闇の奥 ~昭和二十年の幻想入り~   作:くによし

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大陸なんぞ驀(まっしぐら) ※幻想入り前パートです
第一部 ジェスフィールド76号①


 事の発端は何かと問われれば、昭和二十年八月かもしれないし、昭和十一年の十二月かもしれなかった。歴史的に見れば昭和十四年の初夏か、明治三十八年……考え出せばきりがない。

 少なくとも昭和十三年の寒い夜、彼女は上野駅の雑踏を避けて客待ちの円タクからの視線を憚るように駆け抜け、人影もまばらな入谷方面へ足を向けた。

 看板建築の立ち並ぶ通りは、制限法のおかげで枠木よろしく夜空を地面から一段切り取っている。駅からの明かりが完全に視界から消え失せると、寒々とした群青の空に一際黒く電信柱が等間隔に腕を伸ばす様が不気味に浮かび上がる。

「…………」

 追手の気配は、予想通り早かった。革靴の足音が湿った地面に丸みを帯びた音を立てて弾み、耳に入ってきた。角を曲がって裏道に入ると、四つ辻を駆け抜ける風が背骨をジンと軋ませる。

 彼女は懐から取り出した短銃をドブ板の下へ滑り込ませると、何かを数えるように視線を滑らせ、元来た方向から一直線に進む道へ走り出した。浅草、三輪はもう配備が完了しているだろう。刑事たちにとってみれば、あとは線路から公園沿いにかけて網を張り、夜陰に紛れて脱出しようとする獲物を網にかけるまでだろう。

 数本の道は安心して進めた。あとは、もう一度市電を跨ぐときに出来るだけ人目につかないようにする事であることを彼女は心得ていた。

 慎重かつ大胆な彼女の歩武は、その遥か手前で止められた。泥臭い幌で荷台を覆い隠した自動貨車が、彼女の十メートル前方で急制動をかけて停止したのだ。

 短銃を捨てたのは尚早だったかもしれない……。しかし後悔するよりも早く体が自然を装いゆっくりと方向転換にかかる。

「御嬢さん、御一人はあぶのうございますよ」

 更に行く手を遮るように現れたのは会社員風の男である。地味な背広に無難なタイという背景に徹する出で立ちが、却って男の職業を推しはからせた。

 人通りも疎らな夜半にくさい芝居を打つ必要もあるまい。あえての駆け引きは、相手の余裕の証か。

さすがに彼女の足が止まる。湿気った地面に靴底がザリ、と鳴った。

「あぁ、おっしゃらないで、我々は警察じゃないもので」

「……は」

「かつて行動右翼、極左へ転向、今はアナーキスト……警察ではそういう事になっていましたっけね。全ての罪を無かったことにする代わりに、御国の為に働きませんかな。そのご同行を願いに出張って来ておるのですよ」

注意を引くにはあまりにも突拍子の無い申し出に、靴底のマグネシウムを撃発させる機会を失した。背後で自動貨車が発動機の唸りを一際高くした刹那、頸椎に一撃を食らい、彼女の意識はそこで途絶えた。

   *

 

 とても寒い。

 しかし、眼前に広がる光景は明らかに夏の中心街であった。それが証拠に、道行く人間は皆一様に袖を短くし、白い被服やカンカン帽の反射が目にまぶしい。

「やっぱり、ここしかないか」

 響いたのは自分の声だった。この感覚は、まるで夢。夢の中で自分の過去を追体験しているようだ。

 女学校を卒業する直前まで、彼女の人生は順風満帆であった。実家は、大きくはないがそこそこ安定した薬品卸行で収入を得ており家族関係も世間一般で言う良好なものと言えた。

 しかし、彼女が最高学年に上がった直後、実家がピストル強盗に押し入られ、抵抗した父、駆け付けた母は凶弾に斃れた。警官が早急に駆けつけた為、財産の多くは守られたが、金以外の多くを失う。

 親戚の家へ移り、学校へ通い続ける事を希望した彼女であったが、通学路で不良女子に金を巻き上げられ、人生の大損失を被った人間に対する周囲の反応の変化が起き、着実に精神を蝕んでいった。おぼつかない足元でおろおろ歩く様はまるで野良犬であった。

 ある日、逃げた犯人が別の件で死体となって発見され、それが人生の転機となる。

 犯人はとある右翼団体の構成員と小競り合いになり最終的に刃物で刺され死亡したのだが、恩に感じたわけではないが、彼女はその戸を叩く事となる。

 女学校の優良子女の面影を感じさせないまでに荒んでいた彼女は、日々喧嘩に明け暮れるようになっていた。その団体の長が、かつて明治三十七八年戦役(日露戦争)の終結に際して憂さ晴らしのような国内での焼き討ちではなく、独力で対露破壊工作を企てた人物だったと知り、あくまでも闘争を貫く姿勢に親近感を覚えたのかもしれない。

 左翼の体制転覆に限らずテロルが横行した時代、大陸への武器密輸や、逆に国内で使用する爆薬の調達や極秘輸送などに、着飾った彼女の容姿が役に立ったのだろう。長みずから彼女を呼び立て、指令する事もしばしばであった。

 二度目の転換期は、団体への絶望からである。

 老いた長は、権力と財産を維持する事に執着し始め、組織内の独裁性が強まり、それは思想信条にも及んだ。

 結局、地元代議士と結びついて甘い汁を吸う老人の手駒に過ぎなくなった団体を見限り、汚職相手の政敵暗殺を命じられた時に逆に事務所を銃撃し、火を放って逃亡した。

野良犬は野犬となり、狂犬となった。

 保守勢力への絶望はそのまま反動となり、これまでとは裏腹に、しかし表裏一体と言える極左勢力から勧誘を受け、その時の彼女は受けた。こちらはこちらで国家や為政者のような大樹の庇護もなく、より生存の為の闘争に明け暮れる事になるだろうとも予測したからだ。

