて話しかけてきた。
「ごめんね、わざわざ来てくれたのに。……1番、取れると思ったんだけどなぁ。格好悪い所見せちゃったね」
頭を掻きながら笑っているが、明らかに強がりだった。
「何言ってるの。立派だったわよ」
「キング、あんまり私を甘やかなさないでよ。泣いちゃうから」
眉尻を下げながらそう言ったが、彼女はすぐに笑顔を作ると、むん、と力強く拳を握って見せる。
「でもね、キング。私、どんなみっともない姿を見せてしまったとしても、あきらめないから。ずっと一番近くで、最高のお手本を見させてもらったからね」
キングヘイローは一瞬虚をつかれたように目を見開いたが、
「おーっほっほっほ! それでこそ、このキングの後輩よ」
いつもの調子で右手の甲を口元にあてて笑う。
「そうよ。あきらめたら、今あなたが感じている悔しさを晴らす機会は、二度と来ないんだから」
そう言ったキングの姿を見て、少し眩しそうに目を細めながら、彼女はこくりと頷いた。
「もどかしいわね。言いたい事の一割も言葉にできなかった気がするわ」
後輩のウマ娘の後ろ姿を見送りながら、少し悔しそうにキングヘイローは唇をゆがめた。
「なかなか、言葉だけでは伝わらないだろうな。でもあの子は分かってるさ。きっとね」
そうかもね、と言ってキングは表情を和らげる。
「まぁ、結果はどうあれ頑張ったんだからねぎらってあげないとな。食事にでも誘おうか」
自分の懐の中身を頭の中で計算しながらそう言うと、
「あなたも分かってきたじゃない。それこそが一流の気遣いというものよ」
ふふん、と何故か得意げにキングが鼻を鳴らす。
それに対して苦笑いを返しながら、携帯を取り出して電話帳を開いた。
知り合いの関係者にちょっとだけ無理を聞いてもらい、キングと二人でレース場の裏に入らせてもらった。
時間的にそろそろ着替え終わった頃だろうか、と思いつつ控室に向かうと、その途中で今日走ったネコ目のウマ娘と、ボブヘアのウマ娘の二人の姿が目に入った。
少し距離があったので近寄ろうとしたところで、キングヘイローに腕を取られて押しとどめられた。
どうしたのか、と目で問いかけるが、キングは表情を険しくして答えを口にしない。
疑問に思いながら、目をすがめて二人を見ると、ネコ目の子の方がボブヘアの子に抱きしめられながら、肩を震わせているのが分かった。
「……くや、し……悔しい、よぉ」
彼女の声が聞こえる。
「今日はっ、ぜ、ったい、勝ちたかったのにっ。いつも、いっ、つも、キングに救われて、ばっかりで。今日くらい、私が、キングを、はげましてあげたかった、のにぃっ……」
ボブヘアの子と目が合った。すると彼女は少し微笑んで、わずかに首を横に振る。
それを見て、キングは俺の腕をとったまま踵を返した。
俺も、それに抵抗することはなかった。
あの子たちは、分かっていたのだ。キングの状況や、心情を。
建物から外に出たところで、キングは立ち止まった。
メインレース中はまだ高かった陽は、いつの間にか大分高度を下げていた。
「バカね。自分のレースくらい、自分のために走ればいいのに」
しばらくの沈黙の後、震えるのを懸命にこらえたような声で、キングヘイローは言った。
そして、ふぅっと長い息をついて、ぎゅっと拳を一度握ってから振り向いた。
「トレーナー」
ぞくりとした。
気迫に満ちた彼女の琥珀色の瞳は、夕日を反射して煌々と金色に輝き、触れればバチリと手を弾き飛ばしそうな、電撃の煌めきを宿しているように見えた。
「URAファイナルズ出走の申請をするわよ。コースは——『中距離』」
彼女はずっと悩んでいた。
はっきりとその内容を言うことはなかったけれども、なんとなく想像はできた。
例えば、短距離で連続で結果を出せていなかったから、他の距離ではそこから逃げることになるのではないか。あるいは、今の状態でライバルたちと競った所で勝負になるのか。
そんな葛藤がありながら、それでも彼女は『中距離』を選択した。
あるレースで敗退した後、記者たちの前で高らかに次に出走するレースを宣言したキングに対し、他のトレーナーが呆れた様子で言った言葉を覚えている。
『あんなに負けてばっかりなのに、あれだけ自信満々なのはすごいな』
そんなわけない。そんなわけが、ないのだ。
キングヘイローはいつだって、どのレースに向けてもひたむきに努力を続ける。
努力をすればするだけ、レースに負けることが怖いし、負けた時のショックは大きい。
そんな経験を繰り返せば、自信なんて簡単に失う。
だから、彼女のあれは自信なんかじゃない。彼女自身の夢を見失わないための、誓いなのだ。震えて、折れてしまいそうな心を、意地とプライドと願いで塗り固めて、なんとか立っている。そういう姿だ。
そして、勇気を振り絞りながら、自分の理想の姿でいることを自らに課すこのウマ娘はこう言うのだ。
「あなたとあの子たちに、私が優勝する姿を一番近くで見る権利を、あげる」