電話を切る。
目を瞑り、ああ、と空を仰ぐ。
顔が歪むのを感じた。いっそ泣きたくなるような心と裏腹に、空は嫌になる程の青色だった。
出てしまった真実と、この気持ち。
これを踏まえて私は。
一つの答えが、また出た。
それでも、言うのだと。
…
……
扉の前に立つ。ちらりと顔を上げれば、そこはもはや見慣れた家だ。
いつもは期待と幸福に打ち震えるそれに、今日は少しだけ仄暗いものが走る。この扉を開けたくないように思えてしまう、そんなもの。
でもそれでも、その多幸感と嬉しさが勝るから。私はいつものように笑ってその扉をノックする。その笑顔はとても下手だけど、彼はそれをわかってくれる。
扉が開く音。いつものように、ちょっと困ったような人の良い笑みを浮かべる姿。
そして横には、ツンと雰囲気の厳しい少女。
少し怯んでから、いつものように。
いつものように。
「こんにちは、シュウ先生。
本日は宜しくお願いします」
「はは、そう呼ばれるのも久しぶりだな。
こちらこそよろしく。
大したおもてなしは出来ないけど」
背負った少し大きな荷物を下げながら挨拶。
今日、私はこの家に泊まる事になるのだ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
年も越し、3ヶ月程経った。
しかしそれでも中々予定が合わずに私はシュウに勉強を教えてもらう事が少なくなっていた。というより、新しい学年になってからゼロだった。
だから今回、その溜まってしまっている分も含めて、一度に教えてもらおうという話になっていた。
そうしている内に、ふとアイデアが浮かぶ。
いっそ泊まりがけで勉強会を行ってしまえば良いのではないかと。
シュウは少し渋っていたそうだけれど(一応男がいる所に女性を泊らせるのもと)、それなら私もだめなんですかというスズの一言で縦に頷いたらしい。
そうして、私、アオは今、古賀家に来ているのだけれど…
「…荷物、持ちましょうか?」
「ア…いえ、大丈夫、です」
「……」
「…」
「……?」
スズと私の間になんとも言えない、気まずい空気が流れる。二人ともの脳に浮かぶのは、あの時の会話だ。
よるべ無く、沈黙になってしまっているそれを見て、シュウが首を傾げた。
そしてまたそれを払拭するように、彼はパン、と手を叩いた。
「よし、んじゃ早速やるか!
つっても正直俺が教えられるところも無くなってきた気もするけどな」
「ア、はい。
なんならば、私が教えましょうか?
英語なら最低限は出来ると思います」
「はは、普通に嬉しいかも。だけどまずは俺が教えないと色々怒られちまう」
「…っ。それでは、私は諸々の準備とかしてしまいましょうか。兄さんとアオさんは先に部屋に行っていてください」
…
……
空が赤らみ、夕方に鐘が鳴る。
どちらも集中力も切れてしまい、互いにペンを動かすことも教えることもせずに互いにぼーっと空を眺める。ハッとそんな状態を鑑みて、二人とも座り直すも、やる気は正直湧かない。
「シュウ。部屋を漁って見てもいいですか」
その提案は本当は彼の困った顔を少し見たかっただけの他愛もないものだったのだけれど。ちょっと息抜きの為のそれだったのだけど。
「おー、いいよ。
色々目新しいんじゃないかな」
その、見られて困るようなものは何もないと言うようなその答えになんだかちょっと悔しいような、そんな気持ちになって、ムキになってしまう。
「…なら、お言葉に甘えます」
本棚を見る。色々な本や漫画がある。
部屋を改めて見てみる。よくわからないテナントや、制服が掛けてある。彼の匂いがして、落ち着く部屋だ。
ふと、タンスに手をかける。開いて中を見てみると、大柄な服が幾つかかけてある。サイズが合うものは少ないのだろう、その中には基本的に無骨であったりの簡素な服しか無かった。
それは彼の、ちょっとした自分への無関心さの現れでもあるようにも思えた。
と、そうしていると奥の奥に、何やら華美な服を見つける。触れた限り、材質も良い。
興味を持ち、それを出してみる。
するとそれは…
「あっ、それは…」
ぎくりとしたように、座ってリラックスした姿勢から急に立ちあがろうとするシュウ。
何をそこまで?と、手にしたものをしげしげと見てみる。
そこにあるのは、華美なのは間違いがない。
ただ問題は、なんというか…
華美すぎる、というか。
それはまるで絵本の中に出てくるような、お屋敷の中にいる人のような。優美でスラリとした黒色の服。執事の服。
思わず、あっと口を開けてしまうようなそんなものだった。
「あ゛…いやな、それは…」
さっきまでの様子とはまるで違う、明らかに狼狽した様子。何かまずいと思うようなものなのでしょうか。何にせよ、いたずら心がむくむくと湧いてくる。
「趣味のものですか?
