闇の奥 ~昭和二十年の幻想入り~   作:くによし

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第一部 ジェスフィールド76号②

 次に藤花が目を覚ましたのは、どこかのアパートメントの一室だった。といってもアパートメントだとどこかに書いてあるわけでもない。畳ばりの床、裸電球、卓袱台、空の棚、こじんまりとした化粧台、最低限の調度から推し図る他にない。

 

「痛ッたぁ………」

 

身を起こそうとすると首筋に疼痛が走った。一晩に二回も同じところを殴られればそうもなるだろう。これまでにない強硬な方法で協力を強制され、一夜明けてみれば体格差に怯えていたのも忘れ一介の不良少女の怒りの炎が燃え上がり始めた。そうだ、よく分からないうちに連れ去られたのだから、こちらもいつの間にかいなくなってしまえばいい。東京市を離れるのは惜しいが今までに見たことのない相手だ。ほとぼりが冷めるまで東北かどこか、静かな町に身を潜めていよう……。

 

 そうと決まれば即座に行動を起こすしかない。部屋の中を漁ってみたが、めぼしいものは何もない。押入れに何着かの訪問着や背広のような服が押し込められていた。今一度、自分の身なりを確認する。相手の用意した服で逃げるなど相手に追ってこいというようなものだ。

 

「でも、ええなそれ」

 

思わず声が出る。逃げ延びてやる。闇夜を潜り抜け。

 

横文字で歌でも口ずさみそうになる衝動を抑え、いかにこの比類なき死線を最大限の遊び心でもって切り抜けようか策を巡らせ始めた。流石に訪問着で走る事もできまい。モスグリーンの背広のような服を引っ張り出してみる。いつの間に測ったのか誂えたようにぴったりだ。もしかしたら変態結社なのかもしれない。

 

シャツやタイまで用意されているあたり、連中は身なりにはそこそこ気を遣う組織のようだ。戸外からの音に注意しながら玄関をのぞくと、昨晩まで履いていた靴に加え、何足か置いてある。一体何をさせようとしていたのだろうか。

 

手持ちの小道具を全て持った事を確認し、鏡の前で一呼吸置いて玄関へ向かう。チラとしか見なかったが、街中にも溶け込むし、昨夜までのいかにも人目をはばかっていそうな格好より知的な雰囲気を漂わせ、かつての女学生時代を思い出した。

 

「さて」

 

 足音を忍ばせ戸口に立ち、ノックしてみる。

 

 反応は無い。

 

 ゆっくりとノブを捻る。抵抗なく回った。鍵すらかけないとは、ますます相手の考えが読めなくなった。

 

 戸を押し、一歩引いてみる。ゆっくりと戸板が開いていく。が、誰か駆けてきたり、隠れていた凶器が飛び出したりといったことも起こらなかった。

 

 顔だけを出し、外を確認すると思った以上に普通のアパートメントだった。

 

音と風の向きを確認すると、意を決して廊下へ飛び出した。

 

 ちく。

 

「いだッ!?」

 

 並ぶ戸の一つが音も無く開き、飛び出してきた男を避けたまではよかったが、首筋に何かされた。

 

「早速の脱走とは肝が据わってるなぁ、お前」

 

「な……ウチに何した!?」

 

「釈明なら今のうちに聞いておくぞ。返答次第だ」

 

「さ、散歩に行こうと思っただけや」

 

「全力疾走でか?」

 

 男の右手に握られたものを視認して、藤花の血の気がサッと引いた。

 

 注射器だ。

 

「な、なぁ。それ何?」

 

「脱走するやつは、せめて新薬の被験者になってもらおうってな」

 

 嫌な予感しかしない。

 

「な、何の薬……?」

 

「うん、その事だがな」

 

「早ぅ言え!」

 

「あんまり興奮するな、薬が早く回るぞ」

 

 汗が噴き出る。

 

「端的にいうと、筋肉が弛緩し、立つこともままならなくなる。最終的に自分の舌で窒息死する。体格差にもよるが、効くまでに十五分から三十分かかる」

 

「いやいやいや」

 

 冗談だろう、と言おうとしたが、怖い。

 

「そう思うなら出口はあっちだ。我々は効き目を明日の朝刊で確認する」

 

「う、うそ……」

 

「早く決めな」

 

