闇の奥 ~昭和二十年の幻想入り~   作:くによし

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第一部 ジェスフィールド76号④

 時と場所を移り北支へ目を向けてみる。創設後、重慶からの国府軍情報員を次々と葬った七十六号も李主任の暗殺や組織内の派閥争いも相まって日本軍の直接的な影響は弱まり、南京政府の下で特工総部に改組されていた。

 

 上海を中心とした沿岸とその内陸部への網を張っていた七十六号の北支連絡拠点として増設が予定されていた北京支部の構想も空虚なものとなり、実質北支方面軍司令部の便利な特務として危険な戦場を渡り歩かされていた。

 

 当地に配属されていた情報員の中に、九鬼椿その人がいた。

 

 彼女は早朝の呼び出しを受け、連絡将校に会うべく日の出前の柔らかな光に包まれた廊下を急いでいる。

 

「九鬼入ります」

 

「よし」

 

「お待たせしました」

 

 部屋へ入り、九鬼は電燈の下で待ち受けていた連絡将校へ一礼した。

 

「おお、貴女か。女一匹大陸を行く、スパイの九鬼とは」

 

 知らない間に随分と大それた二つ名がつけられたものだ。大きめの眼鏡の下で、彼女の眉が困ったように下がる。

 

「いえ……それほどの者では」

 

 面倒な指令の前にはおべっかがつきものだ。椿は直後に言い渡される命令を何となく察することが出来た。

 

「命令。九鬼隊は其の総力を以て無線隊と協同し、第一軍の第十八集団軍(八路軍)司令部及び主要機関、護衛の三八六旅独立団奇襲攻撃を支援すべし。人選及び火器の調達は第一軍山本特支隊隊長に一任す」

 

「は……」

 

「正式な命令書だ。糧秣は後ろから部隊を追いかけさせて届ける。貴女は目録の通り装備を整えて山本隊へ合流せよ」

 

「はい。……ひとつよろしいでしょうか」

 

「何だ?」

 

「先程、九鬼隊と申されましたか?」

 

「その通りだ」

 

「私は、その、部下はおりませんが……」

 

 椿の言葉に、将校は意外そうな顔をした。流石に彼の職務には含まれていないようで、鞄へ書類をまとめつつ思いを巡らせているようだ。

 

「まだ聞いていないのか。一人付くそうだが」

 

「失礼致しました、御手間を取らせまして……作戦には間に合わせます」

 

「頼むぞ、では」

 

 素早く礼を交わして将校が出ていくと、椿は取って返して自室へ戻る。と、そこへ"部下"が到着していた。

 

「……久しぶりやね」

 

「貴女だったの」

 

 ずっと空きだったもう一つの寝台に腰かけ、明かりもつけずに藤花が煙草をふかしていた。懐かしい顔との再会ではあるが、腰を落ち着けて語り合う時間はそう残されていない。

 

「いつ来たの?もう出撃になるわよ」

 

「一昨日、飛行機で。敵の飛行機はビルマからの輸送に集中してるみたいで静かなもんやったわ……」

 

 あれほど組織への帰属を嫌っていた彼女が情報員という国家の為の立場でわずかな言葉ながら戦局について考える様は、採用前からの姿を知る椿にとって意外であった。肉付きも心なしか変わっており、この三年間で色々な意味で成長したようだ。

 

 と、藤花が煙草を灰皿に押し付けて火を消し、真剣なまなざしで向き直った。

 

「八路に挺進隊けしかけさせるらしいやん」

 

「一番の好機だからね。一昨年の国府軍程じゃないけど、情報は掴んでるのよ」

 

 開戦以来の八路軍の動向や、国府軍との戦力差など、様々な考えが去来したが、目の前の戦友の姿に視線は注がれていた。小さく息をついて、煙草を一本取りだして彼女の脇へと坐る。

 

 ルビークイーンの香りと、山西省の絹を練ったような山々の青い匂いが立つ。激務のせいか、大陸の土埃にまみれた風のせいだろうか、どことなく疲れた様子の藤花、その髪の房から乱れて立っている数本が、どうにも色っぽく見えて困る。

 

そこへきて、椿は藤花の横顔、その目がこちらを見据えているのに気が付いた。

 

「どうしたん?」

 

「いや……なんでもない」

 

 ばつの悪そうな顔で向き直ると、燐寸を擦る音がして、椿の眼前に火種が差し出された。

 

