URAファイナルズ 中距離 予選2日目。
天候:雨 バ場:不良。
薄暗い地下バ道を、どこか硬い表情のまま、キングヘイローが歩む。
長い通路の先に、ほの暗い日光が差し込む様子が見えると、ふっと短く息を吐き、前に向かう足に力を込めた。
「やあ、キング」
そんなタイミングで横合いから声をかけられて、キングヘイローはビクリと肩を震わせる。
「……スカイさん」
しかし声の主が彼女の同期のライバルであることが分かると、わずかに表情を緩める。が、すぐに引き締めて前を向く。
彼女のそんな反応に苦笑いを浮かべながら、
「いやあ、それにしても私たちが走るレースが、この天候でこのコンディションってさ。何というか、私たち『らしい』よねぇ」
セイウンスカイはそう言って肩をすくめた。
「どういう意味かよくわからないけれど」
キングヘイローが少し呆れた表情を浮かべながら、
「そんなこと言ったらあなたの名付け親が泣くんじゃないかしら」
そう返すと、セイウンスカイは声を上げて笑った。
「あっはは、確かに! まぁ、普段はいい天気の日にのんびり釣りするのが好きだし、それも私らしいって言えるのかもしれないけどさ」
そう言いながら、わずかに口の端を歪める。
「でも、レースってなるとね。特にキングが相手なら、何の障害もない、素直で王道なレースよりは、こういう条件のレースで雌雄を決するっていうのが、私たちらしいって思わない?」
同意を求めるように視線を向けてくるセイウンスカイに、キングヘイローは足を止めると、腰に手を当てて身体ごと向き直る。
「もうっ! 何を気にしているのか分からないけどっ。私は晴れでも雨でも、良バ場でも不良バ場でも、いつだってどこであっても、一流の走りを見せるのよ。あなただってそうでしょう?」
逆にそんな風に問いかけられて、セイウンスカイは目を見張る。そして、
「あははっ、さすがだなぁ、キングは」
ふにゃっ、と表情を崩して笑う。
「でもそうだね。今はそんなこと関係ないか。いずれにせよ、今日ここで、楽しいレースを皆に見せてあげないとね」
彼女がそう言うのを聞いて、キングは腕組みをして、ふんっと鼻を鳴らす。
「わざわざ楽しませようだなんて考えながらレースをするわけではないけど、結果的にそうなるような良いレースをしようという事なら、そうね、同意してあげてもいいわ」
「素直じゃないね~」
くすくすと、セイウンスカイは口元に手を当てて笑う。
そして二人は、どちらからともなくスッと前を向いて表情を切り替えると、ゆっくりと出口に向けて歩き始めて。まるでタイミングを測ったかのように、水をたっぷりと含んだターフに、同時に足を踏み入れた。
「あの、私たちも来て良かったんでしょうか?」
トレーナーの隣でネコ目のウマ娘がそわそわしながら、そう言った。
「どうして?」
不思議そうにトレーナーがそう問うと、
「キング調子悪そうで~。最近は私たちが応援に行くって言っても、あまり嬉しそうじゃなかったから~」
ボブヘアのウマ娘が眉尻を下げながら答えた。
「そうか。まぁ、大丈夫さ。今回君たちに来て欲しいって言ったのはキングなんだから。それに彼女は応援に来られるのが嫌だと思ったわけではなくて、ただ君たちをガッカリさせないか心配だったんだと思うよ」
「そう、ですね。そうなんだと思います。でも、それって何だかキングらしくない、ですよね」
トレーナーの言葉を肯定しながらも、ネコ目のウマ娘は顔を俯かせて唇を引き結ぶ。
「キング、今日は勝てそうなんですか?」
「……勝てないと思ったら、レースには出させないよ」
そう答えつつも、確かに、ここ最近の調子が良かったかと言えば、はっきりと肯定することはできない。
そんなトレーナーの本音が見えたのか、キングの二人の後輩は表情を陰らせる。
自分の失態を悟ると、トレーナーは苦笑いを浮かべつつ、
「キングだって、一瞬弱気になったりすることはあるかもしれないけど、いざレースを走る段階になれば話は別だ。ほら」
そう言って、トレーナーはゲートに入ったキングヘイローを指差す。
そこには強いまなざしを真っすぐに向ける彼女の姿があった。
それを見て、ネコ目のウマ娘は胸元でぎゅっと手を握りしめると、コクリとうなずいた。