 藤花はもはや呆然と立ち尽くすばかりだ。なんとなく踏み出そうとして足が動かしづらいのは、緊張のせいだろうか、それとも薬。だとすると情けない死体を裏路地で晒すような羽目にはなりたくない。

 

「な、なんでもするから……助けて…」

 

「じゃ、採用試験だ」

 

「……え」

 

 こんなところで何を言い出すのだろうか。心なしか体の末端が痺れはじめたような気すらしているのに、こいつ他人の命を弄ぶつもりか。

 

 しかし、相手の目は至って真面目なようだった。それもそうだ。そもそも自分の事を知っている時点で表の人間ではない。

 

「表の車に乗れ、走りながらそこで試験内容を話す。車が止まったら試験開始だ」

 

 階下から乱暴な革靴の足音ふたつ、たちまち両脇に回り込まれ、無理やり立たされた。

 

 もはや選択の余地は無かった。

 

 

 

   *

 

 

 

「貫地町二丁目交差点で車は停まる。こちらの指示した家に行き、試験開始から三分以内に家の人間と並んでバルコニーに立て。水の入ったコップを持ってだ。我々の構成員ではないから、押し入ったり脅したりすれば試験は続行不可能になるぞ。そうなれば貴様が死んで試験は終了、我々は撤収する」」

 

「死にたくねェ……」

 

 通りを疾走する古ぼけた乗用車の後部座席で、屈強な男二人に脇を固められながら藤花は打ちひしがれていた。訳のわからない連中に連れ去られ、訳の分からない薬を注射され、訳の分からない条件を突きつけられている。もしかして自分はもう死んでいて、地獄にいるのではないだろうか。いやそうだ、そうに違いない。

 

 足が動かしづらいが、無理な姿勢のせいか薬のせいなのか判断がつきかねる。

 

現実逃避と諦観が支配し始めた彼女の脳髄に、新たな刺激が走った。

 

「文字通り死力を尽くせ………着いたぞ。あの赤瓦屋根の家だ。頑張れよ」

 

「…………要はあそこの旦那でも嫁さんでもいいからコップ持って外に出れば仲間入りってことでええの?」

 

「そうだ」

 

「あぁぁ……」

 

 藁をもつかむ思いか、やけくそか、ふらふらと、しかし歩みを速めて目的の家の扉の前に立った。そこそこ大きく、立派な家だ。

 

「ごめんくださいまし」

 

 待つ。てかこれ留守だったら詰むじゃないか。焦燥感に思考を邪魔されながら苛立ちを募らせていると、磨りガラスの向こうに人影が見えた。助かった。

 

「はい。……どちらさまでしょうか?」

 

 引き戸がしめやかに視界を滑り、モダンな柄にふっくらとした躰を包み込んだ婦人が顔をのぞかせた。藤花は全力で人のよさそうな笑顔を作り、口を開いた。こういう時は、素早く行動するに限る。

 

「市の交通安全委員会の者ですが…今年に入ってこちらの通りで自転車の事故が増えておりまして……ご存知でしょうか?明後日警察署の方で都市計画の先生も呼んで講演をやるのですけども、お恥ずかしながら肝心の資料を先生が忘れてしまいましたの」

 

「まぁまぁ。主人は留守にしておりますが、大学へ電話しましょうか?」

 

まさかの何か教授の家だったらしい。偶然ではあったが、藤花の演技が見事にはまった形だ。

 

「いえいえ!急遽ですが交通量を調べて新たな資料を作る事にしておりまして、大変恐縮ですが、二階からの道路の見え方を確認させて頂けませんか?」

 

「えぇ……それだけでしたら」

 

 急な訪問であるにも関わらず、夫と顔見知りらしいというだけで藤花を通してくれた。不用心だが、この時ばかりはこのような無垢な女性がこの世にまだ存在していたことを感謝しなければならなかった。

 

 つややかに磨き上げられた床を歩きながら、夫人に気さくに話しかける。

 

「明日にも監視員が来ると思いますから、正式な挨拶は、その時にさせて下さい……旦那さんには、警察署から協力の御願いを……」

 

「ほんとに、外でいいんですか?なんでしたら、窓の向きが良い部屋を…」

 

「いえいえ!こちらで構いませんの。……しかし、今日は暑いですね。お恥ずかしいのですが、お水を一杯頂けますか?」

 