私はとてもいいと思いますが」
「いや、合縁奇縁というか…
ちょっと色々あって手元にあるというか」
シュウの少しだけ顔を赤らめて目を逸らす姿は、やはりいつ見ても可愛らしい。
「……これを着て貰っても良いでしょうか?」
「なんでだよ!?」
「大丈夫です、少しだけ。
少しだけでいいですから」
「い、いやいや!
ていうか少しだけってなんだって!」
「ちょっと、騒がしいですよ二人とも。
勉強は終わったので………」
どたばたとしていた私たちの様子を見に、眉を顰めながらスズがドアを開けて入ってくる。
そして呆れたように一瞬止まった。彼女の視線は、私の手にある服に張り付くように。
「………」
彼女はこちらを見て、そして兄を見て、再びこっちを見て。
それで全てを理解したようでした。
「……うん、一回着ましょう兄さん。そうでもしないとこの場は収まらないでしょうし」
「そんなことないんじゃねえかなあ!?」
「収まらないでしょうし、ほら」
二人で目配せをする。
そこには言葉は必要無かった。
…
……
眼福でした。あ、違う違う。
ちょっと目を逸らしている間に脱線しているとは、やはりあの二人は私が見ていないといけないかもしれない。
何にせよ、今私の目の前には顔を真っ赤にしながら執事服を脱いでいる兄さんと明らかにやる気が高揚しているアオさんが居る。
「はー…まったく…なんでこんな時にも息が合ってるんだお前たちは…」
そうぼやきながら、キッチリと付けられた片眼鏡を拭きながら仕舞っていく。
「いいじゃないですか減るものでもない。
写真はむしろ増えましたが」
「減るって!なんか物じゃないなにかが俺の中で減る感じがするんだよ!」
「私は凄く似合ってると思いましたよシュウ。
あ、スズ。後でその写真ください」
「ええ、いいですよ」
「勘弁してくれ!勘弁してくれ!」
赤くなるのを通り越してほんの少し涙目にまでなっている兄を見て、流石にやりすぎたかもしれないとちょっと申し訳なくなる。
と、そんな時に。
階下から聞き慣れたメロディが聞こえてくる。
これは家の湯船が沸いた音だ。
「お、風呂沸いたみたいだな!ホラ、俺の後だと嫌かもだし、二人のどっちか先に入りな」
明らかに話題を逸らそうとしていたが、まあそれを指摘する必要も無い。素直に頷く。
「私は夕飯の準備があるのでまだ良いですよ。
アオさん、入りますか?」
「ンー…いえ、まだ大丈夫です。
後で入らせてもらいたい、です。
シュウから入ってもらっていいですよ」
「あれ、そう?
まあ確かに変な汗掻いちゃったから入りたくはあるけど…二人とも年頃だし俺の後だと」
「「いや大丈夫です」」
「ふ、二人して言うならまあ…
お言葉に甘えるよ」
そうして浴室に歩いて行く姿を見てから、私は準備をするからゆっくりしていてくださいとアオさんに言う。
彼女も彼女なりに何かしておこうと思ったみたいだけど、そういった家事関連は大抵兄がやってしまっている為、最終的には少し落ち着かなさそうにソファーに座るに収まっていた。
と、そうして幾らか時間が経った後。
「上がったし、どっちか入りたいならどうぞ」
とすとすと歩く音。
はいはい、と私が返す。
いつもの事だ。
…いつもの?
