森を抜けようとして、彼女はまだ走っている。
任務に嫌気がさしたか、戦争が嫌になったか、死体を見たくないか、それすら難しい事に感じられる藤花にとって、目下の願望は、「早くこの場所から逃げ出したい」であった。
如何なる状況にあっても口元をニヤリと曲げて勝手な捨て台詞の一つでも投げつけられる性根を買われ、情報員に引き抜かれたはずだ。しかし状況が、戦争が、大国が一個の人間に対してあまりにも強力過ぎた。そして、彼女は刃先での舞踏にどっぷりと浸かりすぎたのかもしれない。
「待って……」
不安定な地形に揺さぶられる口元から、言葉が漏れ出でる。一時の半狂乱状態から、落ち着きつつあった。
「待って」
ようやく思考が周囲の環境に適応し始めた。と言っても、次の言葉で、正しく混乱できるようになったというべきか。
「この森、何……?」
無理に足を止め、瞬間的に荒くなる呼吸に肩を上下させながら、藤花は周囲を見渡した。まず気づいたのは、木の肌である。北満の戦線を更に国境へ向かって進んでいたのだから、木々も白い肌の目立つ木立になっていたはずだ。しかし、どちらを見渡しても、見覚えのある日本の山林の植生にしか見えない。
有り得ない事が起こっている、そう認識した。もしかして発狂したのか、幻覚とはかくも現実味に溢れたものだったなんて知らなかった。木の幹に手を触れてみる。形の通りに感触があり、殴りつけてみるとしっかり痛い。意識もしっかりして、いるはずだ。しかし何だこの浮遊感は。まさかと思うがこの極彩色の茸のせいだろうか。
その時、幹に触れている手から腕に向かって小さな大名行列が左右に揺れながら歩いてきた。
「ギャッ」
足を滑らせ、派手に転倒する。胸に衝撃が走り、奇妙な咳が出る。目の前には極彩色の不気味な菌類が、大小の傘を広げて無秩序な群体を形成していた。日光が殆ど差し込んでいない陰鬱とした光景の中なのに、何やら陽炎めいた陰影が中空に踊っているように見える。
「ガス!?」
反射的に動作を取ってしまうのは悲しき性であったが、生命の危機が迫る状況下にあっては有利に働いた。脇の雑嚢を弄り、底が抜けんばかりに突っ込まれた手があれやこれやをまさぐり、小さな紙箱を掴んで出てくる。乱暴に蓋を取ると、茶色い液体の詰まったアンプルを取り出し、やする時間ももどかしく首をへし折りトロリとした中身を、舌を突き出して一気に喉奥へ流し込む。
「ぐうッ……」
きつい匂いが喉を締め付け、鼻腔を奥から刺激する。四つん這いになり荒い息を整えようとするが、手足が震えだし、目も焦点が定まっていない。
「ふ、船に……」
最早、彼女の目に、脳裏に何が浮かんでいるのか外観からは推察できなくなった。手足だけをばたつかせながら進むこともままならず、木の根に足を取られて気胸患者めいた不気味な呼吸音を立てながら斜面を転がり落ちていった。
*
ピンクの象が舞い踊り、大名行列が曳火手榴弾の旗印の下に肉の華の縁を突き進むところ、万華鏡に目鼻が付き貧乏神は戦慄する。肉食植物に捉われた藤花はファルタの翅をもがれた哀れな蝶々めいて助けを求めていた。
「帰りたい!乗せて!あれに……」
救い主の姿は分かっていた、が、肝心の名前が出てこない。精神病めいた幻覚の中で既知の事物があらぬ組み合わせでシルビウス裂を舐め回し、鼓膜の裏を突き、瞼にのしかかってきた。
「しゅらしゅしゅしゅ!しゅらしゅしゅしゅ!」
「気が付いたかい」
「えっ」
突然、頭蓋骨に反響した声に、だんだら模様の世界が暗転し、赤くなり、白い光に満ちてくるのを感じた。それが覚醒だと実感したのは、先程までの狂騒も同時に冷め、冷静になりつつあるからだろう。
「随分と良い装備で森に挑戦したようだけど、一歩足りなかったようだね」