   *

 

 

 

 解毒剤を注射され、アパートメントに寝かされた。どれだけ眠っていたのかは分からないが、目を覚ました藤花を訪れたのは、ずっと顔を出していた男ではなかった。丸眼鏡をかけ、暗黒街の存在とは無縁そうな、どちらかといえばカフェーで誰かとブラジリアンでも飲んでいそうな女性だ。何かの信条があるのか、服装の統一感の中で大きな三つ編みひとつの髪型が気になる。

 

「無事合格、おめでとう」

 

「あぁ……ありがとさん…別嬪さんに見舞いに来てもらえると元気出るわぁ……」

 

「それは何より。来週には移動するから、それまでには元気になるように言われるようね」

 

「ここは、何なん?」

 

 藤花の質問は二重の意味があった。この組織と、そしてこの家。

 

「名前はもう誰かから聞いてるんじゃない?」

 

「七十六号……?」

 

「そう、それ」

 

「聞いたけど、さっぱり分らへん……」

 

 あの夜の男の口ぶりから、名前である事は想像がついていた。が、暴力団にしては名前が無味乾燥すぎる。ああいう組織は、凝りすぎず長すぎずのある程度の威厳を持たせたような名前ではなかろうか。こういう記号化された一種不気味な呼称は、やはり軍隊的である。

 

 藤花の胸中を察したのか、眼鏡の女はひとつ頷いた。腰の物入れからチェリーを取り出して、一本吸う?と差し出してくれた。礼を言って受け取る。

 

「もしかして、長い話?」

 

「いずれ知らなくちゃならない事だけどね。大陸に送られるから」

 

「た、大陸?」

 

 突拍子もない話に驚きつつも、煙草はしっかり火を点けてもらう。そして女は、お茶を入れましょう、と立ち上がり台所へ向かった。

 

「まずは上海、次は安徽か、北京かは分からないけど。そのあたりに送り込まれるみたいね」

 

「上海!?じ、順を追ってお願いします……」

 

「まず言うと、七十六号……今はまだ準備部隊程度だけど、その主導は陸軍。政府に対支那和平工作を握り潰された上に、都市部で蒋政権のテロルが絶えないものだから、向うの特務と手を組んでそれを壊滅させる機関を発足させるのよ。南京は陥落したし、蒋政権が盛り返しを図ってきたときにに横やりを入れる必要もあるの」

 

「あー………んん…?」

 

「だから長くなるって言ったじゃない……まあ、その組織で秘密戦も特殊戦もできる情報員(スパイ)になれっていう依頼ね」

 

 依頼なんて言う生易しい接触ではなかったが、要は大陸で中国相手に秘密戦をやれという話らしい。藤花にとって政権や軍の意向は知ったところではない。

 

「名前は、上海の予定地が極司(ジェス)非爾(フィー)路(ルド)の七十六号地だから今はそう呼んでいるの」

 

とにかく組織の首領になれというような規模ではないので、安心した。とりあえず煙草を一息。

 

「訓練は兵隊と情報員の必須科目を半分こしたような課程で行うみたいね。だいたい語学と徒手格闘、銃剣道、射撃、爆破と暗号、応急医学、地理学、民族学、薬学、操縦……」

 

「げっほ!」

 

 落ち着くつもりが余計に堪えた。半分こと言いながら武器の扱いや座学の多さが眼前に津波めいて押し寄せてくる。操縦って何を操縦するんだ。

 

「文字通りその辺の女つかまえて無茶言いよるね……げほっ」

 

「暗号や国際政治は苦手そうね。でも酒や煙草の嗜好品や乗り物は実際に扱えるから役得よ。そこいらのモガよりもね」

 

 確かに魅力的な響きではある。乗り物の知識は引退後も食うには困らないという点で、過去の清算とあわせてカタギ向きだ。ただ、こういう組織がすんなりと引退を認めてくれるかは疑問が残る。現にさっきは毒殺されかけたのだ。

 

「でも、なんでウチなんやろ」

 

「話してる限り、貴女はあんまり思想犯めいていないし、暴れられる場所が欲しいのではなくて?」

 

「そうだったのかもしれへん……実家に立て続けに不幸があってから……」

 

