王は泥に塗れ、その矜持は光り輝く   作:さんずい

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後編

——来た!!

 

 背中から感じるプレッシャーが急激に高まるのを感じ取って、セイウンスカイの口元にかすかに笑みが浮かぶ。

 必ず来ると思っていた。来ると、期待していた。だから、ハイペースで飛ばしているように見えても、実際には脚は残してあった。

 セイウンスカイは、ひゅっと息を吸うと、スプリントをかけようと全身に力をこめた。が、

「あ、れ——?」

 思ったように、スピードが出ない。脚に、力が入らない。

 焦りを表情に出さないようにしながらも、セイウンスカイは思わず唇を噛んだ。

 

 万全でないのは分かっていた。脚のケガが思っていたよりも長引いて、このレースにギリギリ間に合わせるのが精一杯だった。

「本当に、出るの?」

 レースへの登録締切日、何度も飲み込んできたであろうその言葉を、ついにトレーナーが口にした。

「間に合ったとしても、走って悪化する可能性もある。そうしたら日常生活にも影響が出かねない。どうしてもこのレースじゃないとダメなの?」

 訴えかけるような視線を、セイウンスカイに向けてくる。

「心配かけてごめんね」

 へらっと笑顔を浮かべながらも、

「でも、今まで一緒に走ってきた子たちと、こんなに大きな舞台で走れる機会は、もう今後ないかもしれないからさ」

 そう答えると、トレーナーは眉間のしわを深くして苦渋の表情を浮かべた後、無言でうなずいた。

 セイウンスカイが休養している間に、同期で引退を決めた子が増えてきていた。その事実は、これまでしのぎを削ってきた黄金世代と呼ばれたウマ娘たちとも走る機会が失われつつあることを意識させるものだった。

 だから、トレーナーに語ったことも間違いなくこのレースを走る理由の一つではある。

 けれど、口には出さなかったもう一つの理由がある。

 

 セイウンスカイはちらりと後方を一瞥する。

 そこには思った通りの姿があった。

 彼女の自慢の勝負服は雨に濡れ、泥に塗れ、バ群にもまれて端が擦り切れている所もあった。

 泥は顔にもべったりと張り付いていて、なんとかそれが目に入らないようにと片目を半分閉じかけながら走っている。

 無理なスパートをかけたのか、口が半分開いていて、呼吸も苦し気だった。

 その姿を見て、もう一度セイウンスカイは笑みを浮かべる。

 彼女の姿が可笑しかったからではない。むしろ逆だ。

 確かに優雅とは言えないかもしれない。それでもセイウンスカイにとってその姿は美しかった。

 けれどキングヘイローの視線の先にあるのは、先頭を走る自分の背中ではなく、そのさらに先のゴール地点だった。それが、少しだけ悔しかった。

 そう感じた瞬間、セイウンスカイの中でどこかつっかえていたものが取り除かれたような感覚があり、どこかちぐはぐだった全身の力の流れが滞りないものになった。

 これなら、いける。そう思ってもう一度脚に力をこめた。

 

 いつも、もったいないと思っていた。

 キングのレースを見ていた時のことだ。

 セイウンスカイの見解では、黄金世代のメンバーを純粋な素質や能力だけで並べると、彼女自身とキングヘイローは最高位から一段劣る。二人に力がないわけじゃない。むしろ近年のどの世代に入っても、しっかりと上位に食い込む力はある。けれど、それ以上に他のトップクラスのメンバーの力が、突出しているのだ。

 だから、セイウンスカイは勝つために知略を練ってレースに臨んだ。彼女にも、世代トップのメンバーと比べて優っている部分はあって、それを最大限に生かした上で他の子たちの突出した力を生かさせない展開へ持っていくために策を弄した。

 けれど、キングヘイローはその逆だった。いつも、レースでは真っ向勝負をしていた。何も考えずに勝負していたわけではないが、レースに向けた準備や作戦はいつだって自分の能力を最大限に生かすためのもので、競争相手の長所を消したり、短所を突いたりするようなものではなかった。

 もちろん相手のことばかり気にしていても仕方がないが、それでもそのバランスは大事なはずだ。特に自分やキングヘイローのように、純粋な力で劣るのであればなおさらだ。

 そうやって、レースに勝つための工夫ができないのは、もしかしたらキングのトレーナーのせいかもしれないと考えたこともあるが、そうではないことはすぐに分かった。

 彼は他人のことを正面から受け止めようとするキングヘイローの生き様を、そのままレースに持ち込むやり方を選択していた。

 それでも、それを理解した時点では、本当にそれが正しい選択なのかは分からなかった。

 勝利のためにできることをやり切っているとは思えなかったからだ。

けれど、そうしなければきっと今のキングヘイローの姿はなかった。

 だから、今では感謝している。それが巡り巡って、セイウンスカイにこの機会を与えてくれたから。

 