「次はいつゆっくり吸えるか分らへんもんね」

 

椿は微笑むと、両手をかざして火が消えないように燐寸をつまむ藤花の手を包みこみ、ゆっくりと煙草へ火を移した。吸気に艶と辛みが追加され、肺に満ちる。一瞬の沈黙のあと、吐き出す。目の前に紫煙の壁が立ち上る。

 

出撃が近づいていた。

 

 

 

   *

 

 

 

 この地は朝夕は冷え込み、昼は暑くなる。日中の行動を気にして軽装で出発した九鬼隊一行は肌寒い朝の村を抜け、待機していた貨車へ乗り込んだ。発動機が唸りを上げ、会話が周辺から聞き取られないようになってから、二人はおもむろに口を開く。

 

「隊長の山本大佐って、どんな人かしら」

 

「ドイツ帰りらしいで。陸大でも受けたら出世街道まっしぐらやったんちゃうかな」

 

「知ってるの?」

 

 ここへ来る藤花は、ここへ来る前に会った、と短く答えた。貨車が大きな水溜りの跡を通過し、荷台が大きく跳ねる。

 

「支那語も堪能やし、いかにも出世畑って感じやったけど、ドイツで学んだ特殊戦の理論を実証したいみたいやね。あとは、護衛の八路軍部隊を前に取り逃がしてたから、その意趣返しやろなぁ」

 

 椿が相槌を打った頃、貨車が板バネを軋ませて停車した。ここで無線隊を拾っていくらしい。八路急襲の先鋒を担う挺進隊は既に行動を開始しており、常に無線で最新の情報を受け取りつつ本隊へ接近しているようだった。間を置かず、いくらかの兵隊が貨車の方へ駆けてきた。無線機や予備の電池、手回し発電機を手に手に抱えている。

 

「麻田への車か!?」

 

「せやで!」

 

 荷台の上から藤花が怒鳴り返す。集まってきた兵隊たちは口々に女だ、おんなだと言って顔を見合わせている。

 

「とっとと乗車ぁ!」

 

「はいっ」

 

 真っ先に飛び乗った曹長の襟章を付けた男が次々と続く部下と荷物を引っ張り上げる。その多くが若い兵隊だ。被服以外は私物の多い藤花と椿の他に、編上靴と巻脚絆の足が一様に並んだ。

 

 最後の一人が乗り込むと、待ち受けていた兵隊が一斉に跳ね板を閉じ、運転台と隊長に向かって叫ぶ。

 

「乗車終りッ」

 

「よし、出発ッ!」

 

    *

 

 

 

 移動中、突然兵隊たちが帯革を解き、軍衣を脱ぎ始めたので何も知らない藤花は面食らった。

 

「え、え、なに」

 

「相手は八路の本隊だからな、開戦以来誰も尻尾を掴めてない鰻の尻尾だ。あからさまな日本軍が無電背負って支那軍勢力圏に行くわけにはいかん」

 

数分後には刈り上げた頭を帽子で隠し、すっかり便衣姿に変わった無線隊が出来上がっていた。

 

 藤花は、傍らの椿に耳打ちする。

 

「大作戦なんは分かるけど、ウチらが出る幕あらへんやん」

 

「私たちが周辺警戒するのよ」

 

「は……」

 

 藤花は絶句した。完全に兵隊の仕事ではないか。上海で潜入調査から突然外され、北支へ行けと言われた時点から何かおかしいと感じていたが、もしや行動大隊の編成に何か大きな変化があったのだろうか。

 

 藤花の心境を察したのだろう、椿は分かってる、とだけ言い。

 

「国府軍の撤退が早すぎるのよ。蒋政権は土地の広さをすなわち防壁として日本の息切れを待ってるの。そこへ対米開戦でしょ。国府のあとに出張ってくる八路を抑えきれないのよ。南支じゃ戦勝報告もあるけど、北支は遊撃戦ばかりよ、そこに情報員の知恵が必要っていうのが表向きの理由」

 

 表向きと言うあたり、椿も女性情報員の不遇は察しているのだろう。彼女自身一足先に北支に来ているのがなによりの理由だ。

 

 太陽が真上を過ぎたあたりで貨車は停まった。眼前には川と細い橋が一本、ここから先はよほどの部隊でないと進出しないゲリラの名所である。

 

 停車を命じた隊長は、先程まで周囲の安全確認に使用していた双眼鏡を押し込み、総員降車を命じた。そして整列。

 

