闇の奥 ~昭和二十年の幻想入り~   作:くによし

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第一部 ジェスフィールド76号③

 七十六号が日本人である藤花に狙いを定めた理由は定かではないが、とにかくも外国人、租界重要人物、抗日組織に対する諜報や破壊工作をやらせるつもりなのは明らかだった。

 

 荷物をまとめて表へ出ると、見覚えのある自動貨車が発動機を回したまま待機していた。椿の助けを借りて荷台によじ登ると、運転台のすぐ後ろに待機していた男が前に対して「乗車終り」と声をかけた。ガクンと揺れて貨車は人影もまばらな表通りへと滑り出した。時折信号で停車すると、排気音と振動に混じって幌越しに声も少なに歩く会社員の群れが立てるゾロゾロという音が聞こえてきた。

 

「サテ今後だが」

 

 ここへきて男がようやく口を開いた。話によると、藤花はいちおう一次試験を合格したという扱いらしい。これからとある島へ移動し、訓練と最終的な試験を行い、それが終わったのちに大陸へと向かう事になるようだ。

 

「島って、どこ?伊豆でも行くん?」

 

「聞いても分からないと思うわよ。地図に無い島だもの」

 

 確かに地図になければ聞いても分からない。極秘の訓練場というわけだ。組織の力というのはこういうときに便利なのだろう。

 

「じゃあ、芝浦あたりにでも向かってんのか……」

 

 独り言を漏らす藤花に、椿がクックと笑った。何がおかしいのか、藤花はムッとしたが、幌の隙間からだだっ広い芝生が見えてきた辺りで愕然とした。

 

「ここ……飛行場やん」

 

 港にしては静かすぎると思っていたら、眼前に広がるのは旧羽田町の地に広がる東京飛行場の全貌であった。人の目の高さでは大半が生い茂る芝生くらいしか見えないが、空がもっと明るくなり、高くから俯瞰すれば「トウキヤウ」の白文字と数年前にできたばかりのモダンな建屋が見止められたはずだ。

 

 正規の出入りではないのか、柵の一角で整備員と陸軍の兵隊が待ち構えている。手の込んだ芝居ではなく本当にカーキ色の服の下で働く事になったのだと、今更ながら実感する。

 

 時間が惜しいのか早朝で他に飛ぶ飛行機もいないからか、貨車は整備場脇まで疾走し、そこで止まった。しかし轟音は響き続けている。

 

「総員、降車!」

 

 誰かの叫びに飛び上がって慌ただしく荷台を降りると、夜露に濡れた草の香りと、音の正体が出迎えた。白っぽい塗装を施された高翼の単発機が発動機に火を入れたまま待機していたのだ。

 

「おお!」

 

 思わず子供のような声が出る。女一人旅など一般的でない世に独り流れ者であった藤花だが、空の旅など夢のまた夢であった。

 

 彼女は知る由も無かったが、九〇式輸送機の搭乗員は、一時間前に聞かされた飛行予定の大幅な変更をなんとか頭に詰め込めるべく、操縦室で四苦八苦していた。霞ヶ浦の片隅で埃をかぶっていた旧型輸送機を引っ張り出し、要人でも乗せるのかと思い待機させられていたが、行き先は聞いた事のない島であった。軍の管理する訓練に供するための島と言われたが、学校時代もそんな島は聞いた事もない。

 

 とにかく、渡された地図には確かに島があったし、燃料はなんとか間に合う距離だ。しかし、一度離陸して西日本へ向かったあと変針してから向かうというのも妙だ。そこまでして極秘に運ばなければならない客とは……緊張した面持ちで計算尺をいじっていると、現れた貨車から降り立ったのは男に女二人ではないか。

 

「はて…」

 

 南洋庁あたりの偉いサンと愛人だったりしてな、と邪推してみる。

 

 それっきり、彼は言われた通り深く考えず飛行にのみ集中するよう思考を切り替えた。

 

 

 

   *

 

 

 

 一方、”客”の方はといえば荷物を抱えて飛行機まで走り、近代科学の成果をまじまじと眺める時間も無いまま薄暗い機内へ追い立てられた。 簡素な座席に座ると、発動機の振動が直に尻に伝わってくる。

 

「これで全部ですか!?」

 