 そう。『機会』だ。

 

「どうだった、タイムは?」

 ようやくセイウンスカイのトレーニングが解禁されてから3日経った日。

身体も少しずつカンを取り戻した所で、一度コースを走ってみようということになった。

 そして、出走予定のレースと同じ距離を走り切った所で、セイウンスカイがそう尋ねると、トレーナーは一瞬間を開けた後、

「うん、復帰したばかりのこの時期としては上々かな」

 そう言ってタイムを伝える。

 確かに、彼女の言う通り、悪くない。でもその数字は、おそらく予選は勝ち抜けるが、本戦の入賞は難しいかも、というようなものだった。

「うーん……もうちょっと頑張りたいよねえ」

 苦笑いを浮かべながら、セイウンスカイはトレーナーが差し出したタオルを受け取る。

「感覚的には悪くなかったんだけど、それでもこのタイムかあ」

 タオルをかぶってベンチに座ると、視線を上に向けて空を仰ぐ。

 しばらく沈黙した後、

「ここまで、なのかな」

 ぽつりとそう漏らしたのを聞いて、トレーナーが目を見開いて硬直する。

 セイウンスカイはその様子を目にして、不思議そうな表情を一瞬浮かべるが、

「ああ、違う違う」

 すぐにその理由を察すると、少し困ったような表情で微笑みながら、ひらひらと手を振った。

「別に引退しようとかいう話じゃないよ。ただ、全盛期の力にまではもう戻らないのかな、って。そしたらさ、もう皆に着いていくのは難しいのかなって思ったんだ」

 ほっとしかけたのもつかの間、複雑そうに眉間にしわを寄せるトレーナーを見て、セイウンスカイは目を細める。

「昔はさ、そんなこと他人に言われたら、逆に燃えてたもんだけど。きっと今はもう、そうなのかな、って納得しちゃう」

 ぴんと伸ばした足先をぼんやりと見つめながら、言葉を続ける。

「そのくせ、本当にレースをやめるっていう所までは思い切れない。まだ、どこかで、なんとかなるんじゃないか、って燻ぶったものがあるんだ」

 そう言って自嘲気味に微笑んだ後、彼女は視線を落としてうつむいた。

 頭にかけたタオルが、セイウンスカイの表情を隠す。

 わずかな沈黙の後、

「スカイ。私はあなたのトレーナーだから、あなたが走りたいと望む限り全力でサポートする。でもね、走り続けることが、あなたを苦しめるだけになっていると思ったら、私は止めるよ」

 いつになく強い眼差しで、トレーナーがそう言った。

 

 優しい人だな、と思う。きっと、セイウンスカイから一生恨まれることさえ覚悟しながら言ったのだろう。でも、それに甘えるわけにはいかない。

 自分の舞台の幕を引くのは、あくまで自分自身の手でなければならない。

 でも、それは簡単じゃない。全然、簡単なんかじゃ、ないんだ。

 

 以前は、もっとガムシャラだったと思う。練習態度は真面目ではなかったかもしれないけれど、勝負に対する熱情は尽きる気配がなかった。

 ケガをして以降、それに陰りが見え始めたのは事実だ。けれど走るのを諦められるほどかというとそれも違う。

 じゃあやり残したことがあるのかと問われれば、すぐには思いつかない。

 もっと勝ちたい。能力を証明したい。はっきりしているのはその気持ちだけだ。

けれどそれも、他人からはクラシックの2冠を取っているのだから十分なんじゃないか、と言われるのは分かっている。

 誰からも理解されない、この呪いのような未練を断ち切るにはどうすればいいのか。

 レースに出る資格を失う。走ることができなくなるほどのケガを負う。そんな、否応なしに終わるケースはあり得るだろう。そうなればさすがに諦めもつくかもしれないが、消化不良の気持ちが残らないかと言えば、それも疑わしい。

 それなら、自分はもう勝つことなんてできないと、思い知らされればいいのかもしれない。

けれど、ただ才能の違いを見せつけられたような結果であれば、自分はきっと納得できない。

 負けた直後は脱力感や、絶望感みないなものを感じるだろうけれども、そこから徐々に、沸々と反発心が生まれ、ああすればよかった、こうしてみたらどうだろう、みたいなことを考えてしまう。

 自分の負けず嫌いが筋金入りであることは良く分かっていて、良くも悪くもそれがレースを続けるエネルギーになってきた。

 

 だから、もしも自分で終わり方を選べるのなら。

 もしも、どうしても誰かに引導を渡されなければならないのだとしたら。

 

 その相手は、才能にあふれた最強のウマ娘たちではなく。

 自分と同じように、もがき、苦しみ続け、それでもひたむきにゴールを目指す気持ちを失わず輝き続けた、そういう相手であって欲しい。

 