「ここから一キロ北へ進出して川を渡る。どっから見られ、どっから聞かれているか分からん状況だ。俺たち無線隊ですら、後方部隊と安心できん、各員細心の注意を以て任務にあたるよう。また喫煙は慎め。現地民との接触はもってはならん。以上終りッ。敬礼よろしい。直ちに出発」

 

 行李や背負い袋で巧妙に偽装した無電を背負い直し、全員が歩き出す。少しして反転した貨車の排気音が遠ざかっていく。ここから先、支援は望めない。

 

 崩れかけた土塀には抗日標語が白書きされ、ところどころに宣撫の伝単や標語があっても破り捨てられたり、「皇軍」の字に虫偏が追加で落書きされたりしている。文字情報ですら無事ではいられない地域だ。人間などひとたまりもないだろう。

 

 北方とはいえ初夏の太陽の下では気温は一気に上昇する。じりじりと熱せられ吹き出る汗をぬぐい、時折吹き抜ける風は同時に砂塵も巻き上げてゆき、一行の顔つきはいかにも戦火を逃れやってきた農夫たちといった様子に仕立て上げられているだろう。

 

 とは言え任務は斥候などではなく挺進隊への情報連絡である。歩いている様は化かせていても無電を取り出して定期的にどこかと通信すれば日本軍の進出を宣伝しているも同じだ。どうしているのかと藤花は不思議に思って観察していたが、時折誰かが小便といって消えては木立の陰に入っているので、どうやら定時連絡は手短に行われているようだ。

 

「帝国陸軍もいろいろ考えてるんやなァ」

 

 

 

   *

 

 

 

 事態が動いたのは、それから間もなくであった。

 

 司令部からの情報を待たずして、山本部隊の方が郭家峪において有力なる敵部隊の動向を確認し、報告してきた。情報は無線隊を通じ、後方の大隊、さらに連隊本部、軍司令部へと文字通り連絡される。

 

「ついに八路の尻尾を掴んだ!」

 

 山本部隊が捕捉したのは護衛を務める三八六旅独立団の本隊であるらしく、万全を期して夜半の奇襲攻撃を強く主張していた。一方で八路軍本部の所在が不明瞭な事を理由に、もう一隊の益子隊長は薄暮攻撃を具申していた。

 

「ここへ来て意見が分かれんのは面白ぅないなァ」

 

山本大佐は戦術目標の破壊にばかり特殊部隊を投入させる事に反発して篠塚中将のお目玉を食らったと耳にしていたが、どうも三八六旅独立団絡みに関しては個人的感情が先行してしまっている。中原会戦勝利の一翼を担った益子隊長とドイツ帰りの秀才山本隊長、いずれの能力も疑う余地は無かったが、一抹の不安が残る。

 

 しかし、益子隊も郭家峪の別部落に敵部隊視認の報を受け、益子隊は網を張り、山本隊が三八六旅独立団へ奇襲攻撃を開始後に脱出を図る本隊へ打撃を加えるという計画に落ち着いた。

 

「ええのかなぁ山本隊……」

 

 拳銃の弾倉を確認しつつ、耳にした作戦計画をぼやく藤花。

 

「困ったときの歩兵操典じゃないの」

 

「凡そ兵戦の事たる、独断を要するもの頗る多し。而して、独断は其の精神に於いては決して服従と相反するものにあらず…………なぁ椿はん」

 

「なぁに」

 

「八路の勢力圏で歩兵操典の話してるの、まずいんちゃう?」

 

 藤花の懸念に、椿はクックと笑う。まくった袖を直しつつ、農道の行く末の一点を指さした。

 

「あそこの農夫、たぶん八路の斥候よ。あんなところ耕しても芋すら育つわけない。彼が陣地に帰って……本部に報告して、討伐作戦を練り終える頃には山本隊が突入を開始するでしょうね。こちらの存在を認識した途端の奇襲、驚くわよぉ……」

 

「逃げようにも益子隊の網が待ち受けてるし……椿はんもやらしい風に考えるんやね。でも心理効果は絶大か」

 

 二人の顔に嗜虐を帯びた笑みが浮かぶ。

 

 もうじき日が暮れる。

 

 

 

   *

 

 

 

 昼間に比べて息が白くなるほどの寒暖の差が一行を襲う。しかし、山をいくつか超えた先では山本隊が村に隣接する崖下に身を潜め、予想される脱出路には益子隊も兵を伏せていた。