「ここは……そういえば、ウチ、解毒剤を……」
「君が持っていたアンプルの事かい。ジメルカプロール系じゃ、使い道は限られているよ。あの手の薬に対して、森の瘴気は多彩すぎるよ」
「ていうか、あ、あんた誰や……」
藤花がからくり人形のようにかくかくとぎこちない動きで身を起こそうとする。まだ四肢に動かしづらさが残っているが、なんとか動ける。その様子を見て、青年は意外そうな顔をしていた。瘴気とは何の事だろうか。
「たまたま薬を持ってきていたからよかったものの、一歩間違えれば……というのは聞きなれているか。何にしても、マリサに感謝した方がいい」
「どうしてワシリーサが…?」
頓珍漢な名前の人物にいぶかしげな顔をする藤花に対して、僕や魔理沙の事を知らないかい、と問うてきた。首を横に振る。
「そうなのか、まあいい。僕の事は霖之助でいいよ、森近霖之助。……妙に会話がかみ合わないと思ったら、そうか。君はもしかして、里から森へ入ろうとしたわけじゃないんだ」
「里って何の事よ……」
相手をどう呼ぶかも定まったところで、ようやく藤花にも周囲を見渡す余裕が生まれてきた。雑然とした古物商、それが第一印象だ。
と、藤花は森で七転八倒の苦しみを味わうまでの顛末を思い出し、慌てて霖之助の方へ振り返った。
「そや、霖之助はんとか言うたっけ。珍しい服装やけど、漢民族でも満州族でもなさげやね……日本語うまいけど、あんたも早いとこ逃げた方がええよ。赤軍がもう…」
霖之助と名乗った男の眉が、眼鏡の奥で困ったように下がる。
「君が言わんとしてるセキグンがどれかは知らないけど、そういった軍勢はここらにいないんだ」
「そんなわけないやろ、現にウチは数時間前に交戦してきたところやで……」
「ここは、君の認識していた世界、時間とは別のところなんだよ」
「何やて……」
*
次の瞬間の藤花の発言は、思いのほか冷たい声だった。
「今一つ、仰ってる意味が分らへんなあ」
眼鏡の奥、霖之助の目がまた瞬いた。小さく息をついて、横たわる藤花の傍らから、定位置の椅子へと移る。藤花が押し黙ってしまった店内は、板張りの床が嫌に大きく鳴った。
先刻、彼女は赤軍と口にした。少なくとも、西暦で言う一九一八年以後の世界から来たとみて間違いないだろうと霖之助は判断していた。戦争中の人間となると、尋問と思い口を堅くしてしまうかもしれない。彼の思考は、一旦説明を取りやめる事に帰結した。
立ち上がり、この時期はスツールか何かと化しているストーブを回り込みつつ、混沌とした店内でもとりわけて雑に扱われていそうな本の山から一冊を手に取り、藤花へ手渡した。彼女が怪訝な表情で矯めつ眇めつするのを見ながら、戸口を親指で示す。
「必要以上に拘束するのは本意ではないし、君には実際に見てもらうのが一番だろう。ああ、瘴気の事は身を以て経験しているだろうから、間違っても森へ行こうとは思わない方がいい。」
「……?」
「本は餞別だよ。何かあればまた来てもらって構わないよ」
藤花はよろよろと立ちあがり、商品に躓きそうになりながら弾も抜かずに立てかけられているジョンソン小銃を杖代わりに、荷物をまとめて無言で店を出て行った。
*
戸口をくぐった途端、空気が変わるのを感じた。
礼を言う事も忘れるほどに混乱している彼女にとって、人気のない道ですら安心できない。明らかに緑深く分け行ってゆく道と、逆に木立が疎らになっていく道と、選ぶのは明らかだった。店主の言に従うまでも無く、さっきの森は何か妙だと内心藤花も理解し始めていた。