 その絶好の『機会』が今、この時なのだ。

 

 思い描いていたその光景が、その背中が、今現実に目の前に現れて。

 私は思わず手を伸ばしかけ——ぎゅっと握りしめて、こらえた。

 

 ゴールラインを越えて、加速を止めて、そのまま慣性に従って進む。

 自然と足が止まるのを待ってから、私は膝に手を当ててうつむいた。

 しばらくそのままでいると、誰かが傍に来た気配を感じた。

 誰か、だなんて。本当はぼかす必要もなく、ちゃんと分かっている。

 顔を上げると、案の定、肩を大きく上下させたキングの姿があった。

「スカイさん」

 一言、そう口にして、かすかに眉を寄せると、黙り込んでしまった。

「もー、キングってば、勝った人がする顔じゃないよ~?」

 苦笑いを浮かべながらそう言ったけれど、キングは固い表情を変えなかった。

「でも、あなた最後の直線、何か変だったから」

 一瞬、ドキリとしたが、すぐに彼女が気にしているのは別のことだと察することができた。

「ああ、大丈夫だよ。別にケガが再発したとかじゃないからさ」

「そう」

 やっと表情を緩めたキングを見て、何かが胸にこみあげてくるのを感じた。

「……キング、ごめんね」

 自然と口をついたそんな言葉を耳にして、キングは不思議そうに首を傾げる。

「私、さ。自分がレースをやめる口実に、キングを使おうとしたんだ」

「どういう意味?」

 いぶかし気に眉間にしわを寄せたキングを前に、私は大きく息をついて覚悟を決める。

「私、ケガをして、前と同じように走れなくなって。レースから身を引かなきゃいけないとなった時にどうしたら自分を納得させられるのかって、ずっと考えてたんだ。本当に色々考えたんだけど、多分どんなことになっても結局納得はできないと思った。だけど、唯一、万が一にでも諦められる可能性があるとしたら、それはキングの背中を見送った時だと思ったんだ」

 こんなこと、本人に言うだなんてどうかしてる。キングも言われて困るだけだって分かってる。でも言葉が止まってくれない。

「でもさっ。ダメなんだ。ここまでお膳立てされておきながら……やっぱり、悔しいんだ。悔しい、って、思っちゃうんだ、よぉ」

 もう、頭が真っ白になって、感覚もふわふわして。自分が笑いながら言っているのか、それとも涙を流しているのか、それさえもうわからない。

「おバカね」

 それなのに、なぜかキングの表情は、はっきりと分かる。

 彼女は驚くくらい優しい表情でそう言った。

「そんなの、当たり前じゃない。過去の全ては今この時のために。時には、未来の可能性までもつぎ込んで。そうやって私たちはレースを積み重ねてきたのよ。そう簡単に走るのを諦められるわけ、ないじゃない」

 そして少しだけ呆れたように、肩をすくめた。

「第一、ちょっとケガ明けで調子が出ないからって、レースから身を引けだなんて、本当に誰かに言われたの? 自分で勝手に思いつめたか、もし言われたのだとしても、どうせあなたがレースに出るために身を削って尽力してくれた誰か、ではないんでしょう? だったら、言わせておけばいいのよ」

 少し興奮気味にまくし立てた後、キングはまた優し気に目を細める。

「トレセン学園やURA、競技場には、私たちをレースに出させてくれる関係者がいて、そのためのシステムがある。そして、私たちがレース場に立つことを願ってくれるファンがいる。そのどれかが致命的に欠けてしまわない限り、私たちにはレースに出る権利がある。その権利がある限り、思う通りに走れなかったとして、そこでもがき続けるか、走るのを止めるかは私たちに提示される選択肢でしかないの。自分で、選んでいいのよ」

「そう。そうだね」

 キングが口にしているのは、ウマ娘にとっては当たり前のことで、私も自分では分かっているつもりだった。それなのに、ここまで思いつめてしまったのは、大きなケガと思い通りにならないタイムに焦って、それまで漠然としか抱いていなかった引退のイメージが一気に現実味を帯びたからだと思う。

 きっとキングは、そこまで理解した上で、あえてその当たり前を口にしてくれたんだ。

「キングさ、なんか、大人になった?」

「何よ、いきなり」

 予想していなかったからなのか、少し怯んだ表情を浮かべる。

「もう、何年走っていると思っているの? キングなんだから、ふさわしい成長はしているわよ」

 そう言ってから、照れが遅れてきたのか顔に赤みが差す。

「と、とにかく。あなたが今後も指針を求めるというなら。私と走る権利をあげるわ!」

 腕を組んでおとがいをそらすキングの姿がなんだか眩しくて、私は目をすがめた。

 