 藤花らの後から包みを次々運び込んでいた地上作業員が、怒鳴る。任務の上で大事な遣り取りだが、藤花はそれどころではない。機内の調度を眺め、操縦席を眺め、窓から外を眺めてみる。自分らを乗せてきた貨車が物凄い勢いで後進をかけて整備場から去っていくのを見送っていると、騒音が一段小さくなった。後部の扉が閉じられたのだ。原型が練習機の為、操縦席と客貨物室を隔てるものが無い。搭乗員たちが何事か言葉を交わし、スロットルレバーをゆっくりと操作すると発動機の唸りが一際高くなり、機がゴロゴロと滑走を始めた。

 

「おおおお……」

 

 離着陸装置と発動機架、それぞれから伝わる振動が座席を揺らす。ついでに上に座っている藤花も揺れた。それはもういろんなところが。

 

「……これ、肩こりそう」

 

 人生初、彼女の飛行に関する第一印象はそれであった。

 

 滑走路にたどり着いた機が方向を定め、更に加速して重力の束縛から放たれ薄暮の空に消えて行ったあと、飛行場には静寂が戻った。

 

 太陽が昇り、民間航空の格納庫が開かれる頃には、輸送機も、貨車がいた痕跡も全く残っていまい。

 

 

 

   *

 

 

 

「行く先だが」

 

 陽光が切り取られた窓から横殴りに差し込む機内で、男がようやく藤花の知りたい情報について口にした。

 

「名を沖ノ浪島という」

 

「やっぱり、聞いた事ない名前やね……」

 

「まあな、そういう事だ」

 

 男は頷く。搭乗員が分けてくれた海軍の熱量食を水で飲み込みながら、続けた。

 

「おおよその訓練はそこで行う」

 

「島の事は分かってんけど…」

 

「何だ」

 

「おじさんの事はなんて呼べばええのかな。そろそろ不便になってきて」

 

「私の事は李でいい」

 

 こちらから深く関わりたいと思う人物ではなかったが、李という苗字なら日本人にも無くはないし、相変わらず怪しげである。

 

「あと二~三時間はかかるから、寝るなら寝ておけ。明日からと言わず今日から大変だぞ」

 

「あぁ……はい。それじゃあ、九鬼はんも訓練受けるのん?」

 

「そ、う……え?」

 

「あっ」

 

 椿が真顔になり、藤花は少し青くなった。隠し立てしたところで余計に事態が悪化しそうな気もして、素直に本名を盗み聞きしたことを白状する。

 

それを聞いた李は、むしろ笑みさえ浮かべた。

 

「自主学習大いに結構。今後もそのつもりで行け」

 

    *

 

 

 

 尻の下がむず痒い感覚が神経を伝い、脳を揺り起した。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。窓の外を見ると一面和紙を敷き詰めたような、どこか現実味のない濃紺の平面が眼下に広がっていた。既に昇り始めている太陽の光を反射した部分だけが細かい浪模様を浮かび上がらせており、おかげでそれが海なのだとわかる。成程、鳥の視点というのはこういうものなのか。

 

 時折霧のような薄い雲が窓の外を幽霊のように撫でては後方へ消え去っていった。紺と白の濃淡の奥で、白い帯を巻いた三角形の島が所在なさげに浮かんでいる。周りに白い波が立っているのが見える高さまで飛行機が下がると、徐々に島が視界から消える。風向きの都合か何かで回り込んでいるのだろう。

 

「着陸します」

 

 これまでほとんど聞かなかった搭乗員の声が大きく客室内に響いた。座席で大人しくしているしかない藤花はどうする事も出来ず縮こまっていたが、落下感が収まり、着陸装置が地面を捉えたことを意味するゴロゴロという振動が再びよみがえってくると、思わず感嘆してしまった。

 

一本の滑走路しかない簡素な飛行場である。飛行機が躍動を終えると、搭乗員は縛帯を外していそいそと降機の準備を始めた。李や椿も手荷物を引っ掴むと、早く降りろと藤花を急かす。もしかしたら一生味わう事のなかった人生初の空の旅を慌ただしく終えた藤花は、人の手で均された滑走路へ足を付けた。牽引車もいないと見えて、飛行機を押す役らしい兵隊たちがゾロゾロと駆けつけてきては、藤花と椿をチラチラと見てくる。

 

 李が背後から促す。

 

