闇の奥 ~昭和二十年の幻想入り~   作:くによし

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第一部 ジェスフィールド76号⑤

 昼の熱さを予感させる夜明けだった。

 

 今日に立ち至るまで、藤花は表舞台から姿を消していた。もちろん、何もしていなかったわけではなく開戦前の対ソ諜報をあらゆる方面から命じられ行動している。開戦していないとはいえ、それはあくまで正規戦が行われていない状態というだけで、秘密戦の上から言えば、その期間こそ彼女の舞台であった。

 

 しかし、それも昭和二十年の八月九日までであった。南方戦線の苦杯に対して、大陸では一号作戦で国府軍の戦線を打ち崩す事には成功しており、関東軍には楽観的な雰囲気が漂っていた。しかし、巨視的に観察すれば誰の目にも明らかであっただろう。増大する労農赤軍の通信量、強化される鉄道、次々と欧州から送り込まれる東アジアの軍備、日ソ中立条約の不延長宣言……。

 

 そう、ヤルタ会談以後、ソ連は対日参戦を具現化すべく動き始めていたのだ。

 

 最高戦争指導会議や大本営、関東軍の一部が盛夏から晩夏にかけての開戦の気配有と結論付けていた通り、ソ連は八月九日早朝、満洲国境を侵して大軍を推し進めた。精強と知られていた水戸第二連隊の末路を見るまでも無く、関東軍の主力部隊は次々と南方に引き抜かれており、第一線部隊は絶望的な状況下での戦闘を強いられ、居留民に至っては置き去りであった。各地で赤軍に限らず匪賊、暴徒の襲撃を受け、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられた。

 

 永久要塞も次々と陥落し、地の利を生かした一般部隊も遅滞戦闘がやっとの中で、日本は十五日を迎えた。しかし赤軍の武力進出は止まず、一部の日本軍部隊も停戦命令を拒否、まだ戦争は終わっていなかった。

 

 

 

   *

 

 

 

 野戦応急飛行場には、九九式双発軽爆撃機三機と、二式複座戦闘機二機が翼を連ねている。明るい太陽の下であれば日の丸を描かれた機体が並ぶ様は壮観であっただろう。しかし、僅かな機体たちは簡素な擬装を施されて静かに主たちが現れるのを待っていた。

 

濃緑と灰色の塗り分けがなされた軽爆に対して屠龍は斑迷彩など、尾翼の部隊記号もまちまちの混成部隊である。このあたりで残っている航空機はこれが全てだった。

 

「それは命令違反にならないでしょうか」

 

 天幕の下、軽爆二番機機長の呑(のみ)村(むら)中尉が遠慮がちに机を囲む面々を見回した。上座に位置する戸尾大尉の傍らには黒板が据え付けられ、赤軍の進路とそれに対抗する矢印が描かれている。そのまた横に掲げられた、一枚の紙。

 

「今の質問に答える」

 

 紙は、大陸命(大本営陸軍部命令)第一三八二号であり、積極戦闘を即刻中止するよう各地域の陸軍部隊へ伝達する者であるが、自衛の為の戦闘はこれに当たらないという条件付きであった。

 

「敵は我が軍使の乗った車両を銃撃、依然武力を以て避難民を虐殺しつつ前進中である。然るに是を叩き、全航空戦力を以て地上部隊及び避難民の支援に当る。機材へは既に小官の命により百キロ爆弾、二百五十キロ爆弾の搭載を行いつつある……これが帝国陸軍最後の爆撃行になるやもしれんのだ」

 

 軍刀の柄を音を立てて握りしめた戸尾大尉の言葉に、全員が顔を見合わせた。

 

 いや、おそらく全員が、正面の中空に各々の思いを巡らせていたに違いない。戦況が既に決した今、この攻撃に何を見出すか。悲壮美、他社の為に命を擲つ美しさか、悪あがきへの嫌悪かもしれないし、陶酔への冷めた考えかもしれなかった。

 