 

 広大な畑、部落から最も離れたそれの一角に立つ小屋に無線隊は潜んでいる。外の見張りを除いて皆、薄暗い小屋の中で挺進隊からの連絡を待っていた。

 

 滅多な事では無線封止は破られる事は無い為、小屋の中は基本静かだ。だが、不安に駆られたのか、兵の一人が藤花と小声で話し込んでいた。

 

「浅草で言うたら天井桟敷ってとこやね」

 

「でも、八路の一部がこちらに出てくるかも……」

 

「そん時はウチも一緒に戦うやん。こう見えてもイギリス領事館に忍び込んだこともあるんやで」

 

「やっぱり、スパイなんですか」

 

「せやで。……まぁこんな芋くさい恰好じゃ見栄えせえへんけどね」

 

 そういって胸元から一枚の写真を取り出した。上海の写真館で撮ったものだ。無言で自分と椿を指差し、兵に見せる。

 

「すげえなこりゃあ、初年兵には目の毒だぜ」

 

脇から覗き込んだ古参兵が笑う。言われた初年兵といえば、脳裏に焼き付けておかんばかりに写真に食い入っている。藤花たちも十分に若いつもりだったが、階級章に星ひとつのあどけなさを見せられると、数年の差を痛感せざるを得なかった。ちょっとしたブロマイドめいた一枚である。

 

「……ちょっと、何か言うてや。写真に穴あいてまうやん」

 

「すッすみません!」

 

 慌てて写真が藤花の胸元へ突き返される。

 

「声がでけえぞ!」

 

 歩哨に出ていた軍曹が戻ってきた。皆して居心地の悪そうに電池を確認してみたり、腕を枕に体を倒してみたりする。

 

 その時だった。

 

「やりやがった!」

 

 外からもう一人の歩哨の声。よくよく耳を澄ませてみると、遠くから断続的な発砲音が聞こえてくる。腕時計をのぞきこむ。

 

「機関短銃やから……山本隊やね」

 

「いよいよか……」

 

 おおよその方角は分かるが、火の手が見えたり実際の戦況が見えるわけではない。しかし、無線封止が敷かれている今、挺進隊からの連絡を待たずして動くことは出来ない。皆、緊張した面持ちで銃声の響く黒々とした山々を眺める事しかできなかった。

 

「司令部にいる将軍たちも、こんな気持ちなんだろうなァ」

 

 

 

   *

 

 

 

 夜明けと共に両挺進隊から連絡が入った。山本隊は、敵の遺棄死体三十を確認、中には政治委員も含まれていたそうだが、首脳部は取り逃がしてしまった。益子隊は八路本部の急襲に成功し、現在も追撃中であった。

 

「大戦果だ」

 

 無線隊は戦勝気分に沸いた。が、一行にとってここからが正念場である。戦果はともかくとして、結局八路の首脳部は一部を犠牲にしつつも逃亡を続けており、増援も周囲に集まりつつある。特殊部隊はともかく、無線隊は丸腰も同然である。敵愾心に燃える八路に包囲されれば、捕虜で済めばいい方である。

 

 司令部への電信を終えると、行李をまとめて慌ただしく出発した。

 

早くも太陽は周辺を照らしている。周囲は明るくなってきているが、太陽はまだ完全な姿を見せていない。

 

殊に農民は朝が早い。畑の一角に陣取っていると人目に付く為、乾パンと熱糧食という口を酷使する朝食を押し込み、包み紙に至るまで入念に埋めてから出発した。藤花の提案で、暍病予防錠を各員に配り汗を流す体の一助とする。

 

 奇跡的にも、昼までの道程は穏やかなものであった。人のいる土地を通り抜けるときは必ず隊長と誰かが組となって先行し、情報を収集する。やはり昨晩の急襲は噂となって駆け巡っているらしく、人通りはいつもより少ないくらいらしい。先を急ぐ無線隊にとって好条件だったが、予断を許さない状況である。

 

 地面が踏み分けられた草から割った石で舗装された道路に変わり、板張りの建物が目立つ部落が望める位置まで到達すると、隊員の一人が妙な事を言い始めた。隊長も怪訝な表情をしている。

 

「雑音が多く、交信が思うように上手くいきません」

 

「本隊は応答せんのか」

 