「滑走路に長居するな。すぐに移動」

 

 言われるまま藤花は背嚢を背負い、歩きやすいように一揺すりする。

 

「……なあ、九鬼はん」

 

「なあに?」

 

「ここが訓練所やんな」

 

「そうよ」

 

 残りの行李などは御付の兵隊のようなものが現れて、次々に担ぎ上げられていた。絶海の孤島で文字通り右も左も分からないので、取りあえず李の後ろをついていくしかない。

 

「他に訓練受ける奴はもう着いてるんかな?えらい寂しいけど」

 

「今は貴女だけだけど」

 

 何を言っているのかという顔で、椿が答えた。藤花は愕然とする。

 

口を開けて、周囲を見渡す。

 

「こ、こんなに兵隊おるのに?」

 

「皆さん基地の運営で忙しいもの。もちろん銃火器の取扱を教えたり、語学や現地情報を教える人もいたりするけど。さすがに落下傘と戦車は内地へ戻ってからやるのよ」

 

「ウチ一人に皆して付きっきりて……なんかやりにくいなァ…ってか戦車!?」

 

「情報員適格者が事務職みたいな感覚でほいほい集まれば苦労はしないのよ」

 

 確かに、それはその通りだった。

 

 

 

   *

 

 

 

 辛うじて壁と屋根がある程度の格納庫や備蓄庫、ほか何に使われているのか分からないバラックの群れを抜けると、周囲に比べて一回り大きい校舎めいた建物が見えてきた。藤花などは裏社会に出入りしながら麻布歩三のモダン兵舎などを見慣れてしまっているせいで、内地を離れるとこうなってしまうのかと落胆する。しかし部隊名も何も出ていないおかげで、パッと見では兵舎と分からない。滑走路が小さいのは島の規模のせいかもしれないが、もしかしたら漁村か何かに偽装しているのかもしれない。

 

 これまた校庭めいた砂地の片隅を通り抜け、建物に入ると島の風景に比べて文明が通っているのを目の当たりにできた。電燈はあるし、通り過ぎる扉の中を覗けば書き仕事に従事する軍人の姿もある。

 

「奥に二人の部屋がある。いつまで居るかは仕上がり次第だが、仲良くな」

 

「ぁい……」

 

 これまで旅行気分だったのが、急に不安になってきた。板張りの廊下を歩き終え、曲がりくねった先に入った部屋で、それは的中する。

 

「九鬼はん」

 

「なぁに」

 

「この箱何?」

 

 藤花が指さした先には、寝台、机、椅子、被服棚の一式。そして床に置かれた木箱の山であった。

 

「貴女の装備でしょ、被服でしょ、座学の教材でしょ…武器は……さすがに部屋には無いわね。あぁ小銃ならこっちよ」

 

 藤花が振り返ると、扉の脇に木枠が組まれ、横にわたされた木にはいくつか窪みが作られている。その窪みのうち二つに三八式歩兵銃が立てかけられていた。思わず歩み寄ってまじまじと眺める。

 

「こういうのって仰々しく受け取るものやと思ってたけど」

 

「確かに軍人は銃の扱いは聖遺物のように教えられるけど、しぐさで軍の関係者だと言って回るような人間は情報員には不要なの。皇室の話が出て直立不動になったり、思わず敬礼してしまったりしたら即刻命に係わるしね」

 

 あと寝言を日本語で言うと罰直あるわよ、と言われて藤花は絶句した。中国で中国人に成りすましているのに寝言やクシャミ、煙草の吸い方が日本人式なんて事があればその場で即銃殺も有り得るらしい。

 

もしかしたら、いやもしかしなくともとんでもない所へ来てしまったようだ。

 

 休む間もなく食事や入浴、教育場所についての説明を受けると、被服や火器の他、語学や現地文化について教育する人間を紹介された。初日はこれで済んだが、明日からは地獄のような訓練が続くだろう。服の着方を教わりながら、早くも藤花は頬がこけてきたのではないかという想像にかられた。

 

その後の椿との風呂は彼女にとって刺激的な体験となったのであるが、ここでは割愛する。

 

 

 

  *

 

 

 