「補給が終わり次第、整備隊は貨車で脱出させる。彼らの時間を稼ぐためにも俺は行こうと思う。無理にとは言わない。言い出せないものは、離陸後日本へ向かって飛べ」

 

「彼女も道連れになるんですか」

 

 別の注意中尉が、天幕の片隅に居心地悪そうに座る飛行服姿の女を見やった。全員の視線が集中し、ますます縮こまる。着ぶくれした飛行服に、横には装備を詰め込んだと思しき袋と落下傘が逆に堂々と鎮座していた。

 

「……ウチは、飛び上がったあとが任務なんです。避難民に紛れて、要塞への連絡と、敵の後方攪乱をやるんです」

 

 道路を爆破してほじくり返したり、地雷を置いたりするのだろうか。任務とやらの内容は知らないが、全員が小さく息をついて向き直った。

 

「軽爆二番機、行きます」

 

「三番機、行かせてください」

 

 戸尾大尉は全員を見回した。

 

「皆……」

 

 最後の方は藤花の位置から聞き取れなかったが、すまない、と言っているように思えた。

 

 その時、入りますと声がして天幕の一部をめくり、整備兵が顔を覗かせた。

 

「全機、燃料弾薬の積み込み終わりました」

 

「御苦労、飛べない機体と支援機材は爆破遺棄して脱出しろ」

 

「は……」

 

「発動機は回して行ってくれ。すぐに乗り込む」

 

 戸尾大尉は半分ほど残った角瓶を整備兵の方へ放って寄越し、片手を上げた。

 

「では、これより我が隊は大陸命第一三八二号に基づき、自存自衛の為、目下武力進出中のソビエト地上部隊に対し攻撃を試みんとす。攻撃は屠龍隊の低空進入で敵対空砲火を沈黙させ、主力戦車隊が散開する前に軽爆隊が全弾投下しこれを破砕する。赫々たる武勲を穢す事なきよう、各自全力を尽くせ」

 

 

 

   *

 

 

 

 ウイスキーで水杯を交わした一同は、翅を回し始めた愛機へ一斉に駆け込んだ。落下傘を身に着けての疾走に慣れていない藤花は、懸命に追いかける。

 

「お客さん、こっちだ!」

 

「ウチの戦争、飛行機で始まって飛行機で終わったな……」

 

「どうした?」

 

「宜しく御願いします!」

 

 他の空中勤務者の助けを借り、狭い昇降口へ体を押し込んだ。最後に乗り込んできた一人が、戦闘騒音が近づいてきています、と機長へ告げた。

 

「整備の連中はもう貨車に乗り込んだな。もう滑走路もあって無いようなもんだ。直ちに離陸する」

 

戸尾大尉はフラップを開き気味に、スロットルを押し込んだ。機外の咆哮と足元を昇ってくる躍動が高まる。

 

羽田飛行場の時と比べると、地上に構造物が殆ど無い為、いまいち加速している実感が無い。後方へ消えゆく飛行場を見ておこうと首をひねったが、翅の巻き起こす風で砂塵が濛々と立っており、二番機、三番機の影が少し見えるだけで他はよく視認できなかった。

 

「高度四,〇〇〇まで上がる。ソ連の戦闘機に用心しろ」

 

 満洲の夏空は、日本とそう変わらないように思えた。ただ、今はどちらも累累たる屍と流血が巻き起こっている。

 

上昇していく中で、遠い爆音に振り返ると緑の絨毯の中に切り取られた明るい飛行場の砂色、そのまた中に黒い点が見えた。滑走路と機材を爆破処理したように見える。敵から遠ざかるとはいえ、彼らにも辛い道程になるだろう。

 

手近な機体を除き、交信する相手もいないので無線も航法もほとんどやる事が無い。全員が風防に張り付き、地上の戦車隊、上空の敵機を警戒していた。ある程度の高度を取ると機体の姿勢にも落ち着きが見られはじめたが、その中でも藤花は定められた配置が無いものだから、ばつの悪そうな顔で操縦席横の通路に立ち、警戒に加わったり操縦席にぶら下がっている御守り袋をぼんやりと眺めたりしている。