その直後、ファンファーレが鳴り止み、ガタンとゲートが開いた。
失敗した。
キングヘイローは舌打ちこそこらえつつも、表情が歪むのを抑えられなかった。
この不良バ場では、先行して状態がまだマシなコースを探しながら走る方が有利だ。
だから、全体的に前掛かりなレースになるはずだと予想していた。
キング本人としてはそのコースの奪い合いには参加せず、多少不利になったとしても後ろからその様子を観察しつつ、脚をためておく方が自分には合っていると判断していた。
けれど、結果から言えば、キングと同じように考えたウマ娘の方が多かった。
予想に反して、後方に集団ができ、キングヘイローはその中に埋もれてしまった。
状況は良くない。周りを囲まれるような状況で、コースは自由に選択できず、ぬかるんだ足元はスタミナを奪い、前方のウマ娘が蹴り上げる泥は勢いよく体に当たってスピードを落とさせる。
我慢を強いられるその状況下で、それでも周りの誰かが動くタイミングを見落とすまいと、キングヘイローは神経を尖らせる。
誰が動く? 逃げたウマ娘とは大分距離が開いているはずだから、普段好位で走っている娘はそろそろ前を追いたいだろう。自分の前にいる誰かか? それとも横にいるこの娘か?
いつ動く? 今? それとも次のコーナー?
焦る気持ちを抑え、予測を立てながら観察を続けていると——
ここだ。
自分の外側、斜め前。スピードを上げようと一瞬身を沈めたウマ娘の姿が目に入った。
チャンスは一瞬。空いたそのポジションを、他のウマ娘に奪われるわけにはいかない。
間合いを測った後、ここしかないというタイミングで横へのスライドを仕掛ける。と、
「っ!」
その進路を遮るように、子どもの拳くらいの大きさの泥の塊が顔の高さにまで跳ね上がって向かってきた。
無視して目に入ってしまうと致命的だが、避けたら間違いなく勝機を逸する。それなら。
「こおんのぉぉぉっ!」
キングヘイローは少し首を傾けて、泥を額で受け止めた。
結構な衝撃に、一瞬頭がくらりとするが、問題ない。
首尾よく混戦を抜けて、一度頭を振ると、キッと前方に顔を向ける。
「————あ、」
先頭を走るセイウンスカイの背中は、キングが覚悟していたよりもずっと遠く、小さかった。
「はは、すごいな」
かなり強引な形で集団から抜け出たキングを目の当たりにして、トレーナーが半ば呆れ気味に乾いた笑いを漏らす。
「でも今のは~……結構危ないですよね~?」
ボブヘアのウマ娘は心配そうな表情でそう言った。
「そうだね。決して褒められた対応ではないし、後で反省会だな。ただ、そのおかげで勝機が残ったと言えるのも確かなんだ」
「でも、さすがにあそこまで差が開いちゃったら……」
ネコ目のウマ娘が眉根を寄せて、不安そうな目をコースに向ける。
「ああ、想定していたパターンの中でも最悪に近いものではある。でも」
トレーナーもキングに視線を向けながら、目を細める。
「まだ負けたわけじゃない。可能性はあるんだ。どれだけ負け続けても、彼女が磨きあげてきた武器があるから。もしも彼女が諦めてしまったのなら話は別だけど——」
「そんなこと、あるはずないです」
不安そうな表情から一転、力強く言い切るキングの後輩たちの姿に、トレーナーはふっと笑みを浮かべる。
「じゃあ、キングの背中を押してあげてほしい」
そんなこと言われるまでもないとばかりに、二人はこくりと頷いた。
前を走る、小さな背中。
その光景は、ひりつくような痛みとともに目に焼き付いている。
いつも、そこから歯を食いしばって前を追いかける。少しずつ、大きくなってはいくけれど、結局最後まで追いつけずに終わる。
そんな経験を、何度も繰り返したから。
ああ、またか。そんな思いが頭をよぎってしまった。
立ち眩みのように、目の前が暗くなったその瞬間。
『キングーーーーっっ!!』
それは、きっと幻聴だ。
だって、聞こえるはずがない。このつんざくような歓声の中、都合よく、その言葉だけが耳に届くだなんてこと、あり得ない。
けれど。
こみあげてくるものを抑え込むように、キングヘイローはガチリと奥歯を噛み鳴らした。
許せない。許せるはずもない。
今、一瞬でもあきらめようとした?
