彼の周りは少し愛が重い   作:澱粉麺

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アオザメシハ(菜種アオ)

 

 

 

菜種アオは、知らない。

身体に満ち溢れる、この喜びの正体を。

 

 

菜種アオは、知らない。

この想いは、普遍的なものであること。

 

 

菜種アオは、知らない。

この想いを伝える方法も、この不安も。その全てを解消する術を、何一つ。

 

 

知らない全てを、それでも受け入れようとするのは諦観でも無ければ、人形じみた無関心からでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

どく、どくと心臓の音が鼓膜にまで反響してうるさくて落ち着かないで、必死に深呼吸をしても、いっそその酸素ががんがんと響いてうるさいくらいにも感じる。

 

当然、それは気のせいで神経過敏になっているだけ。人間の身体は酸素をそんな風に感じるようには出来ていない。

 

そんな事をわかっているからこそ、自分の緊張がまじまじと自覚できるようで、それを自認して更に緊張をする。

 

そしてそうしながら、嬉しくなる。

緊張を抱く自分自身。貴方に向かって、そんな緊張を抱くことができる事。

それは、きっと逆説的に、ワタシが貴方を、そんなにも大切に思えているということの証明になっているようで。

 

 

『そろそろ着くよ』

 

 

びくり、と携帯に届いたメッセージの音に全身を使って反応する。

この姿を、人形みたいだと評した人が見たらどう思うだろう。驚くだろうか、呆れるか。

 

今、誰かが私を見れば平常を保てていないとすぐにわかるだろうか。それくらい、冷静を失っているだろうか。それが顔に出てしまってるだろうか。

 

人形みたいなんて言われたこんな私が、そうなれることが一番、嬉しかった。

 

 

インターホンの、音。

彼が来た音。

彼が来る、といういつもあるそれが、今この時においては、とてもとても、平静を失わせて。

 

 

「どうも、あがっていいか?」

 

 

「!は、ハイ。どうぞ、お願いします」

 

 

 

貴方のその顔を見て、逸さずにはいられなくって。気恥ずかしくて、胸がときめいて、ダメになってしまわないように。

今度は、ちゃんと。

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

…俺は、今アオの家に来ている。

既視感のあるような状態だけれど、それもそのはず。以前の失礼を詫びるという題目でもう一度改めてお誘いを受けたのだ。

 

少し、身体が硬くなっているようなアオの態度に少しだけ笑いそうになりながら、俺は彼女の家の中、そして部屋の中に招待された。

 

前の時と同じように、殺風景な部屋。

でも前よりも、物が増えたようなそんな気もする。そんな、どこか危ういような彼女が普通になっていること、それに少し安心していた。

 

 

がちゃり、錠が閉まる音。

今通った扉の鍵が閉められる音だった。

当然にそれを閉めたのは俺では無く。

 

 

「…あれ、ここの部屋鍵ついてたっけ?」

 

 

「つけました」

 

 

「つけたのか」

 

 

「ハイ、ちゃんとつけました」

 

 

 

なんだか間抜けな会話になってしまった事を妙に気恥ずかしく思いながら、またアオに話しかけようとする。

なんと、話しかけようとしたんだろうか。

それはもう、思い出せない。ただ思い出すことが必要な大切なことでもなかったんだろう。

 

 

そっと抱き付いてきた彼女の感触に、言いたかったことの全てを忘れてしまった。

ただいつもの距離の近さや接触でも無い。それは、いつもよりずっと、どくどくと、湿り気のある抱擁だった。

 

 

「…ア、オ…」

 

 

その抱擁を、壊さないようにそっと抱き返す。

彼女は潤んだ視線のそのままに彼女の寝台に俺を促した。ただそのままに、俺は座りに行ってしまった。

 

 

わかっていないわけではなかった。

交際を始めた男女が、二人きりになりたいと言うことの意味。それは心の底ではわかっていたし、きっとどこかで期待も少ししていたのだと思う。自分自身の、そんな浅ましさに、かあと赤くなるようだった。

 

それでも、それを断らなかったのは。

断る理由が、無かったから?

違う。ただ、自分がそうしたいと思ったからだ。

なんてことはない、ただ、ただ求めたから。

 

 

息が荒くなる。ばくばくと臓器が脈打つ音がする。緊張が身体に伝わって震えになりながら、唇が近寄っていく。

二つの影が何回か重なって、その度にまた離れ、重なった。少しねとりとした水の音と苦しげな息遣いだけ、施錠された部屋に響く。二人の両手、四本の腕が互いに触って撫でて。

 

 

 

「アオ…いけない…」

 

 

それでも、君のその服がはだけて、寝台にぐったりと倒れた姿を見てそんな言葉を言ったのは、保身だったと思う。

自分を加害者にしたくないという保身。

君に襲い掛かる、野獣になりたくはない。

だから、君の許可があればいい。

君が、そうしてもいいと言うなら、なんて。

 