しまった。
バッと、動作も止めて兄を見る。
「ちょっ、兄さん!
いつもはその、いいですが今日は…!
「ん?あっ」
そう言われて、ようやく気付いたようだった。
さーっと、青ざめる音すら聞こえてくるような声は、聞きようによっては愉快ですらあった。
「?…
………ッ!??」
ソファーベッドに寝転んでいたアオさんがころりと立ち上がり、そしてその状態で目を見開いて、口を開け呆然としている。
一気に濁流のような情報を与えられ、思考を停止してしまった猫のようだった。
アオさんの視線の先。
下着姿の兄さんが、そこには立っている。
「い、いつもの癖で!洗濯物を畳むの面倒だからもう乾いたものがあったら着ようと思って…!ごめん、本当にごめん!」
もう今日はホント反省する!と、部屋に逃げ込んでしまった彼を見ながら、アオさんはただ呆然としていた。
「…あの、大丈夫ですか」
「…え?あ、ハイ。いつもの事…という事はアレをスズは常日頃見ているのですか?」
「!…まあ、その…」
「…」
「…そう、ですね…」
「ズルイ」
「ず、ずるいとはなんですか!
何も卑怯な真似はしてませんよ私は!」
…
……
……目を逸らすなんて、惜しい事をした。ともかく。その後私はシュウ、スズと一緒に3人で食卓を囲んだ。
そうするとあっという間に眠気が私たちを襲う。非日常が、私たちから思ったよりも元気を奪っていたようだった。
「皆で、一緒に寝ませんか」
だから、そう提案したのは、最初は寝ぼけた頭で発した、考え無しの発言からだった。
当然ながらシュウはそれを首を横に振って否定をした。でも、スズは同じ部屋でそれぞれ離しておけば良いのではないかとも言った。
シュウは、そうまで言われると否定することはなかった。仕方ない、と言うように困ったように微笑み、一つの部屋に寝床を置き始める。
結果として、今がある。
一画一画が、随分と離れた川の字。
私が真ん中で、左がシュウ。右がスズ。
両端から寝息が聞こえてくる。
私はその真ん中で、どくん、どくんと高鳴る心臓を抑えるのに精一杯で、到底眠れない。
心から湧き上がるものが、噴出する。
ああ、ああ。
この空間は、なんと素晴らしいんだろう。
甘くて熱くて、反吐が出そうだ。
その反吐すら勿体無く、反芻したいほどに心地よくて、麻薬じみた空間だ。
「起きています、か?」
もぞりと寝床の中で動く。
動き、蠢いて、その大きな身体へ近づく。
呼びかけた背中は、ううんと寝返りをうつのみで返事は無い。
そっと、その背中に寄り添う。
そのまま、背中に抱き付く。
この鼓動がきっと、彼にも通じるように。
ずるい。
スズに、何度もそう思った。
ずるい、と思ったのは、何も裸身云々の話だけではない。これが当然である距離感の全て。気の置けない仲のそれ。近親者にしか見せない笑顔、顔、落ち着いたその顔。私には絶対に向けられない顔。
ずるいと思ってしまった。
そして、これを私も欲しいと。
あの時スズを見て、身体に熱いものを感じたのは、その羨望からのもの。手に入らないものを手にしている人へ。
持っている者へのルサンチマンにも近い。
そうだ。
私の中にあるこの気持ち。
この気持ちを、ようやく言語化できる。
「起きていますよね」
そう言うと、シュウの肩がピクリと揺れた。
身体を押し付けたままに、彼の、その背を向けたままの首筋にそっと口を這わせた。
びく、と身体が揺れたのを感じた。
本当に寝ているならばそれでいい。
これは、私の独り言なのだから。
『……ねえ、シュウ。
私ようやくわかったの。
私にとっての貴方はなんなのだろうって』
『私は貴方とずーっと一緒に居たい。
貴方の心が安らぐ場所になりたいし、逆に安らげてくれる場所になってほしい。共にいるだけじゃ足りない。血も肉も分けあって、苦楽も全て分けあって。それでもまだ足りない」
『だから、ね。
それを全部満たす方法もわかったのよ』
『ねえ、シュウ。』
『菜種アオは、貴方の、家族になりたい』
愛を込めて、そう囁く。
…
……
「それでは、お世話になりました」