 

「大尉どの!十時方向に煙が見えます!」

 

 突然機首から怒鳴り声が響いた。

 

   *

 

 

 

 爆撃手の声に、機長、藤花、そして後方の無線手が窓に取りつくのと爆撃機の行く手にアイスキャンデーめいた曳光弾のうねった尾が走ったのはほぼ同時だった。

 

「視認と同時に自己紹介とは気合が入った敵さんだな!」

 

「しかしこれでは命中弾は望めません……」

 

 爆撃手が振り返って小さく首を振った時、今度は後方からの歓声。

 

「屠龍隊だ、屠龍隊が行くぞ!」

 

 爆撃機編隊のはるか下方、薄い雲をついて双発機が二機、地上の砂埃を立てて進む敵戦車隊へ突き進んでいた。重戦闘機兼襲撃機、胴体下には二百五十キロ爆弾を懸架している。

 

「今だ。爆撃進路に入る。急降下でやるぞ!」

 

「はッ」

 

 三機の軽爆は翼をゆすって大気を滑り、二千五百メートルほどを一気に駆け降りた。藤花の頬がカッと熱くなる。敵対空砲が襲撃機の相手をしている間に、出来るだけ有利な位置につかねばならない。

 

 ハ一一五発動機の唸りが高まる。

 

 眼下では屠龍の二十ミリ機関砲が火を噴き、弾薬か何かを積んだ敵の貨車を一台、派手な花火と共に吹き飛ばしていた。もう一機は三十七ミリを使用、航空機ではあまり耳にしない戦車砲の発砲音が対空砲を積んだ貨車を横転させる。

 

「敵が散開しきる前にやる。全機我に続け、突入角さん……いや、四十五度!」

 

 一番機が、まずひときわ大きく主翼を翻し、大地に這いつくばる敵戦車の群れに狙いを定めた。襲撃機の活躍で、敵の砲火はやや収まっている。それでも何かが機体で跳ねるのは、小銃から何まで無茶苦茶に撃ちかけてきている証拠だろう。

 

翼下に急降下制動板を展開し、軽爆三機はがっちりと編隊を組んだまま曲芸の手本のように見事な挙動で最終的な突入態勢を取った。これほどの人物たちが喪われていったことに、藤花は命が惜しいと思わざるを得なかった。

 

「爆撃用意」

 

 眼前には満洲の大地、そして粒のような敵戦車の群れ。無線で遣り取りを行っていなかったが、長年の経験からそれぞれがどのあたりに落とすかは心得ているのだろう。艶の少ない濃緑で塗装された機体が、ヌラリと陽光の反射を変化させつつ最後の微調整を行っている。爆弾倉の戸は既に開き切り、詰め込まれた黒々とした爆弾は投下されるのを待っていた。

 

「てッ」

 

 戸尾大尉の号令一下、全機は一斉に中身を敵の頭上へとぶちまけた。一直線だった挙動が、徐々に頭を上げ始める。爆弾が無くなったことにより、機体が軽くなったのだ。完全に機首を上げ離脱を始めると、後部銃座が地上めがけて乱射を始める。これが最後とばかりに。

 

「やりました!」

 

 さしもの勇猛さを誇った戦車隊の威容も、進撃を演出する砂塵を黒煙へ変えてその被害を物語っていた。爆撃隊が投下できる爆弾はそれほど多くは無かったが、侵攻後さしたる抵抗も無かった敵にとっては手痛い洗礼となったはずだ。

 

 だが爆撃隊の歓喜もそう長くは続かなかった。直後の機銃手の叫びが機内の空気を、皆の肩を震わせる。

 

「後上方、敵機!」

 

 言い切るが早いか、立て続けの発砲音とほぼ同時に後続の一機が右の翼の半分ほどを吹き飛ばされ、機体は均衡を失って横滑りに編隊から脱落していった。

 

 横を追い越していくシルエットには、見まごうことのない赤い星。

 

「ウォアホークか」

 

