彼の周りは少し愛が重い   作:澱粉麺

9 / 87





あの夏の日に(村時雨ひさめ)

 

 

僕は一人でまた勉強をしていた。

ここは正直、僕に合ったレベルの高校じゃない。

だから、勉強をしないとついていけないのだ。

 

 

「うーーん……」

 

 

友人の晴果や、先輩に教えて貰ってある甲斐もあり、いつも赤点は回避し、平均のスレスレ下くらいはキープしている。

 

辛くないか?と、担任の先生に聞かれた事がある。

それは嫌味や発破ではなく、単純な心配だったようだ。

でもそれには、答えた。

大丈夫です、と。

 

 

そうして僕は今、最寄りの図書館で自習をしている。学校の図書室もいいのだけれど、僕の中では勉強といえばここだと思っているのだ。

 

そうだ、僕が本格的に学び始めた時。

学ばねばならなくなった時。静かな空調の音と古い本の匂いがふと、脳の中の記憶を思い出させた。ほんの少し前の貴方にあった時の事。『あの時』、僕に会った貴方との出来事。それの一番初め。

 

それは、この図書館で起こった。

少しだけ思い出す。ほんの少し、頬が火照る。

 

 

 

ああ、そうだ。

僕は覚えています。

でも、貴方は覚えているでしょうか。

 

 

 

 

……

 

 

その出会いは、本の背で手が重なるなんて演劇のようなものではありませんでした。

 

 

夏休み。僕は蝉時雨が鳴り響く外をぼんやりと眺めながら、図書館の中で座っていました。

あまりにも惨憺たる期末テストの結果に、流石に勉学に励むべきだと思っていたからだったけれど、既に少し、集中は切れていて。ぼーっとただ中空を眺めて時間が過ぎていました。

 

基礎が成っていないと学び直そうとしたはいいけれど、何処が成っていないかは判らないまま、ただ教材にバツだけが付いていく。そしてまた、それに飽き飽きしていた。

 

 

初めては、そんな時でした。

 

いつもみたいに鈍臭く歩いていたら、勝手に躓いて、本や教材やらを落としてしまって。コロコロと、少し僕より遠くまで行ってしまったそれを拾ってくれたのが、貴方でした。

 

 

その時はありがたく思ったけど、特に思う事は無くって…

 

…いや、それは嘘だ。ごめんなさい。僕は、拾ってもらった恩も忘れて、その上背と顔の傷にすっかり怯えていたんです。

顔についた大きな傷。大きな身体。ぞっとするような腕の太さ。同じ人間に思えず、ただ怯えていました。我ながらなんて失礼な…

 

 

出来ればあまりもう逢いたくないとまで思ってしまったあの時の自分が、今や勿体無いとまで思えてしまう。でも当時の僕の想いとしては確かで。

 

 

「そこ、途中式違うよ」

 

 

だから、そう優しく言われた時は、本当にびっくりしたんです。集中している時に急に話しかけられたからっていうのもですけど、もう一度話しかけられてしまったって事に。

 

ただそれでも、離れておこうと思えなかったのは貴方のその表情のせいでした。きっと、僕はまた、貴方に怯えた顔をしてしまってたんでしょう。

貴方の顔は、それを見ての、申し訳無さそうな顔。

諦めたような、悲しいようなそんな顔。

 

 

ふとそれを見て。僕にはどうしてもそれが悪いようには見えなくて。だから、少しだけ勇気を出して、どう間違えてるか教えて貰おうとした事。それがキッカケです。

 

なんだかバツが悪そうに問題を教えてくれている姿を見ていると、何か可笑しくて。終いには、最初に抱いてた恐怖やらなんやらはすっかり消えてしまいました。

 

 

 

 

それから。

図書館に行くのが少し楽しみになりました。

 

僕が少し早めに図書館に来て、その少し後に貴方が来る。その瞬間を待つようになっていく。

 

どうやら、貴方は思っていたより僕のような子と話すのに慣れているようで、勉強を教える事も慣れていて。

 

僕の覚えはとても悪く、苦労をかけてしまう事も多かった。頭を抱えさせてしまう事も、幾つか。

ただそれでも、なんとか簡単なものくらいなら出来る様になりました。そうなると貴方は僕を見て、何故か僕よりも喜んでいて。また可笑しくて笑ってしまったのを覚えています。

 

 

 