狐に鼻をつままれた気分で木陰に入り、荷物を確認する。銃の弾が抜かれていないどころか、食糧や被服にも手を付けた後は無い。流石に解毒剤は無くなっているが、これは昏倒する直前に彼女自身がぶちまけたので致し方ない。
取りも敢えず、小銃の薬室を再度確かめると、道に並行して前進を開始する。まだ陽は高い。変な経験をしたからと言って敵機の目につくところに出ていくのも愚かしい事だ。
「……にしても、静かやなあ」
店が見えなくなってしばらく経っている。あの建物を見る限り、外地に建てるには手の込んだ近代木造建築だった。日本軍、日本人を拘束しようとする手合いなら何かしら理由を付けてついてきそうなものだが、その気配もない。
とにかく、里とやらへ行って複数の人間から情報を集めれば分かる事もあるだろう。藤花は取り出しかけた煙草を仕舞い、道を急いだ。
と、急に視界が開けた。というよりも道幅が広くなった。
先程まで感じていた蒸しっぽさも気にならなくなり、また一向に人や車が姿を見せないので小銃は布で隠蔽し道へ歩み出てみる。行く手にぼんやりと、人工的な直線が見えた。おそらく家屋の屋根だろう。ところどころ煙のようなものも見えるが、焼き討ちというよりも煮炊きの煙に近い。先程の珍妙な格好の店長もそうだが、どうもこのあたりの住民に緊張感が感じられない。
「え、どないなってんのあれ」
近づくにつれ、家が、甍の波が見えてきた。里というには、また藤花の想像とはかけ離れた光景が展開される。
「……大船(おおふな)かな?」
言うまでも無く藤花は大陸戦線にいると固く信じており、そのつもりで行動してきた。しかし、目に映るのは黒々とした瓦屋根、板葺屋根の家々と、行き交う野良着や洋装、果ては見たことのない派手な染色と飾りの施された装束に身を包んだ通行人であった。背広や仮装めいた謎の服はともかく、野良着の農民などまるで日本の田舎ではないか。せめて、協和服か長袍の一人でもいれば話しかける勇気が持てたものを。
村ぐるみで日本軍を騙す程度なら八路軍が常套手段としてきたが、この街並みをたかが数人の日本人を騙すために用意したとは到底信じられない。何より、看板、漏れ聞こえてくる立ち話、屋根の組み方から梁の構造まで日本式だった。
もう歩みは止められなかった。何本道を通っても、建物は変われども雰囲気は変わらない。遠くそびえる山すら、青々とした日本のそれだ。
藤花は、今自分が踏みしめている地面すら信じられなくなる感覚を、生まれて初めて味わっていた。
もう死んでいるのでは。
ここへ来て最初の感想がそれだった。冷静に考えて一眠りしている間に日本へ戻れるわけも無く、またこんな規模でこの建物が並ぶ町があるという事が理解できない。
でなければ、帰りたいという欲望から抜け出す事の出来ない幻想へ迷い込んでしまったに違いない、と結論付けた。
餞別に貰った本。これだけ見ていれば降伏へ導く欺瞞工作と切り捨てていたかもしれないが、この町並みを見せられた後では違って見えた。
『あたらしい憲法の話』
奥付は、藤花にとって未来の日付が印刷されていた。
*
道端にひっそりと立つ、五角形の奇妙な窓が組み合わさった家屋と対峙し、頷いた。
「こんなんがあるしなあ」
日本にいた頃、見聞きし、一度は現物を目にしたことがあった。どこかの地主が酔狂で作り始め、あまりの熱中ぶりに家族が愛想を尽かして出て行った後も改装を重ねたという奇妙な建築物。結局家主が高価な電話を何の理由も無く売り払うような奇行に走り始めて以後は住む者がいなくなり、取り壊されたはずであった。
狂った自分には狂った建物がお似合いだ。
死ぬ直前に見る幻想なら、ここで飲み食いなどすれば黄泉の住人の仲間入りであろう。路地のどこかから漂ってくる小豆をすりつぶす臭いを振り切り、人気のない二笑亭の戸を開けて中へと入りこんだ。