この、私が——?
「う、ああああぁぁぁっっ!」
これまでに感じたことのないほどの怒り。
腹の底をうねるように這いずり回っていたその灼熱を己の身の内に留めておけず、喉元を焦がしながら、裂帛の叫びとともに吐き出した。
「ここでスパート!?」
ネコ目の後輩が驚きの色を声に滲ませながら小さく叫ぶ。
「まだ~、ちょっと早くないですか~?」
ボブヘアの後輩も不安そうな色を隠すことができていない。
「確かに、このコースは最終直線の距離が長い。それなのに、まだ最終コーナーにも入っていないうちからスパートをかけるのは、ちょっとした賭けかもな」
そう言いながらも、トレーナー自身の表情はそれほど悲観的でもない。
「だけど、今この状況から勝ちに持っていくには、これしかない」
できればそれを信じたい、けれど。そんな半信半疑の表情を浮かべる二人に、トレーナーはニッと微笑んでみせる。
「さっきも言ったろう? まだ勝機はあるって。彼女が積み上げ、磨き上げてきた、彼女の武器——何だと思う?」
「末脚のキレと、どんな時でも諦めない心の強さ」
キングを慕う後輩は、当然とばかりに即答する。
「そうだね。全ての能力が高い、化け物ぞろいの同期たちと比べても、キングの末脚は同等かそれ以上だ。それに、彼女には体力が切れて限界が来た時、さらにもうひと伸びする力がある。一流と呼ばれるウマ娘には、大体そういう執念とか、粘り強さみたいなものが備わっているものだけど、キングはその中でも突出してる、と俺は思ってる」
レースの中盤までは考えることがたくさんある。
数秒で目まぐるしく変わる状況に合わせ、事前に考えていた戦略を修正し、決断して実行し、その結果を評価して必要であればやり直す。
けれど終盤に入れば後は走ることに集中するだけ。
身体に残ったすべてのエネルギーを振り絞り、余計なもの全てをそぎ落として、純粋に最高速で走り切る。
それが正しい事だと思っていた。
けれど、最近になってそれができなくなってきた。脳裏に色々な場面、言葉がよぎるようになって、頭の中を空っぽにすることができない。
それはレースに慣れて感覚が鈍くなっているのか、それとも集中を維持できないほど衰えたのか。
『え、まだ走ってたの? 見てる方が痛々しくなるし、もう十分なんじゃないかなあ』
『ボロボロになりながらも頑張る姿がいいの! きつくて辛いけど頑張ってるのは私だけじゃないって励まされるから』
『ピークを過ぎて、勝てないのにレースに出続ける、って我儘だな。他人にどれだけ迷惑かけているのか分かって欲しいよ』
その言葉を聞いたのは、レース場の観客席だったか、テレビ番組のインタビューだったか、あるいは街中でふと漏れ聞こえた会話だったか。
『ねぇ、キングちゃん。私ね、最近のキングちゃんの走りが大好き。だから、もう一度一緒に走りたいの!』
『あははー、キングってば大げさだなぁ。私、別に無理してるわけじゃないよ~? 大丈夫大丈夫、これくらいのケガならきっちり間に合わせてみせますって~』
『ごめんね、キング。私のレースはここでおしまい。私は私の全てを出し切った。こんなケガくらい、今までならすぐに治していたけど、今はもう、そんな気力も残ってないのよ』
一緒に走ったウマ娘たちの言葉は、その時の彼女たちの表情と一緒に浮かんでくる。
本当に、こんなこと考えている場合じゃないのに。
一番の勝負所、一番走りに集中しなければいけない場面で、どうしてこんな余計な事を。
「そうよ。目的がぶれては駄目。私は、勝つために、一流を証明するために——」
“一流”って、何?
