セイウンスカイと別れて平静を装って50m離れたところで、俺は腰砕けになって木にもたれかかった。ウマ娘の嗅覚と聴覚は人間の三倍どころの話ではない。これくらい離れなければセイウンスカイに俺の様子を嗅ぎつかれる危険があった。
あの場でセイウンスカイに対して恐怖を見せるわけにはいかなかった。一般的にはウマ娘は人間より力は強いものの、温厚であると言われている。そしてGⅠに勝つようなウマ娘であればスター的存在だ。それは一つの視点から見れば正しいが、トレーナーという深くウマ娘と関わる職種からすると違うのだとエアシャカールは言った。
クラシックのGⅠで勝つようなウマ娘の本質は獰猛だ。
勝利のために周りのウマ娘をねじ伏せ、時に道を塞いだ相手をこじ開けて勝利の栄光を掴む。クラシックは更にそれが顕著だ。ジュニア期のような才能と肉体ではない、シニア期のような知性と熟練ではない。闘争心、肉体と魂の才能、積み上げてきたトレーニング、そして運がクラシックGⅠの栄光を授けるのである。
ましてセイウンスカイはワールドレコーダー、世界の頂点に一時到達したウマ娘であった。あの菊花賞での執念は誰にも負けないだろう。
ハンカチを取り出して汗を拭くが、あまり意味はない。シャツの内側は春の陽気だというのにびちゃびちゃに汗で濡れていた。エアシャカール、シンボリルドルフ、緑の悪魔と立て続けにプレッシャーを浴びてなければ漏らしていたかもしれない。
とはいえ、だからこそ。
「まだ勝ちたいと思ってるんだろうなぁ」
あれほどのプレッシャーを放てるウマ娘がレースに出たくないと思うわけがない。しかし、現実は非情だ。治る気がしない怪我、募る焦り、先に進む同期、そして俺と出会ってしまったことがなによりの原因かもしれない。新しいトレーナー、新しいウマ娘、黄金世代の終わりを実感してしまったのかもしれない。
全ては推測だ。だが、そうした責任感から、目的もなく唐突に土日にセイウンスカイを誘ってしまった。今では後悔している。あのセイウンスカイが近くにいる状況で、俺がまともに冷静な判断を下せるとは思えないからだ。
「うん。忘れよう、そう。綺麗さっぱり」
自分で口に出して、意識してセイウンスカイのことを追い出した。俺が地雷の上で勝手に踊ったが本来、こんなことで悩んでいるべきではないのである。セイウンスカイの問題は担当トレーナー、今は元となってしまったがその人がどうにかするべき問題だ。あとメイクデビュー戦まで二か月を切っているし、集中するべきは担当ウマ娘のブリッジコンプとサクラバクシンオーである。
それに他のトレーナーとの協力という根本的な問題も解決していない。あまり頼りたくなかったが、駿川たづなに電話をかけた。
「もしもし、いつもお世話になっています」
『お疲れ様です。トレーナーさん。どうされました?』
「はい。新人トレーナーとしましては現役のトレーナーの方に先達として知識を授けていただきたいところですが残念ながら俺の方では伝手がありません。同世代との情報共有という形でも構いませんので、私と同研修出身ではないトレーナーを紹介して頂けませんか?」
『なるほど。そういうことでしたらトレーナーさんの同期に名門の桐生院トレーナーさんがいらっしゃいますよ』
桐生院、俺でもその名を知る名家だ。下手なことをすれば俺のトレーナー業は終わる。既に担当以外にもセイウンスカイという爆弾を抱え込んでいる以上、更なる重しになりかねないのはナシだ。
「できれば別の方でお願いします」
『でしたら……。ルドルフさん?』
しばらく向こうでゴソゴソと音が立ってシンボリルドルフに相手が代わったのが分かった。
『急にすまない。話が聞こえてしまってね、たづなさんと変わってもらった。確か明日は君の担当の子は休息日だっただろう』
ブリッジコンプから既にシンボリルドルフにトレーニングの内容を話した旨を伝えられていた為、動揺はない。毎日トレーニングしていてはウマ娘の肉体が壊れてしまう。だから一般的にトレーナーは平日のどこかに休息日を設けてウマ娘を休ませる、俺も例にもれず確かにそれは明日だ。
「はい、そうです」
『であれば丁度明日はチームリギルのトレーニングが行われる。東条トレーナーには私が話しておくから君の担当と共に見に来ると良い。ついでに東条トレーナーと縁を結ぶのも良いだろう。君にとってはいい刺激になるはずだ』