 控室に戻ろうと、地下バ道に向かう道中に、トレーナーの姿があった。

「私の役目、キングヘイローに取られちゃったみたいだね」

 苦笑しながら、彼女は私の頭に手を置いた。

 普段はこんな子ども扱いなんてしないから、よほど心配をかけてしまっていたのだと思う。

「やりたいことは、決まった?」

 そう問われたから、私は頷いた。

「うん。勝ちたいな」

 こんなに素直に気持ちを口にすることはなかったから、トレーナーは目を丸くして、それから微笑んだ。

「そう。分かった。予選の借りは、本戦で返そうか。早速帰って、作戦を練ろう」

 いつの間にか、ぶすぶすとくすぶっていた私の熱は、烈しさを取り戻していたから。私は満面の笑みを浮かべて、頷いた。

 

 

「もう、世話が焼けるんだから」

 セイウンスカイの背中を見送って、表情を緩めると、キングヘイローは身をひるがえしてレース場を後にしようと足を進めた。が、観客席の最前列にトレーナーがいるのを見つけると、そちらに歩み寄っていく。

 お互いに、目と鼻の先まで近づいたところで、キングは足を止める。

「勝ったわ」

 少し得意げに、腰に手を当てて、微笑みながら首を傾げる。

「……そうだな」

 言葉を詰まらせながら、かろうじてそれだけ絞り出すと、トレーナーはうつむいた。

「ちょ、ちょっと!」

 キングはぎょっとしたように慌てて声をかける。

「優勝したならともかく、予選に勝ったくらいで泣かないでちょうだい! 恥ずかしいから!」

「……すまん」

 トレーナーはそう言ってこみ上げてくるものを懸命にこらえる。

 けれど、キングが誇らしそうに喜ぶ姿を見て、どうしてもっとこういう思いをさせてあげられなかったのか。彼女の才能を考えればもっともっと勝てたはずだ。そんなことを考えてしまって、悔しくて、情けなくて、涙は決壊寸前だった。

「もう。一流のトレーナーなら、安い涙は流すものじゃないわよ」

 そんなお小言を受けて、トレーナーは苦笑を浮かべながらなんとか顔を上げる。と、

「キング、額から血が……」

 顔に着いた泥のせいですぐには気づかなかったが、額から頬を伝って血が流れていた。

 そう言われて、キングは手のひらで額を撫でる。

「あら、本当」

 かざした手についた泥に、赤い色が混じっているのを見て、キングは苦笑を浮かべる。

「勝つって、簡単じゃないのね」

 しみじみと語るキングヘイローに、トレーナーも同意するように頷きを返す。

「まぁでも。今日みたいな無茶をしないで済むよう、決勝はもう少し余裕を見て勝てるようなプランを練ろう」

「そうね。あなたにも期待しているから」

「ああ、任せてくれ」

 トレーナーはそう答えながら、何か思い出したように後ろを振り向く。

「あれ、あの子たちどこ行った?」

「それって、私の後輩の子たちのこと?」

 トレーナーにつられてキングも周辺に視線を巡らせると、おずおずと前に二人が出てきた。

「どうしたの? 二人とも」

 いつもならすぐ近くまで寄っていくのに、少し距離を保ったまま足を止めた後輩たちに向かってキングがそう問いかけると、

「なんか、キングのレースがすごくて……感動しちゃって。だからこそ顔向けできないというか」

「私たち~、何もキングに返せてないから~」

 ばつの悪そうな表情で二人が答える。

「何を言っているのかしら、あなたたちは」

 呆れた、と言わんばかりの表情を浮かべて見せるが、その目はとても優しかった。

 そして、

「あなたたちのおかげで、一体どれほど、私が——」

 彼女たちを抱きかかえようと腕を伸ばしかけたところで、その腕が泥だらけであることに気付き、その動きを止める。

 けれどそんなことお構いなしに、二人はキングヘイローに抱き着いた。

 そのまま嗚咽を上げる二人の背中を優しく撫でながら、キングが言う。

「トレーナー、次も勝つわよ」

「ああ」

 トレーナーは頷きながら、優勝する姿を三人に見せるから、と彼女が宣言した時のことを思い出す。

 簡単なことではない。

 セイウンスカイはコンディションをあげてくるだろうし、次のレースに向けてターフに出てきたウマ娘たちの中でも強力なライバルはたくさん居る。

 今、目が合ってぺこりと頭を下げたのはスペシャルウィーク。

 肩で風を切り、高笑いを上げるあの背中は、テイエムオペラオーだろうか。

 だけどそれでも。

 すっと立ち上がったキングヘイローが振り向いて、勝気な笑みを見せる。

 この優しい王様は、汗も血も泥も黄金に変えて、人を惹き付けずにはいられない姿を見せてくれるのだろう。

 

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