 しかし、そこでも彼女は人生に裏切られた。政治や法律を学ぶ者が聞けば卒倒しそうなものだが、極左テロルをスパイ小説の敵役か何か程度にしか思っていなかった(右翼への知識も同様であったが)彼女は、またしても組織の数少ない武器庫を襲い、長い放浪の末に東京市内へ流れ着いた。

 いつからか、権力に組みせず、小規模なやくざの用心棒としてあぶく銭を稼ぎ短銃を調達してみたり女を買ってみたりと、爛れた愛欲と暴力の日々がいつしか定着した。

 それも、あの上野駅の夜までだった。数日前、たまたま酔った男と口論になり殴り飛ばしたのだが、そいつが刑事だったらしく、身内の被害にいっとう厳しい警察権力に追われる羽目になったのだ。

 

   *

 

「……か…」

 耳元を微かな声が吹き抜けた。急に現実へ引き戻される。が、視界は判然とせず一枚いちまいレンズを重ねていくように緩慢な速度で陰影が輪郭を浮かび上がらせ、わずかな明かりの電燈が照らす板張りの床らしきものが見えてきた。

 やはり拘束されている。もしかしてさっきまでの光景は走馬灯というやつだろうか。それなら直後の運命はなんとなく予測がつく。知らなかった。絞首刑とは木椅子に座らされるのか。

「名前は藤花、だな」

「……念仏なら要らへんよ」

 ここを絞首台と思っているのか、と眼前から嘲笑するような声が投げてよこされた。

「うちは警察じゃないんでね。御望みとあらば手続きなしですぐにでもやってもいいが……そうするなら連れてきたりはしない」

 受け答えができるようになってくると、視界もかなり明確になってきた。小さな机を挟んでチャコールグレーの背広に身を包んだ男の上半身が見えた。首から上は、電燈の光が弱く輪郭くらいしか分からない。その輪郭の中心には橙色の小さな点が灯っており、ツンと鼻を突く舶来の煙草の匂いがした。光が少し強くなるのに合わせて、光の奥に細くしっかりとした鼻立ちの顔が浮かび上がる。

「選択肢は二つだ。一つ、我々の下で働く。その時はすべての罪状を抹消することを約束するが、経歴戸籍に至るまで全て我々のものにする」

「雇うんなら……黙って金だけ寄越せばいいものを」

 ごり、と後頭部で音がした。小さいが、硬い。銃口だろう。

「二つ……」

 男は、藤花が沈黙し、状況を理解するのを待った。

「…………」

「黙ってここから出ていく、だ。そうだな、さっきの入谷で解放してやろう。その後どうなるかは我々の知る処ではない」

「罪状を抹消?それで警察が諦める?あんたら……何?」

「それを知るのは君が決断してからだ。一つ、七十六号とだけ教えておこう」

「なな……?」

   *

 

「時間があまりない。答えを聞こう」

 男は傍らから灰皿を取り出すと机に置き、長くなった煙草の灰を落とした。

 気まずい沈黙が部屋を支配すると、どこからか聞こえてくる風の音と、微かに聞こえる紙巻き煙草の焼ける音が耳から入り、神経を刺激した。時計でもあれば部屋の支配権は時間にあっただろうが、男の視線と、背後から狙われている藤花にとって、時間感覚が次第に早まっていく。理由は銃だけでなく男にもあった。

背広に身を包んでいるが、内包された骨格は剛健たるもので、それを包んでいる筋肉の隆起が僅かに縫い目を歪ませるほどのものであることがその証左だった。紳士的な佇まいを繕ってはいるが、条件が整えば一躍全身の細胞が沸騰して拳でも手刀でも、相手の急所をへし折り、粉砕する一撃を放つだろう。大男を擁する侠客を相手取ったこともあるし、倒したことはないにせよ御し方は心得ているつもりだ。しかし、体躯作りに加えて暴力の"適正な"使い方を理解する知性も兼ね備えているとなると一筋縄ではいかない。化学的に、効率的に追及された構成員。軍隊だろうか。だが古参の軍人とてここまではいくまい。そんな人間の眼前に手足を縛られ(言い忘れていたが彼女は後ろ手に縛られ、足にも縄が掛けられていた)どうにも動けないというのは、想像以上に恐怖だった。未だ銃で撃たれる経験の無い彼女だが、拳で殴られる経験なら嫌というほど覚えがある。人間、実際の威力より身近な痛みの方が脅しになる事もあるものだ。

「……わかった」

 一呼吸おいて、もう一度。今度は首肯も伴った。

「やらしてもらいます。分かったからその物騒なもんしまってくれへんかなぁ……」

 とても従順とは取れない反応だったが、男は一つ頷く。最後に指先の煙草を勢いよく吸うと、煙を吐き出しつつ短くなったそれを灰皿に押し込んだ。煙草の無くなった指で空間を横に切ると、藤花の後頭部から違和感が消える。

「あー……ヤな時間やった。ブローニングは背中に感じやすいから嫌いなんよ」

彼女なりの強がりだったのかもしれないが、目の前の男には受けたらしい。喉の奥で小鳥の啼くような含み笑いをこぼす。

「そうだ、そういうところを買われたんだ貴様は」

「褒めても何もで…」

 言いかけたところでまた後頭部に衝撃が走った。今度は背後の男に拳銃で殴られたと理解できたが、その情報は何の役にも立たなかった。

 


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