確かに言うとおりだ。チームリギルはこの学園最強チーム。シンボリルドルフを筆頭に、マルゼンスキー、エアグルーヴ、ヒシアマゾン、フジキセキ、タイキシャトル、グラスワンダー、エルコンドルパサー、ナリタブライアン、テイエムオペラーが所属している。面子が完全に廃課金勢である。それはチームスピカもいえることだが……。誰の元にいても世代の覇権になる可能性がある錚々たるウマ娘達だった。勿論可能性を確実に実現したのが東条トレーナーである。サクラバクシンオーの育成なら役に立つだろうが、ブリッジコンプはどうだろうか。
そして思い至る。
サクラバクシンオーならば構わない、むしろ食らいつき追いつくことが出来る。しかし、ブリッジコンプは確実に潰される。否、勝手に目が焼かれて勝手に潰れる。短いながらも、この四日間で二人のウマ娘を担当して俺は判断した。そしてサクラバクシンオーだけ連れていくということは絶対にない。そうした担当同士の差別は誰の得にもならないのだ。
「担当はしっかり休ませてあげたいですから、俺一人でも構いませんか?」
権力的にもシンボリルドルフほどのウマ娘の誘いを断るという選択肢は最初から無かった為、妥協案を出す。
『なるほど。君はそう判断するか。構わないとも。では、当日に』
含みのある言い方だったが、そのまま駿川たづなに電話が戻った。
『大丈夫ですか?トレーナーさん』
心配そうな声。しかし俺が取って食われるわけでもないから、気にすることもないと思うのだが。
「ええ。むしろ有難いくらいですよ。なにせあの学園最強チームのトレーニングを見られる。勉強させてもらいますよ。勿論東条トレーナーが今の世代の子を誰もスカウトしていないから、許されることだろうとは思います。その判断はシンボリルドルフが出来るでしょうからね」
『トレーナーさんならそう仰ると思っていました。では、午後のトレーニングにはまた顔を見せますね』
「はい。毎日有難うございます」
電話を切る。正直明日は俺も休息したかったがこうなっては仕方ない。元より、トレーナーとはブラックに両足どころか全身漬かりきった職種である。最初の一二週間くらい休みがないのも当然だ。どうしてこうも目をつけられているのかは分からないが、与えられた機会は利用すべきである。
まずは今日の仕事を終わらせようと、俺はトレーニングを組むためにトレーナーの共有スペースへ向かった。
翌日の午後。
既に俺は着替え終わっていて、時計をそわそわと時折見つめていた。久しぶりに良い服を出してきた。正式にチームリギルの見学を許可されたことがシンボリルドルフから通達され、迎えを寄越すと言われたので大人しく待っていたのだ。ピンポーンとチャイムが鳴り響く、直ぐに扉を開けると顔を出したのはエアグルーヴとウェーブヘアの美しい大人の赤が目立つウマ娘だった。
スーパーカー、無敗、ニ冠ウマ娘
怪物 マルゼンスキー
マルゼンスキーに同世代で勝てるウマ娘などいるわけもなく、クラシック路線において、皐月賞は怪我で出場出来なかったものの日本ダービーと菊花賞をとったウマ娘。シンボリルドルフとも中距離のドリームトロフィーで一勝一敗の関係である。ちなみにシンボリルドルフよりも年上で、当然俺よりも年上だ。
「こんにちは。エアグルーヴ。それにマルゼンスキー、お会いできて光栄だ。君のレースを見て俺はトレーナーへの道を志した」
「あはは、そう言ってくれるのは嬉しいけれど、もっとフランクでいいのよ。ルドルフにもそうしているんでしょ?」
いやしてないが?むしろ戦々恐々としているが?初対面で失神しかねないプレッシャーを放ってきたウマ娘とフランクに接せるほど俺の心臓は強くない。とはいえ、基本的にウマ娘との会話は相手が望むような言動を心がけるべきなのも確かだ。
「わかったよ。それじゃあよろしく、マルゼンスキー」
「まだまだ堅いけれど、とりあえずそれで良いわね」
隣のエアグルーヴが既に凄い顔になっているので俺には無理だ。あれは完全に大先輩であるマルゼンスキーにその態度はなんだ!という感情と、しかしマルゼンスキー本人が望んでいるのならどうこう言うべきではないという感情の葛藤である。
「よーし、それじゃあ行きましょ♪エアグルーヴちゃんも乗せてあげたいけれど、二人乗りなのよね。なんなら一度行ってから戻って」
「いえ、私は後から行きます」
遮るように断ったエアグルーヴの顔が引きつっているが何故だろうか?