「いや、ラボーチキンや、あいつ二十ミリ積んどるで!」

 

 鰹節めいた曲線に縁どられた胴体めがけて機銃が咳き込むが、敵機は足の遅い爆撃機は後回しとばかりに屠龍隊へ突っ込んでいった。さしもの襲撃機も、身軽な単発戦闘機相手は不利だ。たちまち殿を務めていた一機が発動機から炎を吐きつつ退避に移り始めていた。

 

「ウチらもこのままじゃ危ない、早く離脱を……」

 

「何言ってるんだ。姉ちゃんを言われたところに降ろすまで任務は終らないんだよ」

 

「そんなこと言うてる場合……」

 

 藤花の叫びははっきりと聞き取れる爆発音で遮られた。残り一機の屠龍は燃料に引火したのか空中で撃破され、早くも敵機は多数の破片をかいくぐりつつ再びこちらへ機首を巡らせ始めている。残る友軍機は藤花が登場している一番機と、横についている二番機だけだ。空もまた敵の跳梁下にあった。

 

 左右に分かれ、それぞれ離脱を試みる。

 

「呑村、もういい、貴様は日本へ向かって飛べ!」

 

 しかし、二番機は変わらず翼をゆすり、敵機を挑発するように悠然と直線飛行を続ける。

 

「行くんだ、行け……行かんかッ」

 

 ソ連軍後方へ進入を続ける一番機を差し置き、挑戦を受けて立つように敵機が二番機に吸い込まれていく。もはや豆鉄砲でしかない七.七ミリ機銃の曳光弾が悲しい。

 

距離は大きく離れつつあったが、やがて二番機の断末魔のような爆音が操縦席の風防ガラスを震わせた。

 

「馬鹿だ」

 

 戸尾大尉は、友軍機のいた方向を見ようともしなかった。

 

「敵も味方も、皆大馬鹿だ」

 

「ウチはもう飛び降りるから、早く離脱して!」

 

 藤花は落下傘の縛帯を確認し、機体後方へと移った。

 

「お前も馬鹿だ。いま降りたって敵の進行経路の真上だぞ。戦車の鼻先に落ちたら要塞へはたどり着けないぞ」

 

「敵機、来ます!」

 

二十ミリ機関砲が弾切れか故障を起こしたのか、残る一丁の機関銃をもったいぶって発砲してくるだけになったのが唯一の救いであった。この状況を作り出す為だけに、屠龍二機の四人、軽爆二機の八人の命が散った。情報員失格の烙印を押されてもいい、戦争を通じて藤花の心はその重圧に耐えかねている。

 

「そうは言ってもあと数分だ。いつでも飛び出せるように戸はもう開けとけ。ヨンハチ(九九式軽爆)の板なんざ機銃相手にはブリキだ」

 

 一番若いであろう機銃手が赤くなった目をこすり、昇降口を力いっぱい開いた。外の轟音と気流が容赦なく機内へ飛び込んでくる。

 

「……すみません、なんてお礼を言えばいいか」

 

「いいんだ。俺もむざむざ地面で死ぬより、こうしたかった」

 

「大尉どの!敵機が発砲を止めました」

 

機関銃もついに弾が尽きたのか、射撃位置につけても撃ってこない。旋回機銃が反撃を止めて様子をうかがっていると、徐々に近づいてきた。やがて顔がはっきりと視認できる位置にまで近づいてきた。相手もじっとこちらを見ている。日本軍の物より角ばった飛行眼鏡と、革の上衣が特徴的だ。やがて彼は前方を指差し、親指だけ立てた手を下へ向けた。

 

「ついて来いと言ってるな」

 

「余裕があるところを見ると、たぶん僚機を呼んであるんやろうね……」

 

 爆撃に慌てて要請された支援機だろうから、こちらを軍使か何かとは思っていまい。着陸したところで、無事では済まないだろう。良くてシベリア送り、悪ければ略式法廷を経て、いや、そんなものもなく銃殺されるだろう。

 

「みんな済まない」

 