 翌朝、慌ただしい起床と点呼、朝食を終えて作業衣に着替え営庭で体操。語学、大陸の文化について学び、昼食と休憩の後に格闘技や射撃、その他兵器の取扱について講義を受けた。夜の自習は恰好の臨時睡眠時間となるべきところであったが、何しろ椿がつきっきりで教えてくれるので油断はならなかった。

 

 弱ったのは床術の講義まであった事だ。言うまでも無くレズだと教官に主張したのだが、そんな踏絵めいた試練で露呈するような情報員は務まらないと諭された。

 

「大丈夫よ、藤花ならやればできるわ」

 

「子供が?」

 

 こんな時でもとぼけることが出来る性根を買われたのだなと己の図太さを恨みながら、相手役の男の太いのか細いのかよく分からないものと取り組まされた。横で慰安所の女がつきっきりで教えてきたのだが、後で周囲に人がいなくなるのを見計らって彼女の唇を奪ったのは言うまでもない。

 

逆に藤花が希望を見出したのは射撃教練であった。明るい空の下で轟音と共に各種銃器をぶっ放せるのは爽快そのものであったし、何より以前から経験がある。機関銃の類は始終持ち歩くものでもないので簡単な操作と実射のみだったが、拳銃は毎度のようにやらされた。

 

「九鬼はん、今日もあれやる?」

 

「懲りないわね、私は良いけど」

 

 成績に関しては藤花も椿と同等だったので、昼食の卵一個であるとか、煙草ひと箱などを賭けて成績を競っていたのだ。しかし、このところ椿が三連勝している。藤花としてはこれ以上彼女の快進撃を放っておくわけにもいかず、今日こそはと勝負を申し入れた。

 

 屋外の小銃射撃場とは別に、拳銃射撃場は地下に設けられていた。基地の規模や目的にしては立派な建物と多彩な設備が整っていたので、もしかしたら先日感じた学校のような印象は本当だったのかもしれない。

 

 賭けの対象を椿とあれこれ話しつつ、藤花は薄暗い階段を降りながら支給された拳銃の遊底を指でなぞった。

 

 階下からは今でも断続的に銃声が反響してくる。彼女らに限らず、基地の軍人たちも訓練に利用しているのだ。

 

「九鬼はん、ウチこうまでして情報員の仕事叩き込まれてるけど、大陸はもう首都陥落なんやろ?向こうに渡ってからやる事って……あるん?」

 

「山ほどある…かな。首都が陥ちれば終わりっていうのはこちらの観測的希望でしかないし、上海では日々諜報合戦よ」

 

 階段を降り切る頃には銃声が一旦止み、射撃位置にいた下士官が号令に合わせて姿勢を解き、弾倉と弾を抜いて拳銃を納め回れ右して退いていった。

 

 頭と胸に同心円状に白線が広がる標的紙が持って寄越されると脇の黒板へ採点結果が書き込まれてゆく。肝心の藤花の順位は、良い日は上位半数の中に名前があったが、悪い日はビリケツでしかも殆ど致命傷になっていない点数しか獲得していなかった。

 

 ちょうど今の一連射で区切りがついていたらしく、軍人の一人が振り返って「やるか」と訊いてきた。

 

 ほんなら、と藤花が手を挙げ、名札の下に置かれた彼女の弾倉を手に取り、射撃位置につくと、弾込めの号令でカチンと銃へ挿入した。そのまま左手を遊底へ添え、勢いよく引き切る。複数の細かな金属部品が一様にかみ合う小気味よい音と共に初弾が装填された。

 

「最近分かったんよ。手の先で撃つからあかんねん。拳銃は腹で撃つんよ腹で」

 

「訓練生、余計な事しゃべらずにねらえ」

 

「ふぁい!」

 

 上向きで拳銃を保持していた右腕が、ゆっくりを前に倒れてゆく。

 

 照星、照門、そして片方瞑った藤花の目が一直線上に並ぶ。

 

「撃ち方、はじめッ」

 

 

 

   *

 

 

 

 

 

「藤花、貴女最近射撃姿勢が崩れてきたんじゃないかしら」

 

「なに急に、負け惜しみ?」

 

「拳銃以外で勝ってるのに今更そんなこと言わないわよ」

 