「そう?まあいいわ。それじゃあ、新人トレーナー君は着いてきてね」
猛烈に嫌な予感がした。しかし断るわけにもいかない。
エアグルーヴと別れ、俺はウマ娘用の駐車場に連れていかれた。基本的に寮で生活していて、並みの自転車より速いウマ娘は乗り物を必要としない。だが、稀にトレーナーが他の用事があって来れないなどで、自分で運転してレース場に向かうウマ娘もいる。人間を超越した反射神経と運動性能をもつウマ娘は、余程のことがなければ事故を起こすことがない。ということで、二次性徴を迎えた後という制限はつくがウマ娘は16歳から自動車免許を取得できる。
そして中でも更に稀に物好きのウマ娘が自分の車やバイクを持っている。現れたのは真っ赤なスーパーカー、ランボルギーニ・カウンタックだ。時速295kmの正真正銘の化け物である。そういえばゲームでマルゼンスキーが持っていた記憶が薄っすらあった。心の奥底から湧き出る恐怖は記憶によるものか、直感によるものか判断がつかない。
「それじゃあトレーナ君。隣に乗って頂戴」
「了解です」
シートベルトをしめると、ゆっくりと車は発進しだした。杞憂だったか。あまり車について詳しいわけでもなかったが、とりあえず話の糸口にする。
「それにしてもカウンタック。いい趣味してますね」
「そうでしょ?タッちゃんの良さがわかるなら、東条トレーナーからは抑えるように言われていたけれど、今日のドライブ。思いっきり楽しめるわね!」
「ええ、もちろ」
瞬間、殺人的な加速が俺を襲った。オープンカーでもないというのに座席に体全体が押し付けられる。足元を見ればマルゼンスキーはアクセルを踏み続けていた。メーターは一瞬でぐるりと回り時速100kmを示している――法定速度は!?
この時間は車の台数が少ないとはいえ、直ぐに前の車の直前まで迫っていく。
「えちょっ」
舌を噛みそうになって慌てて口を閉じる。ぎゅんとハンドルが切られ、殆どドリフトしながら対向車線に入って、前の車をかわし元の車道に戻った。一瞬映った追い越した車の運転手の顔が此方を見て驚愕にゆがんでいる、当然だ。
「そろそろ高速道路ね、もっと本気出すわよ!」
狭い高速道路のインターチェンジをそのままの速度で抜け、今度こそアクセルベタ踏みである。遂に時速150kmに到達して更に加速する。そういえばそうだ。思い出した、マルゼンスキーといえばこういうキャラだった!だが最早走り出した車はなかなか止まらない、止まれない!今度から自分の直感は絶対に信じる!
「イエーイ!最高ね♪」
輝く景色の、その先に!川向こうにサイレンススズカが見える。違う、サイレンススズカはリハビリに成功してチームスピカでまだ走っている。ドリームトロフィー路線に行くとの発表もあった。慌てすぎると人の心は逆に落ち着いていく。深呼吸、深呼吸だ。俺はシンボリルドルフのプレッシャーにも耐えた男!
「ねぇ、大丈夫?ちょっと飛ばし過ぎたかしら」
心配してくれるのは嬉しいけれど、お願いだから此方じゃなくて前を見てくれ。びゅんびゅんと通り過ぎていく車が俺の恐怖を倍増させる。しかし、悲しいことにウマ娘の好きなことを好きなようにさせたがるのがトレーナーとしての性である。俺は虚勢を張った。
「まだまだァ!」
「そうこなくっちゃ!行きましょう!新人トレーナー君!音速のその先へ!」
トランスミッションがシフトされ、更なるマシンの性能を引き出した。日本車ではないため、スピードリミッターなどない!遂に時速は250kmへと近づいていく。恐怖からアドレナリンがドバドバと出てテンションがおかしくなる。
「最高だ!マルゼンスキー!」
「ええ!こんな気持ちになったのはルドルフと乗った時以来よ!」
これ以後のシンボリ家のトレーニング場につくまでの記憶が、俺にはなかった。
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