「…ん、あ、ああ。
こちらこそ。それじゃ、また学校で」
いつにも増してぼーっとした兄の様子を横目で見ながら、私は頭を下げるアオさんを見る。
何も変わらないように見える。見えるがしかし、いつもよりも高揚している。
「…兄さん。私、送って行きます。
物騒ですし、何かあったら困りますしね」
「……」
「兄さん」
「!あ、ああ!ごめん!頼んで良いか?」
薄く隈が出来た彼の顔を伺い伺い、そう許可を取る。
「ええ、わかりました。
……行きましょうか、アオさん」
「…ハイ」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
二人で道を歩く。
どちらも、無言。
示し合わせた訳でも当然無く、そしてまた心地の良い沈黙というわけでもない。
じりじりと、互いに追い詰められて行くような、針の筵のような沈黙。
「……スズも、起きていたでしょう。きっと」
先に、沈黙を破ったのは、アオさんだった。
そしてまた、その発言は彼女が最早撤回をするつもりも、戻るつもりもない事の証座だった。
ギリ、と唇を噛んだ。怒りもあった。だがそれよりも、辛さが大きかった。
「はい。昨夜、私は起きていました。
正確には起きてしまったのですが」
「……なら」
「はい。聞いていましたよ。
あの様子なら、多分兄さんもですね」
再び、沈黙。
「…………あの時。
言えなかった事を言いましょう」
「ッ!」
『言わねばならない事』を言おうとしている私よりも、アオさんの方がひどい顔をしていた。互いに、木乃伊じみた顔色をしていたんじゃないだろうか。血の気の引いた、そんな悪い色。
そうだ。彼女もわかっているのだ。
この一言が、訣別の証になる。決別と、二度と戻らない地平線になってしまう。
「……あの日、私は言いました。
兄のあの傷を付けたのは誰なのか。
それに対して、『知らない』と」
「……やめて、やめて、スズ」
怖い。
怖くてたまらない。
これを言ってしまえば、二度と日々は戻ってこない。心臓が早鐘を打つ。息が揺れ、思考が纏まらない。身体中が小刻みに震える。
「あれは、嘘です。すみませんでした。
私は知っています。誰よりも、彼自身よりも名刻に、はっきりと」
「やめてッ!」
泣き出すような金切声をあげるアオさん。
ああ、珍しい。
彼女がこんなにも感情を露わにするとは。
ああ。
それでも。
言う。言わねば。
「─兄さんにあの傷を付けたのは、私です」
「だから私は、その責任を取るんです。
ずっと。永遠に」
ああ、言ってしまった。
もう、戻れない。二度と、戻らない。
「だから、さよなら」
さよなら。
たった四文字に込められた気持ちは、一千字の文章であっても語り切れないような複雑な感情に満ちていた。
さよなら。これまでの日々。
さよなら。アオさんとの笑い合う仲。
さよなら。貴女の優しさとも。
彼女はきっと、答えを知っていたのだろう。
だがそれでも、私からそうではないと否定して欲しかったのだろう。
彼女は、私のことを好いてくれていたのは本当に伝わってきた。だからこそ、嫌いになんてなりたくないと。
だから、さよなら、愛を込めて。
貴女との日々。
これまでの仲。
本当に、大切にしたかった。
私だって、アオさんが本当に好きだった。貴女と話している時も、関わっている時も楽しかったし、心から笑えていたんだ。
それは、本当だ。
アオさんの顔を伺う。
彼女らしくもない。泣くように、嫌悪するような、悔やむような、酷い顔をしていた。
なんで、なんで、と。そう言いたげなように。
「……それで、いいんですねッ……!」
ああ、いい。
それでいい。私は。
力無く頷くと、アオさんは背を向けて走り去って行った。
路面に数滴の水が垂れた跡が残った。
ああそうだ。確かに大切にしたかった。
この手から離したくなんてなかった。
でもそれでも、それよりも、もっと。
(……巫山戯るな)
(兄さんの家族は、私だけでいい)
…彼に対するこの気持ちは。
それよりも優先される物だっただけだ。