闇の奥 ~昭和二十年の幻想入り~   作:くによし

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紅の自警団⑪

 相手は妖怪でも妖精でもない、同じ人間だ。しかし、腹の刺された点の熱さと、そこから触手を伸ばすぞっとするような冷たさは何だ。かすり傷や命に関わらない負傷ならいくらでも経験がある。何なら服を脱いだ時にそこここに残る傷痕にまつわる話をしていけば一晩では済むまい。

 だが、悔しいかな現在の藤花は逸話どころか言語を理解し発する事も困難な状況にあり、頭の中身がぽっかりと血肉とも消え失せたような感覚の中で眼球を操作する事もかなわず、ともすればガクリと落ちそうになる頭を支えるだけで精一杯だった。これが心の臓を刺されたであればとっくに意識を失い、命も消え失せていただろう。

 高堂、どこまでも中途半端なやつ。

 練度の低い兵隊は、無意識に抵抗を感じてとどめとなる攻撃を避ける傾向にある。そんな事を教わったのはどこだっただろう。自分の方が練度が上だったとしても、刺されたら元も子もないではないか。如何に優秀な兵隊であっても、死んだら終わりだ。

 やがて藤花の意識は、流水へ浸された染みのように輪郭がぼやけ、温度を失っていく。

 いかにも死ぬ瞬間らしい感覚だ。

 命の温かさを喪い、呼吸が止まる。

 かつて戦地で共に戦い、死んでいった戦友達にも同じような瞬間があったに違いない。

 では、あの揺れる光から浮かび上がってくるのが走馬灯のような…というあれだろうか。

 だが、藤花の思索はそこで遮られた。今際の闇の奥から浮かび上がってきたのは、自分の半生でも死神でもなく、わかさぎ姫の穏やかな笑みであった。

 

   *

 

 時間を少し遡る。

 凶刃が藤花へと突き立てられ、正邪の勝利を確信した嘲笑を高らかに幻想郷の夜空へ打ち上げた刹那、抵抗する力を失った藤花に組み付く二人は、しなやかな、それでいて確かな質量を持った物体が地面を叩く音を耳にした。弾着などではない。予想外の雑音に、思わず殺人未遂の下手人達は周囲を見回す。

誰かが背後に立っていたわけではない。

直後、地面の次は水面の動揺を想起させる物音。見れば確かに傍らの池は明鏡止水を破り、映り込む月を歪に変形させていた。それが運のツキ。

手練れの幻想郷住人であれば、人質の脱出に気付いただろう。

だが二人はそれが一歩遅れた。辛うじて、正邪だけが人質の能力が何であったのかまでを思い出すに至る。しかし、対応策を考えあぐねている間に、文字通り水を得た姫が再び自ら跳躍し、己が尾でしたたかに凶器を持った手を打ち据え、飛沫に驚いて飛びのいた正邪から離れた藤花の体躯を抱えると再び地面を打って池へと飛び込んでいたのだ。

「やろ………てめェ!」

 地団太を踏んでいた正邪が高堂の銃を奪い取り乱射するが、水棲の姫の一瞬の威容を留めるものは何もなく、ただ揺れ続ける月と霧雨めいて降り注ぐ弾着の水飛沫が舞い踊るばかりであった。

 

   *

 

 浮遊霊めいて自身の生死が曖昧な藤花は、突如として現れた姫の顔が意味するものを掴みかねていた。

 従って姫の手が彼女の顔を保持し、暗がりの中でも髪の房が見て取れる距離に互いが近づいても、もしかして食われるのだろうか、嫌だなぁとか人質って腹減るもんなとか、突拍子もない事を脳裏でつむぐ事しか出来ない。

 そういえば人間の目は水中で焦点が合わないはずなのに、どうして姫を識別できるのだろう。

 その時、姫はすこし顔を傾げると藤花と唇を重ねた。

「…………!!」

 水底で藤花の目が見開かれる。遠慮がちな舌が藤花の歯列を撫ぜ、慣性と驚きとで僅かに開かれた口へ新鮮な空気が送り込まれる。それと同時に、助けを受けた意識が日常のサイクルを取り戻し、それにつれて視界も戻ってきた。

 しばしの接吻を解き、悪戯っぽくバブルリングを作って微笑む姫に抱かれ、藤花は水面ではなく暗闇の底へと連れられていく。

 彼女の命を繋ぎ止めた接吻は、涙の味がする。人魚の涙、その鉱物にも似た口に広がる残り香は、藤花にとってこれまで得た何ものよりも価値のあるものであった。

 

   *

 

「……………ここは」

 さっきよりも生の実感を抱きつつ、藤花は硬い地面から身を起こした。しかし、何も見えない。見回せども一向に周囲が見えてこないのはどういうことか。

「ご気分はいかがですか?」

 暗闇が話しかけてきて飛び上がらんばかりに驚いた。

「最悪やわ……」

「ご無理もありません」

 ようやく、ここへきて洞窟か何かにいて、声の主は人質に取られていたわかさぎ姫なのだと認識した。寒いやら暗いやらでもじもじする藤花を、姫はもうじきに目が慣れると伝える。

「弱いですが、光る石があちこちにありますから、目もそのうち慣れてくるはず……でも、怪我をしていますから、すぐに送りますよ」

 そうなのだ、腹部には深さは分からないが刃物が…。

「あれ……」

 ここでもし「あの時もらった硬貨が」というような形で無傷であればどれだけ劇的だっただろう。藤花の国民服は下腹部が裂かれ、水で洗われたもののなにやらぬるぬるしていた。

 傷口には触らぬよう、服の裂け目を指でたどっていくと、腰の物入れに当たった。ここには煙草入れを納めていたはずだ。

「刃が滑ったんか……」

 思わず足を上げたのだろう。高堂の刃は金属の煙草入れに当たり、滑って結局彼女の体を切り裂いたらしい。こっけいな話だが、臓器に達する傷ではなかったので文字通り怪我の功名といったところか。しかし切り傷の範囲は広く、放っておけば失血で意識を失うのはそう遠くないだろう。かといって代用血液になりそうなものも真水の幻想郷では望めまい。

「少しの辛抱です、頑張って下さい」

「おおきに……これ」

「?」

 藤花は煙草入れを暗闇で開き、中をまさぐった。貴重な煙草が水に濡れてくしゃりと中身を指にまとわりつかせる。

 最終的に彼女が取出し、手探りで姫に持たせたのは石ころだった。

「綺麗なもんやないけどね……満洲の石やで」

「まんしゅう?」

「ここに来るまでに……ウチがおったところ。その石は、もし死んだら身代わりに内地に帰るはずやったんよ。命の恩人に託すには、もってこいやね」

 自己満足やけど、といって藤花は力なく笑う。姫も、しめやかに微笑んだのだろう。その返答には、くすぐるような響きがあった。

「何を貰ったかじゃないですよ、誰から貰ったかが大事なんです。命の恩人に分身を授かるなんて、この上ない贈り物じゃないですか。忘れませんよ」

 忘れない。その単語の響きで、藤花が涙を溢れさせるほどに魂が救われた事に姫は気づいていなかった。

 




洞窟で光ってるのは、昭和二十年代の冒険小説に登場したハイギョの体内に生成されるという架空の宝石「ザウエル」ですね。個人的に気に入って登場させてみました。
姫も水辺だけではなく水中の世界にも通じてると思ったので……
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