そうして少し経ったくらいに、いつもの様に僕は来て、待っていても貴方が来なかった事がありました。

 

まあ、考えてみれば口約束もしていない間柄だったし、仕方がない事だと思って、いつもみたいに教材を開いた…けれど、何故か進みが悪い。やる気も出なかった。結局、直ぐ帰ろうと外に出た時。

 

 

ばったり。

ちょうど遭遇をしました。

 

貴方は何故か、本当に申し訳なさそうに頭を下げて謝って、約束をしたわけでも無いですし、と言ってもなんだかずっと腰が低くて。それを見て、何処かモヤついてた心がすっかり晴れてしまいました。

 

 

『そうだ。

もし今回みたいに用事が入った場合に連絡出来る様に』

 

 

僕たちはこうして、連絡先を交換する事になりました。そちらは、覚えているでしょうか?

今、思い直しても不思議な関係ですね。変と言ってもいいでしょう。この時になるまで僕、貴方の名前すら知らなかったんです。

 

 

それからまた、図書館に行って、別に約束をした訳でもないのに教えてもらう。そんな、よくわからないけれど、でも楽しい日々が流れていきます。

 

 

 

…どこを境に、かは意識していなくて。

 

それはこの日々を初めて楽しいと思ったその時からか。はたまた名前を互いに知った時なのか。あんなに煩かった蝉時雨が貴方の声で聞こえなくなった時からか。

 

それでも、確かに抱いてしまったこの想いは。

伝えなくてもいいかな、なんて思っていました。

この日々が続くなら、漫然とそれを受け入れて、それでいいと。

 

 

 

『夏休みも終わったら、ここで会う事もなくなるな』

 

 

 

そう淋しげに、貴方が言うまでは。

 

…それは、当然の事。長期の休みが終われば、それぞれにやるべき事があるし、ここに居るような時間なんて無い。でもその時はそんな事考えもしなくて。茫然と、目の前に走る文字列がやけに難しく見えて。こんなにこの数式は難しかったかな?なんて思っていました。

 

 

その日から1日、1日と過ぎていくのが出来れば止まってくれないかなんて、無意味な事を考える時が増えました。夏休みが終わらなければいいのに、なんて。まるで健全な男子生徒みたい。

 

 

 

ああ、それでもやっぱり終わりの時は来て。

『それじゃあね。』と。いつもの『またね。』じゃない別れの言葉にその身を散らすようにして、暑い外に身を乗り出したんです。

 

きっとこれを言わなければずっと後悔するから。去っていく貴方を追って、その言葉を。言わないと。今、その時に。

 

 

 

教えてくれてありがとうございました。

 

 

 

貴方は嬉しそうな顔をしたけれど、そうじゃない。僕は、それじゃない事を言いたかった。でも口がそのまま、動かなくて。

 

 

つつがなく、ただその会話は。

夏休みは、終わりました。

 

アスファルトに水滴の跡だけを残して…

 

 

 

 

ーーまだ。

 

そう、思ったのは携帯をぼーっと弄っていた時。

 

そうだ、まだ。あの人と居たい。

もう二度と会えないなんて、嫌だ。

あの人の横に、あの人の声を聞きたい。

 

 

だから、さりげなく、世間話のような風体で。聞くんだ。貴方の通う高校はどこですかと。

 

 

その高校名は聞いた事があったものでした。

僕の友達が、推薦で決めたらしい場所。

 

…僕の頭では、到底入れそうにない場所。

 

 

夏が終わったこの時節。

……まだ、絶対に間に合わない訳ではない。

覚悟を決めた。

 

 

…その出会いは、運命だなんて大層なものじゃなかったと思います。

 

 

それでも。いや、だからこそ。

また逢いに行きます。

貴方に、何とか追いついて。

 

待ってて下さいなんて言いません。

止まっていてなんて言いません。

 

ただ、もう一度会った時に。

あの夏休みの続きを。

 

 

きっと、もう一度逢いに行きます。

その時こそ、貴方の横に居られるように。

 

 

 

 

……

 

 

 

 

は、と終業時間がなる鐘の音。

記憶から戻り、現在に戻る。

急いで荷物をまとめて図書館を出た。

 

 

携帯に、連絡。

着信名は、『古賀集』先輩。

 

 

「お疲れ!明日、やろうか?」

 

 

「ええ、お願いします」

 

 

つい頬が緩みながら、そう返信した。

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。