「遣り取りは出来ておるのですが、混信しているのか時折聞こえづらくなるのであります」

 

「標高はどうか、昨日より低い所か」

 

「いえ、むしろまだ高い位置を移動しています」

 

「では湿度か」

 

「自分はこれより湿度の高い山林で交信した事があります。こいつより出力の小さい機材でしたが、問題にはなりませんでした」

 

「では……」

 

 不安げな隊員のいくつか条件を例示して見せた隊長であったが、やがて誰もが憂いている事態を確認せざるを得ない状況となった。

 

「誰か近くで別の無電を使っているということか」

 

 

 

   *

 

 

 

 午後には更に事態が悪化した。

 

「平安縣の守備隊が八路の猛攻を受けています」

 

 隊長が渋りきった顔で振り返る。

 

「本隊は何と言ってる」

 

「車両を喪った山本隊が支援を兼ねて向かうそうです。本隊からも増援を二方向から向かわせると」

 

「それでは我が隊は……貨車の迎えは来ないという事だな。如何なる事態に立ち至ろうと歩いて帰隊せよと」

 

 城の守備隊と小さな無線隊では割り振れる労力に差がありすぎる。結果、こちらは零となったのだ。

 

 その時、一行の頭上で奇妙な虫が鳴いた。

 

「伏せろッ」

 

 道を外れて草地に飛び込んだ直後、虫の合唱が増えた。また、軌跡すら見て取れるようになる。機関銃を含めた一斉射撃であった。

 

「どこからだ!」

 

「八時方向!閃光が見えました!」

 

 他の隊員は、懐の拳銃の位置を探っている。命令が下れば装填して反撃なり逃走なりに移らねばならない。ひとり双眼鏡を持っている隊長は慎重に路傍の石の陰から片目分、部下の指示した方向を観察した。なだらかな斜面、その空と畝の境が断続的に光っている。道の片側に並んで伏せているのに弾着は路上、もしくは反対側の茂みのみである為、まだ包囲はされていないと判断した。

 

「立つな!進路はそのまま行く、本隊へ一歩でも近く!刀治本軍曹、森に辿り着いたら帰隊まで指揮を取れ。前方の森まで、匍匐前へ!」

 

隊長の号令で、方針は一刻も早い離脱と決まった。移動し始めた全員を確認すると、隊長は一発撃ち、場所を移ってはまた一発と反撃する。

 

「隊長はん!あんたも早く!」

 

「まだガキみたいな兵隊も女もいるんだ。先へ行け。ここで粘って敵を引き付ける」

 

 隊長はあくまで発砲を続け、こちらがまだ留まっていると敵に誤認させる腹積もりである。しかし、敵がすぐに迫って来るであろうことは誰にも予想できた。

 

「……すぐ来てや」

 

 藤花は隊長の武器の事を思い、懐のモーゼルを隊長の方へ滑らせた。予備の弾倉も二、三本放る。

 

「すまない」

 

 銃を帯革へ挟み、隊長は片手を上げた。そして、入れ違いに何かを藤花の方へ投げて寄越した。受け取ってみると、御守りの木札と封筒を紐でまとめたものであった。

 

「隊長はん、これ!」

 

「行け!敵が斜面を下り始めた!」

 

 隊長は、刺し違えるつもりなのだ。特務から済し崩しのように流れてきた自分と違って今後も生死を共にする部下を持つ身のはずだ。替わりたい一心でもう一度呼びかけたが、振り返ることなく「行け」と短く一喝されたのみだった。

 

「御武運をッ」

 

 藤花は目を伏せて振り返り、森へと駆けだした。

 

 銃声はしばらく聞こえていたが、やがて一発の爆発が轟き、それきり静かになった。

 

 

 

   *

 

 

 

皆に追いついた頃、平安縣の守備隊陣地に八路軍が突入し、山本隊と激しく交戦している旨の連絡を傍受したところであった。小鹿曹長の代行による隊長絶筆の打電を最後に、平安縣からの通信は途絶えた。

 

 藪をつついたら蛇のあとから鬼が出てきた、そういった状況である。山本隊の支援に差し向けられた部隊も、各地で八路軍の待ち伏せに会い、多数の損害を出して足止めを食っていた。地の利を心得ている八路は手薄な日本軍部隊に殺到し、包囲分断されるのではという恐怖で士気の低下を図っていた。

 