「大尉どの、言わんで下さい」

 

 藤花の横で爆撃手が軽く笑って首を振った。

 

「御客さんを無事降ろせれば、こちらの勝ちです」

 

「そうは言ってもな、若いやつには悪い事をした」

 

「やっぱり、後ろの子は若いん?」

 

 戸尾大尉は頷き、やっぱり閉めよう、寒くてかなわんと言って戸を閉めさせ、飛行中にも関わらず煙草を取り出した。

 

「女も知らんだろうな。成人前の子供みたいなやつまで借り出して、自決用とかいって千枚通しを持たせて飛行機乗せたんだ。ひどい国だよ」

 

 藤花が言葉を失っている間、大尉は皆に煙草を配った。外で何か聞こえたような気がするが、こちらの事情を知らないソ連兵には挑発しているようにしか見えなかったのだろう。いや、もしかしたらこちらの腹積もりが分かって、死ぬなと叫んだのかもしれなかった。

 

 しかし、全員分の覚悟が行き渡ると、大尉は操縦席へ戻った。

 

 その時に備え、藤花が機体後部へ這入りこむと、いちばん若いという一人が機銃に片手をかけ、敵機に向け目を見開いていた。

 

「あんた……」

 

「は、はい」

 

 

 

 

 

   *

 

 

 

「オチャコヴォ〇七、こちらセヴェルヌィポリュス。サムライは未だ飛行中か」

 

「セヴェルヌィポリュスへ、敵機は襲撃後、依然北進中。引き続き支援を求む。我残弾なし」

 

「セヴェルヌィポリュス了解。オチャコヴォ〇八が急行中。引き続き追撃せよ」

 

「オチャコヴォ〇七、了解」

 

 

 

   *

 

 

 

迫りくる危険の中で、藤花は降下前の最後の準備を終えた。手伝ってくれた若い空中勤務者と並んで腰を下ろしていた。九九式軽爆の胴体は途中から細く絞り込まれ、御世辞にも広いとは言えない構造である。肩を寄せ合うといった表現が似つかわしい。

 

 若いという彼が、年頃の女性と肩の触れる距離で平静を保っているものの、残された時間の短さ、また彼の若さそのものを思うと……

 

「なあ」

 

「はい!」

 

「あんた、いちばん若いんやって?」

 

「はい……」

 

「死んだらあかんで……って言おうと思ったけど、飛行機やしなあ」

 

「いいんです!悔いは、ありません」

 

 藤花は、小さくため息をついた。

 

「足が震えてるで」

 

「……すみません」

 

「謝る事なんかないで。ウチかて戦が終わってんのに小細工しに行くねんから」

 

 もう膝がガクガクいうて、と自嘲する。その時、機内前方から大尉の声が響いた。

 

「そろそろ戸を開けておいてくれ。敵さんに応援が来た」

 

「ほな、な」

 

「ご、御武運を」

 

「もう軍国主義式はええって。最後くらい、母ちゃんでも好きな娘でもええから、心ん中であいさつしときな。あの大尉はんの腕なら、もしかしたら生きて帰してくれるかもしれへんし」

 

「は、はい……」

 

若すぎる軍人の目に、涙。

 

「姉さんよ!そろそろ敵の第一線部隊を飛び越すはずだ!ここまで無事に来られただけでも奇跡みたいなもんだ!降りてからも、くれぐれも用心してくれよ!」

 

「おおきに!……おおきに」

 

 機首と、傍ら、機内の全員に頭を下げた後、涙をぬぐう若人を胸へ抱き寄せた。

 

「ちょ、ちょっと!」

 

「今は、これが精いっぱい……」

 

 藤花は、うんうんと渋い顔をして自分の言に頷く。

 

 振り返って苦笑する大尉ににっこり笑った後。

 

「ほな、御先に!」

 

 日本陸軍の空挺降下の操典を完璧に無視した頭からの飛び込みを狭い戸からやってのけ、彼女の姿は機外へと消えていった。

 