「苦しかったと思うよ。思い描いていた理想が高いから、直面する現実とのギャップは大きかったはずだ」
「でも、それは……」
「ああ、そうだね。きっと、それはキングだけじゃない。トレセンに入ってきたほとんどのウマ娘が、それぞれに程度の差はあるんだろうけど、同じように悩んで、苦しんでる。だからこそ、キングがそこから見せたものは、彼女の強さの本質なんだろうな」
「キングの、強さの、本質」
トレーナーの言葉を反芻するように、ネコ目のウマ娘はそう口にして、考え込むように視線を伏せた。
「それって、具体的にはどんなことですか?」
「そうだな……」
コース上のキングヘイローの姿から目を離さないまま、トレーナーは顎に手を当てる。
「何度失敗しても、他人から何を言われても、目標を見失わず、揺らがない強い心。負けを繰り返してもそれに慣れてしまわないプライドの高さ。そして、必要だと思えば積み上げてきたものを打ち壊して新しいものを作ろうとする潔さ」
ああ、確かにそうだ。キングヘイローの姿を一番近くで見てきた後輩たちは納得する。
キングは一度だって、『どうせ』とか、『せめて』とか、『無理』なんて言葉を口にすることはなかった。
いつもいつも、目指していたのは勝利で、負けるたびに悔しがって、次に勝つためにどうすればいいか研究をして、試行錯誤していた。言い訳をしたり、開き直ったり、変に達観することなんかも一度もなかった。
“一流”のウマ娘。
自分が憧れたそれは、周りのことすべてを切り捨てて、ただ走る、そういう存在だっただろうか。
そんな疑問を抱いた瞬間、また頭の中で、いつか言われた言葉がフラッシュバックする。
『いつも~、キングの走っている姿を見ると~、励まされるの~』
『うん。一緒に笑って、悩んで、苦しんで。一番近くにいた先輩が格好良く輝いてる姿を見ると、皆に「あの人が、私の先輩なんだよ」って自慢したくなるんだ』
ああ、もう、
『大丈夫。間違ってなんかないさ。今まで君は、君が君らしく走れる道を切り開きながら走ってきたし、これからもそれは変わらない。俺が保証する』
本当に、あの人たちは。
つい先ほどまで、自分が脚を動かす原動力となっていた激しい怒りは鳴りを潜め、何か別の物に変質していた。
「分かったわよ。もう、十分に分かったから」
沸々と際限なく浮き上がってくる他人の言葉、表情、イメージ。
自分は、もうそれを頭の中から切り離すことはできないのだ。
他人からの期待も、同情も、嘲りも、非難も。ライバルとの友情も、尊敬も、競争心も。喜びも、楽しさも、悲しみも、寂しさも。全部。全部だ。
全部まとめて抱えこんで、あのゴールの向こうまで持っていってあげる。
だって、私は。
「『キング』なんだからぁぁッ!!」
「キングは、勝つことに対してとても一途で、純粋だった。だから、もしもレースに勝利することに何かの資格が必要なんだとしたら、」
そう語るトレーナーの表情は確信に満ちている。
「彼女は十分、その資格を満たしているよ」