ここでも、寡兵とみた敵が強硬策に出てくれば、壊滅的な被害は免れないだろう。

 

「通信機材は、全て破棄する」

 

 本体から発電機まで、銃把や石を使って破壊した後、藤花と椿の持っていたテルミットで溶かして処分した。光と煙で八路が集まってくるだろうが、地形を利用して転がり出るように森を脱する。

 

包囲が完成する前に森を出られたらしく、川沿いに身をかがめて進む一行に撃ちかけてくる者はいなかった。対岸に渡り、下流へ進めば日本軍の支配地域に出るはずだ。

 

しかし大陸は広く、点と線を辛うじて維持する日本軍に対して、相手は神出鬼没の八路軍である。ここで安心して姿を晒す事は出来ない。

 

「軍曹どの、橋が見えます」

 

「安心するな、あんな風になるぞ」

 

 振り返って睨みつける軍曹が、橋のたもとを指さす。泥のついた鉄帽を被り、血を流した兵隊が突っ伏していた。

 

「五感を研ぎ澄ませるんやで。そうすれば……椿はん」

 

「なあに」

 

「あの兵隊……今動いた」

 

 新兵に先輩風ふかして話していた藤花の目が丸くなる。

 

 慌てて皆して兵隊に駆け寄ると、重傷だが、まだ生きていた。川の水をかけて、揺さぶる。軍曹が太い腕で何度か声をかけながら揺すり続けると、わずかながら反応があった。

 

「……もの、日本軍の偽物がいる」

 

「何?」

 

 それっきり、兵隊はガックリと首を落として、動かなくなった。軍曹は、ゆっくりと息絶えた兵隊を横たえ、周囲と顔を見合わせる。

 

「おーい」

 

 次の瞬間、対岸から誰かが声をかけてきた。全員が飛び上がって振り返る。見慣れたカーキ色が小銃を肩にかけて走ってくるところであった。

 

「おぉ、流石に友軍が出てきてるのか」

 

 軍曹が小さくつぶやいて、立ち上がる。

 

「おーい」

 

 返事を待っているのか、対岸の兵隊がもう一度片手を上げるのが見えた。

 

「……あ、あれ日本軍じゃ無い!」

 

椿が、今しがた死んだ兵隊の小銃を拾い上げ掌底で安全装置を外すのと、対岸の"日本兵"に見える男が肩から降ろした小銃を構えたのは、ほぼ同時だった。

 

 重なり合った銃声が響く。数分にも感じられる沈黙の中で、変わらないのは川の流れと頭上に被さる木々の葉が擦れる音だけであった。

 

椿の射線上、立ち尽くす相手はしばらく唇を噛み締めてこちらを睨めつけていたが、やがて肩から力が抜け、崩れ落ちた。

 

「…た、助かった」

 

 一歩遅れていたものの、油断なく拳銃を構えていた軍曹がため息をついて構えを解く。

 

「あいつ、なんですぐ撃ってこなかったんだろう」

 

「こっちも支那服着てたから、味方か敵か判断しかねたんやろな……」

 

「敵も味方も相手の服着て化かし合いとくるんだから、やりきれないわね」

 

 椿は苦々しげに台詞を吐く。しぶとい敵にというより、彼我共に取っている行為についてだろう。

 

「何にしても助かった。全員異常はないか」

 

 安堵の表情で皆が顔を見合わせる。一人を除いて。ちょうど横一列の中心に立つ形になっていた彼は、下腹部より出血していた。納屋で藤花たちの写真にいちばん見入っていた兵隊だ。信じられないといった表情で、川へ倒れ伏す。

 

「おい!」

 

「しっかりせい!」

 

 彼は痙攣し、どす黒い血を吐いた。川がほとんどを洗い流してくれるおかげで綺麗なものだったが、明らかな致命傷である。藤花が抱きかかえ、耳を近づけると、彼は何かを言いかけていたが、全身からすぐに力が抜けて行った。

 

 一歩遅れて貨車が到着した。兵隊を満載しているので、迎えというよりも警戒に回っているかどこかへ討伐へ出るところだろう。

 

先に藤花と椿は乗り組み、死んだ兵隊は戦友たちによって変装を解かれ、軍服姿で貨車へと載せられた。

 

「そういえば、あの兵隊さんの名前、結局聞かへんかったな……」

 

襟元には星ひとつ。

 

認識票代わりに名札をはぎ取られていたことが、彼女にとっては救いだった。


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