 

 

「だめだ、こんなことをしちゃ、いけない

君はもっと、自分を大切に扱うべきだ──」

 

 

「ア…はっ、はっ…

くす、今更、変な事を言うのですね。ずるい人」

 

 

 

矛盾した自己弁護の言動を咎めるように、唇の封がされた。

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

 

私は今でも思い出す。

あれ以上に恐怖を覚えた時は無い、あの日。

 

雪が降り積もった、冬の日の事。

 

先に帰っていてくれと言われ、用事があるのだと言っていた雪の放課後のこと。まだいるかな、とそんな軽い気持ちで行った先。もしよければ、横で手伝おうなんて思っていた先。

 

そこで私は、貴方が血を流している姿を見た。どろりと赤黒い血を流して、妙な方向に曲がった手足。半分だけ開きかけた目。

息が止まった。

思考が止まりかけて、止まってはいけないと自分を必死に奮い立たせて、なんとか処置と救急への連絡をして。

 

ぼろぼろと泣きながら、止まらない血を止めて。

冷たくなった貴方を前に神に祈りながら震えて。

 

 

そのおかげか、なんとも無かったシュウ。本当によかった。でも、恐ろしいのはそれからの事で。

ほんの少し、私が行くのが遅れていたならどうなってしまったのだろうか。そんな最悪を今でも考えて、魘されるほど。

 

その時の、ああ。さあと青褪める気持ちの、なんと言おうか。到底例えることは出来ない。

それは、それでもなんとか喩えるならば、たった一人だけ孤立したような、置いていかれたような、置いていってしまったような。

 

 

私はあの時に青ざめた記憶をいまだに忘れられない。

あの時に初めて思った、そんな事。

『いつかあなたが私の前から消えてしまうのでは無いか』なんて、そんな不安が。

 

あなたはいつか私を置いていってしまうのではないか。そんなことを、いつも考える。

 

だから、あの時考えたこと。

私を大切にしてくれるなら。私が大切にする、貴方を、貴方自身大切にしてくれるように。私が悲しまないように、シュウがシュウを大切にしてくれるように。

 

 

 

『……ずるい、人。本当に可愛い』

 

 

追い詰められたような、お預けをくらった犬のような、そんな顔をしているシュウに、きゅんと息が詰まりそうになって、その衝動のままに彼に口付けをした。ぎゅっと手を握って、私に触らせた。

 

 

『私は、貴方がどれだけずるい人でも構わない。貴方が、自分をそう思っても構わないの。

私はアナタと一緒にいる為なら、なんだってしたい。

アナタが、私の前から去らないなら、なんでも…』

 

 

『………ううん。

これじゃ、私の方が、ずるくなってしまう。

これも、嘘じゃないけど、ただの詭弁だもの』

 

 

置いていかないでと思っていることも、そう。

アナタを私に繋ぎ止める為なら全てを差し出していいことも、そう。この人形のような美しい身体のどこをもぎ取っても、好きに使ってくれても構わない。アナタが私を好きになるならと。

 

でも、違う。

そうじゃなくて。

もっともっと単純で、強い感情。

原始的で、野蛮で、下品で、激しくて。

 

 

「……だから、お願い、です」

 

 

ただただ単純に、貴方がほしくて。

単純に、私を欲してほしくて。

ずっともっと、一つになりたくて。

だから、だから。

 

だから、お願い。

 

 

 

「…シュウ。私を、ぐちゃぐちゃにして」

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

それはきっと、子どもが少しでも考えるようなこと。

 

この世に、私の好きな人だけがいればいいのに。すきなひとのそれ以外は全部、消えてしまえばいいのに。

ずっと、好きなものだけが世界にあればいいのに。

 

 

「…ん、ごめんな、痛くないか?」

 

 

この施錠された部屋の中だけが、少女には愛しい人との二人だけの世界のようで、まるで、そんな幼稚な夢が叶ったように思えた。

充足感に満ちた二人の素肌の距離は限りなく少なく、だからこそそのまま言葉の数は少なかった。そうしている暇があるならば、その数だけ口づけを交わしたいというように。

 

ただ、一言。

可憐な、細い声だけが青年を打ち据えた。

 

 

 

「もう二度と」

 

「私を、置いていかないでくださいね?」

 

 

 

 

 

……

 

 

 

 

菜種アオは知っている。

この心にある渇望の埋め方を。

 

 

菜種アオは、知っている。

大好きな人に伝える方法も、それを逃がさない方法も。もう二度と、目の前から消えてしまわないように。あの青褪めも、ならないように。

 

これから先、次々に知っていくのだろう。

彼女自身と向き合い、彼女以外と向き合い。

 

 

ただ、少なくとも。

それでも、今において。

 

 

菜種アオは知らない。

自分の愛が、異常であることを。

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