 後に残されたのは、ぽかんとした表情で固まる少年と、苦笑する大尉たちであった。

 

「おい!大丈夫か」

 

「……………………は、はい!」

 

 飛び上がって風防で頭を打つ様に、思わず全員分の笑いが爆発した。

 

「分かりやすいなあ、お前。でもよかったな、最後に思い出が出来て」

 

「でも、自分は、もう少しああやっていたかったのであります」

 

「自分だけ御願いされちゃって、よく言うぜ」

 

「よし、じゃあ、皆」

 

「はい」

 

「帰るか!」

 

「……はッ!?」

 

 大尉がひねくれた様子の笑みで振り返った。

 

「もっとしたいんだろう」

 

「はい」

 

「だったら、生きて帰らなきゃな。重いから無線も照準器も全部捨てちまえ。機銃は……怖いからまだ積んでおくか」

 

 大尉は飛行眼鏡をかけ直した。窓の外では僚機の到着を確認した敵機が急速に距離を置きつつあった。おそらく、駆け付けた一機が撃ちかけてくるのだろう。

 

 ハ一一五発動機が咆えた。

 

「一キロでも日本の近くへ!」

 

 中空を落ち続ける藤花は、軽爆の変針と加速を見届けて安堵した。少なくともあの若い兵隊の魂が幾らか救われるどころか命が助かる可能性が何百倍にもなった。例えそれがどんなに低いものであっても、零であるよりはずっと良い。何故急に抱きしめようと思ったのかは今となっては彼女にも分からなかった。何かの罪滅ぼしのつもりか、それとも嗜虐心程度のものだったのかもしれない。落下傘の紐を引きつつ、藤花は、あの軽爆乗りたちだけでもなんとか生き残り、天寿を全うしてほしいと願わずにはいられなかった。

 

 彼女は、深淵の地底と神代の天空の間に横たわる荒野へ再び降り立つ。

 

 

 

   *

 

 

 

 

 

 土の下に兵士が眠る。

 

 素朴な兵士たち。

 

 地位も持たず。

 

 勲章も持たないで。

 

 

 

   *

 

 

 

 軽爆の影が丘陵の向こうへ消えていった久しい。しばらく立ち込めていた一筋の黒い煙も、霧散して何事も無かったかのように青空へと戻っている。珍しく更なる敵機の姿を見る事も無く、藤花は静かな大地へ降り立った。

 

「わ、わ」

 

 始めは小さな違いだった。しかし、時間が推移するにつれてその差は次第に大きくなる。誤る値によっては、とんでもない結果を招く事になるだろう。しかし、藤花を責めることはできまい。

 

遠くに見えていたはずの森へ、風に流され突っ込んでしまった。傘は高枝にひっかかり、掻き裂けだらけになった。索は流石に頑丈なおかげで木の高さからの墜落は避けられたが、体中に絡みつき、宙吊りにされている。

 

「もー!」

 

万一首に絡みついたりしていたら目も当てられない屍となって朽ちる羽目になっていただろうが、幸い何本も垂れ下がる索は藤花の腕や足、太腿に回り込む形でがっちりと張られており、調度椅子に腰かけたような姿勢になっている。楽なように見えるが、指先が痺れてきたのでいずれにしても早い所脱出しなければいけない。

 

しかし、動こうにも索が二の腕や太腿に食い込んで思うようにもがくこともできない。

 

「だ、誰か……!」

 

 呼んでみるが当然誰も答えない。

 

「いや、誰かおったら困るやろ」

 

 自分で自分につっこみ、この話は御流れとなった。膝下にかかった索に体重を預けると上半身が動かしやすくなることに気付いたので、なんとか腕に絡まる索を外し、腰から小刀を取り出すことに成功した。下までの高さを計算し、一本ずつ索を切ってある程度の自由を取り戻すと、主傘を切り離して飛び降りた。

 

「はやッ」

 

 自分とは別に武器と装備を入れた鞄を吊下げていたことを忘れていた。自分の体重で飛び降りた場合の計算をしていたので、想像以上の衝撃が彼女を襲う。

 