おそらく調度品の無い状態でまるまる建っているのだろう。
「偽善ぶって世の中捨てたもんやないみたいな事を言うて回ったのがあかんかったんかな」
中庭で空を仰ぐ。
今までどんな苦境に直面しても捨て台詞ひとつで切り抜けてきたような気がしていたが、ここへきて理解を超える出来事に今まで無意識下に押し込めてきた感情が一気に噴き出してくる。堂々巡りの自己嫌悪から無気力状態となり、やがて一室で動くことが出来なくなった。
*
丸二日何も摂らずにいれば、人間食べ物の事しか考えられなくなる。この世の物ではない食品を口にすればというが、携帯口糧の類はどうなのだろう。そもそも自分と来たのだから、属性は同じではないだろうか。
飢えた藤花にそれを思案する気力などあるわけが無く、雑嚢に入っている軍粮精に飛びつく理由づけでしかなかった。震える手でひっくり返し、紙箱を破り、中身を数個まとめて口に押し込んで噛み締めた。ついでに出てきた暍病予防錠もゴム栓を引っこ抜く。薬めいた外見だが、どうせ砂糖と塩である。
噛み締めようとして愕然とした。唾液が全く出ない。甘味と塩分が飢えた体に染み渡る、はずだがそれ以上に体が疲弊していた。水筒も空となると、口内と喉を頼みの食物がただの襲撃者と化す。飲み込もうにも錠の粉末でむせてどうにも上手くいかない。気づけば戸を開け放って表に転がり出ていた。派手に誰かとぶつかる。
「み、みううえーッ」
見ず知らずの人間に水呉れと叫びながら飛びついたつもりだったが、立ちくらみはするし解けた脚絆につまづくしで世界が大きく一回転した。したたかに背中を打ちつける。星の瞬く視界の隅に手刀を構えた人影を見止め、そこで初めて、口の中のものが全て吹っ飛ばされ、打ち倒されたのだと理解した。
「ああっ」
人影がサッと構えを解いた。慌てて藤花は目をこすり、一瞬の出来事に素早く反応して見せた人物を確認する。
【おいでなすった……乳が欲しければおばさんが来る…親類に会いたくなればおじさんが来る……】
思わず、懐かしい(?)中国語が口をついて出た。元々、匪賊に潜入するときに使う文句だったが、気に入った表現だった。
殴る時どうしていたのか、買い物かごを傍らへ置き、こちらを不安げに覗き込んでいるのは、赤みがかった髪を綺麗に流し、切込みの多い支那服(藤花視点)に身を包んだ女性だったからだ。地面に仰向けに倒れたまま、藤花は涙する。
【良かった……中国やった…】
【その呼ばれ方をするの、久しぶりだけど、以前どこかで会った事が?】
ムッとした様子で支那服の女性が首をかしげた。流暢な中国語を耳にして藤花が微笑んだ。
【初めてだけど……良かった…やっぱ中国やったんや】
【噛みあわないなあ……大丈夫ですか?】
女性の手が藤花の肩を揺する。今の藤花といえば髪は乱れ、唇は乾燥し、目の下に隈を作って飛び出してきたかと思えば打ち倒されて涙し、かと思えば笑い出すのだから見るからに大丈夫ではなく、どちらかといえば近寄りたくない人間にしか見えなかったが、関わってしまった以上きちんと介抱してくれる女性の優しかったからという一点に尽きる。
良かったよかったと連呼しながら涙する藤花に手を焼いたのか、女性も流石に通行人に助けを求めた。
「すみません、誰か一緒に永遠亭に……」
「うおおおおお日本語!?」
「ええええええ日本語!?」
互いに言語が切り替わり、同じ言葉で飛び上がった。急に身を起こした藤花を避け立ち直る身のこなしは、何かしら体術の心得がある人物のそれであった。かぼちゃ帽めいた被り物が頭頂に乗っかっているが、紅軍の類にはとても見えない。
と、そこで藤花は何かを思い出した。
「お、おなか減った……」