 先日の拳銃射撃で藤花が連勝記録を塗り替えて以来、二人の間の賭けは自然消滅していた。このところの藤花の成長は著しく、流転の身だった彼女の欲求に応えるだけの破壊の道具を取りそろえられる軍部に居ついて初めて落ち着ける場所を見つけたという様子である。余裕が出てきたのか語学や暗号でも成績は伸びており、テーブルマナーや変装術においては良家の才女の真似をしろと言われれば誰もが騙されるであろう領域に達していた。

 

「小銃は……重いねん」

 

「普通の情報員がやらない事まで学ばされているから、その感想は当然と言えば当然なんだけどね」

 

 今日は機関短銃の復習があり、黒光りするノイハウゼンとトムソンの轟音を嫌というほど耳に叩き込まれたばかりだ。

 

「何というか、拳銃撃つとき左手がどんどん前に出てきてるのよ」

 

「だって、咄嗟に物影に飛び込んだり相手引っ掴む時に便利やねん。あと相手が刃物の時に心臓守ったり」

 

「殴り合いの構え方じゃないんだから……」

 

 習志野で戦車を駆り、軍人ですらまだ十分な訓練体制の整っていない落下傘降下を異例の回数やらされ、もはや椿と藤花の体は幾らという価値では語れない国家財産となっていた。

 

「簡単に死なれちゃ困るのよ」

 

 

 

   *

 

 

 

 情報員としての教育を優先する為、射撃や格闘はあくまでも二次的なものであったが、座学は多岐に亘る理論を学ぶ事となり、ちょっとした大学のような光景であった。入ってくる情報を素早く分析し即対応に移せるよう、統計学や法医学まで履修を求められたのは、裏社会の人間だった藤花にとって不幸だったのかもしれないが、逆にその経験を反芻し自らの体験に重ねる事で、知識の早急な吸収と過去の整理を同時に付けた事になる。無論とんとん拍子とまではいかなかったが、そこは椿の存在が彼女を手助けした。自習時間は中国、西洋の文学に目を通すこと等を勧め、気分転換と外国人の倫理観や宗教観への理解を深める事を両立させたのも椿である。おかげで藤花の皮肉に独自の知性が加わり、それに辟易させられることにもなったのだが。

 

 とにもかくも、翌年の本土で雪虫が舞い始める頃には、訓練を完遂させ大陸へ渡る用意を固めるよう命令が下った。教練中もきっちり見張られていたらしく、態度、精神に問題なしとしてここへきてようやく正式に拳銃を貸与された。

 

「事の性格上、公にできるものではないが当地まで関係各所責任者に同席願った。訓練生前へ」

 

 格式ばった場面は苦手といった様子で、藤花が歩み出る。

 

 李による訓示が長々と続いたが、彼女は心ここにあらずといった様子である。使命感や陶酔に陥るような人間ではなかったが、少なくとも礼儀正しい人格者というわけでもなかった藤花にとって、詰め込むものであった知識やマナーを実践するものと認識するのに時間を要しているようだ。

 

 数時間後には、偽の旅券を携え、まずは香港へ向かうべく身支度を整えることとなる。

 

 

 

   *

 

 

 

 フィリッピンを経由して香港へ海路で渡り、一度杭州に出たあと上海へ入った。最初の指令は現地協力者との情報手交と合流である。

 

 外灘を歩けば海に面し広い空と運輸の象徴たる黄浦江、そして船から次々と運び出される貨物を札をくわえ汗を流して運ぶ労働者、それを涼しげな顔で眺める白人、そして海岸線との区切りを強調するように走る通りを自動車が疾走していく。時折警笛を鳴らされる人力車に乗り、視線を巡らせば睥睨する江海関の大時計。

 

 人力車はその威容を全周目に止めておくように香港銀行ビルの角を曲がると、市内への進みを速めた。言うまでも無く乗り込んでいるのは藤花であった。

 

 北京西路をしばらく走ったところで人力車を止め、立ち並ぶ商店の陳列に見入った様子でゆっくりと歩きはじめる。十分もすると思い出したように歩みを北へ変え、細い運河沿いの古びた倉庫の隙間を縫うように歩きはじめた。と思えば何かに気付いた様子で北京西路へ戻ってみたり、尾行を気にしている様子だった。しかし二往復目で無事を確認したのか、道端で坐り込み両手を差し出す物乞いの脇をすり抜けると風雨に晒され擦れた文字が浮かび上がる倉庫の裏道で歩みを止め、どこからかルビークイーンを取り出して紫煙を燻らせ始める。傍目には、乙仲の事務員あたりが仕事に区切りをつけて一休みしているようにも見えただろう。物入れから赤みがかった表紙のペーパーバックを取り出し始めたのも、何やら読み書きに通じた職業に通じた風である。