 自分の事だというのに、藤花は、まるで他人事か遠い異国の出来事のように総括している自分に気づいた。数々の暴力は、非常な現実に対して自分のものではないという声なき主張だったのかもしれない。事実、路地裏での殴り合いや、時折無理に女を買っては股座にアブサンを垂らして顔をうずめる爛れた日常は、女学生の頃の彼女からは想像もつかない。

 

「じゃあ、意識も戻ったし説明も済んだから失礼するわね。部屋の物は貸与らしいけど、服はずっと使う事になるだろうから好きにしていいのよ。ただしお手入れは万全にね」

 

「おおきに……おねえさんウチに優しいけど、教官か何か?」

 

 年齢はそんなに変わらないように見えるが、理知的な雰囲気は自分と釣り合わない。

 

「同期、てところかしら。園町井子と呼んでくださいな」

 

「よろしゅう。ウチは…」

 

「藤花さん、でいいかしら?名前はもう聞いてます」

 

「あ、はい」

 

 井子はにっこりと笑い、明日また来ると言って出て行った。そういえば、この建物の扱いについて聞いておくのを忘れたと気づく。おそらく逃げる事は不可能だろう。事実、外出させないとばかりに卓袱台には乾パンと水、軍用煙草が無造作に積まれていた。

 

情報員のタマゴ初日にしては豪勢さが無い、と落胆しながらも、体は養分の補給を求めて不満の声を上げ始めていた。

 

 

 

   *

 

 

 

「藤花はどうだ、使えそうか」

 

「思想性はありませんね。その点は警察の杞憂だったようです」

 

「まあそうだろうな」

 

 藤花の元を去った井子は、別室の男を訪ねていた。こちらの部屋は先程とは打って変わり、学校か会社の事務室程度に整備されていた。しかし、組織の性格からか仮住まいといった雰囲気は拭えない。窓際で煙草をふかす男の傍らには木の机だけがポツンとおかれており、やや離れたところに質素な椅子が居心地悪そうに引き出されていた。

 

「根性はあいつが一番据わってそうだ。九鬼、お前の手であいつに知性を再度叩き込んでやるんだ。つなぎ止めておく方法は、一任する」

 

 藤花の前で井子と名乗り、組織からは九鬼と呼ばれた女性は、小さく頷いた。

 

   *

 

 

 

 翌朝、まだ通りが青っぽい宵の闇に包まれているころ、部屋の戸がしめやかにノックされた。

 

「あい……」

 

 組織に属さないということは、律する者がおらずすべてを自分の手加減で行えるということである。そこを気に入っていかなる組織にも入らずに一匹狼を貫くつもりでいた藤花にとって、この一連の出来事は不幸以外の何物でもなかった。命が惜しいとはいえ、この規律に呑まれた生活がいつまで続くか。

 

「十五分後に出発よ」

 

 昨日、井子と名乗った女が顔だけ戸口からのぞかせて言葉短に告げた。

 

「……出発って、どこに」

 

「それはあとで分かるわ。服だけまとめて出てらっしゃい」

 

 そういって戸口に布の背嚢を置いて行った。

 

「遠足みたい……ていうほど楽しそうでもないわな」

 

 藤花はつぶやき、布団を這い出て背嚢を拾い上げた。

 

 実を言うと、藤花は今しがた部屋を去った女の名前を聞いていた。昨晩、部屋に残された藤花は早速天井板を持ち上げ、卓袱台と箪笥をよじ登り、屋根裏を音もなく這って会話を盗み聞きしている。生きるためには、待つばかりではいられなかった。

 

 七十六号、絶えない抗日テロルに対し、来年にも中国人協力者を中心に据えて上海で正式に発足する予定。

 

ここは陸軍が借り上げ、日本人情報員の寝泊り用に構えている分室のようだった。藤花を捕らえ、尋問し、簡単な(?)採用試験を実施したあの男が日本人なのか中国人なのかは分からなかったが、あの女は既に大陸に渡ったこともある手練れの人員らしく、九鬼 椿というのが本名のようだ。なんとも花のある組織である。

 

 背嚢に詰める服の隙間に、手帳を滑り込ませる。

 

「陸軍……上海……」

 

 組織に属する事をあれほど嫌っていた自分が、統制という単語が最も似合う組織の下で動く事になる。


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