「痛い……もう嫌や……」

 

 鈍い痛みが走る関節をいたわりつつ立ち上がり、装備を開く。ぱっと見は現地人にも避難民にも見えるような服に着替え、いきなり発砲される危険性は極力下げた。外被と傘は穴を掘って埋め、不要不急な装備は背嚢へ戻して背負う。水筒は軍用だが、これは民間も似たようなものなので常用していたものをそのまま身に着けた。

 

危険地帯であることは百も承知だが、大型の武器を持っていてはせっかくの変装が無に帰してしまう。心細さを覚えながらも水筒を拾い上げた。

 

「あれ」

 

 自分の水筒はもう身に着けている。しかも、手にした同じ形のものは軽く、中身は殆ど入っていない。予備なんて洒落たものを入れる余裕は無かった。では、これは誰の物だろうか。負い紐から本体を持ち替え、表を見てみると紐の一部に白い布を巻いて苗字らしき漢字が記されていた。

 

藤花のものではない。そう認識した瞬間、拾った水筒はそっと地面へ戻し、しゃがみ込んで周囲の様子をうかがった。

 

あちこちに装備が散乱していた。

 

少し離れた地面に弾薬盒が落ちている。脇の草から突き出ているのは歩兵銃だ。

 

「何やの、これ」

 

 戸惑っている時間はなかった。急いでいるというよりも、本当は彼女は答えを知っていた。草むらに横たわる歩兵銃、その横に靴が落ちており、保護色で見えづらいものの巻脚絆が伸びている、つまり、履いている足が見えているという事に。兵隊靴ではない。つまり、これらの装備の持ち主は軍人ではなかった。

 

 また歩き出し、足へと近づく。体も全て見えていた。一目で見て小柄であるとわかるその体躯に、肌の雰囲気から言って、明らかな子供であった。関東軍の将校ははるか後方で家族や財産まだ全て抱えて列車に乗っていたが、本土で言えば国民学校を出たばかりの身が何故こんなところで冷たく横たわっているのか。

 

彼女は見てしまった。暴力の行き着く先を。政治が、近代科学が手を貸した場合それがどうなるか、そして自分が今までそれへ手を貸してきたという事実を。

 

前線へ身を置くようになって以来、情報員としての彼女の思考に変化が表れ始めていたのは自覚していた。人命の損失とその背景にある人生や記録といったものが破壊される様への嫌悪感、それは厭戦といって差支えないのだろう。情報員としての性で、それは覆い隠されてきたが。

 

「………………」

 

 ふと、足元の歩兵銃を手にした。感情の激流に任せて要塞まで乱射しながら走ろうか。どうせこの任務だって、死ぬために、存在を消すために命じられたようなものだ。死にに来た人間を送り届ける為に何人もの命を散らす。矛盾である。何人かの命が救われると言えばいくらか救いになる人間もいるだろうが、生きて帰れる人間を道連れにするなど。

 

「どうして……」

 

 突然足元の死体が喋った。

 

 文字にならない叫びをあげ、背中を鞭で打たれたかのように走り出す。方角なんて分かっていない。

 

 何かに躓いた。

 

 今度は女性だった。背中におぶった赤子を貫いて銃弾を受けていた。

 

「どうして……」

 

 まただ。

 

 半狂乱になり女性の死体を蹴飛ばすようにしてもがき、地面を転がり、なんとか立ち上がってまた走り出す。

 

 兵隊。

 

 中国人。

 

 男。

 

 女。

 

 次第に性別程度しか区別しなくなってきた。死屍累々、そのどれもが。

 

「どうして……」

 

 どうして、何だ。しかし耳を傾けても、それ以降は聞こえなかった。

 

 藤花がそれに気づいた頃には、涙が頬をつたい、止め処なくあふれ始めた。

 

 そして視界は暗転する。




幻想入りまでを一気に駆け抜けました。

次回から東方っぽさが出てくる……はずです!



2021/9/15
幻想入りまでの戦中パートを細かく分割しました

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