 

 そのまま、文字を視線でなぞりながらおもむろに散歩を再開し、裏道に入ってくる角に入った靴屋の前で足を止めた。

 

 ふと一足の靴を手に取ろうとして、誰かとぶつかる。

 

「あら、失礼」

 

「こちらこそ。…香港から来た方ですかな?失礼、言葉に訛りがあったもので……」

 

「先月来たばかりですから。では」

 

 男がチラと店主を見やると、居眠り中である。

 

「……藤花と申します」

 

「ここではいい。龍浦路の店に個室を予約してあるから、そこで…」

 

 そう言われ藤花は足早に男の側を離れ、雑踏へと消えていった。

 

 

 

   *

 

 

 

 ラヂオからくぐもった流行歌が流れ、今の時期にはそぐわない団扇が傍らに置かれていた。客人はひとしきり料理を楽しんだと見えて、すっかり消費されつくした料理の跡に川エビの尻尾が散乱している。飲み残された粥がいかにも寂しげだ。新たな愉しみとして龍の意匠が施された灰皿が取り出され、二本の煙草が細く煙をたなびかせている。

 

 藤花は席で、紫煙が予測不能な法則で立ち昇り、隙間風に主を変えて霧散していく様をただぼんやりと眺めていた。

 

 もう一方の席、食事の前に楊と名乗った男は茶を一あおりすると席の下から革の鞄を引っ張り出す。

 

「憲兵隊は貴女の事を知っとりますから、滅多な事では邪魔は入りませんよ」

 

「そう……」

 

「旅券はもっと都合の良いものへ差し替えておきます。そうですね……こっちの商工会の人間の名刺を渡しておきましょう。外交官や商社の人間に会うのに一等便利ですから」

 

 楊は慣れた手つきで紙片の束を取り出すと、一枚、二枚とめくり選別して藤花の方へ放った。外灘の片隅に事務所を構える貿易商社と汽船会社、警察関係の人間のものもあった。

 

「ちょっと有名すぎへん?」

 

「それくらいの人でないと、配った名刺の数を覚えているかもしれませんから」

 

「成程なあ……」

 

 会ったことも無い人間の名刺を仕舞い、藤花は茶と煙草に戻った。出すものは全て出し、余裕の出てきた楊は煙草を押し消すと笑みを見せた。

 

「コードブックの方はどうですか、順調ですか」

 

「領事の娘とポーカー友達になった。先週お茶に招待された」

 

 藤花の反応はそっけないものだったが、楊は満足げに頷いた。

 

「貴女の腕なら奪取はもうじきですね」

 

「せやけどなぁー、ウチの想像してた仕事と違いすぎて……」

 

 藤花の言葉に、楊は小さくため息をつく。

 

ここしばらく藤花のこの衝動は、連絡係の男にとって悩みの種であった。とかく藤花は命知らずな銃撃戦に飛び込みたがる。揉み消せる範囲内ならば多少は目をつむる事もできただろうが、抗日組織もいつも同じ場所でテロルを敢行するわけでもなく、時折南京路のような交通量も多く共同租界への影響も大きいところで爆弾などを炸裂させるものだから、各地での警備も強化され後の行動に支障を来しかねないのだ。そこで藤花が頻繁に目撃されていたら。

 

 その時、遠くからの腹に響く轟音、そして一拍遅れて震える窓。

 

「おっ、やりよった!」

 

 藤花はバネ仕掛けのように立ち上がり、窓辺に取りついた。

 

ここからでは騒ぎの全容は見えないが、そう遠くないところで小規模な爆発があったようだ。日本人商店への襲撃か、軍を狙ったものなのかまでは不明である。

 

「ほんなら、楊さんありがとうな!コードブックの件はまた今度!」

 

 楊の返事も待たず、風のように飛び出していくと、戸口に響く慌ただしい足音を残して藤花の後姿が路地を駆け抜けていった。

 

「……妈的!」

 

 楊は小さく悪態をついて部屋を後にした。彼の気苦労はしばらく絶える事は無いだろう。

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