ウマ娘は元来走ることが好きな生き物である。そのため、勝手に走り、勝手に強くなり、昔はトレーナーが出来ることはレース戦術など以外殆ど無かったという。今でこそシンボリルドルフが組み上げたトレーニング方法が世に広く伝わっており、効率的な筋力バランス、レース展開へと向けたスタミナ調整、成長曲線の数値化といった計算式はトレーナーに必須だ。
「だが、最初期から、それこそシービーより更に以前から特に重視されていることはたった一つだ」
俺にシンボリルドルフは、日本のウマ娘界隈に革命を起こしたウマ娘は言い切った。目の前を最強のマイラーであるタイキシャトルがその体躯に任せた凄まじいスパートで、グラスワンダーを引き離していく。シンボリ家のトレーニング場前で、なぜか俺とシンボリルドルフは少し離れた高台からレース場を見下ろしていた。
「怪我をさせないこと。レースにおいて頂点は一人、積み重ねたものはあるだろう、だがレースに勝つのはウマ娘個人の責務だ。そこにトレーナーの責はない。ならばトレーナーは如何するか。無事之名バと言うように最も優れたトレーナーはウマ娘の怪我とは無縁なんだ。勝たせるための特別なトレーニングなどいらない、ただ必要十分なトレーニングの中で怪我をさせないことが最も重要だ」
そういう意味では東条トレーナーは駄目だ。語らずとも眼下でトレーニングを指示する東条トレーナーに向けられたシンボリルドルフの瞳は、そう語っていた。マルゼンスキーの皐月賞を前にした骨折、エアグルーヴの桜花賞を前にした発熱、ヒシアマゾンのアメリカ遠征直前の脚部不安、グラスワンダーはジュニア王者に輝きながら不調が続いた……あげれば東条トレーナーが担当するウマ娘の多くがトレーニング中の怪我や調整ミスに悩まされていた。
確かにウマ娘は勝った。この場にいるチームリギルの誰も彼もがGⅠの勝者だ。それは誇るべきことで、しかしシンボリルドルフ曰く勝ったことはウマ娘が自らの責務を成し遂げたことに他ならない。ライバルとの激闘が在っただろう、クビ差ハナ差の勝利だったかもしれない、しかし運命を凌駕していない。勝つべくして勝たせることしか出来ない、怪我や不調が起こった上で上手く治すことしか出来ない東条トレーナーは学園随一といって良いほど優秀であるが凡夫である。
「チームリギルは怪我を治療することに長けている。学園最高峰といっても過言ではない。しかし、君が此処で学ぶべきは怪我した後の適切なリハビリ方法ではない。学知利行。どうすればウマ娘は怪我をするのか、ということだ」
この高台から見える景色のように。大志を抱くシンボリルドルフの視点は大空に羽ばたき、地べたを這う人間よりも、そしてウマ娘よりも高く見下ろしている。故に最も真理をついた言葉なのであろう。
俺は勘違いしていた。この見学は東条トレーナーから学ぶためのものではない、シンボリルドルフから学ぶためのものだ。
「どうすれば、ですか?」
「そうだ。普通の人間には、そしてウマ娘自身にもわからない兆候は確かにある。君にはトレーナーとしての才があるように見受けられる。下学上達、精進することだ」
此方を見たシンボリルドルフの桃色の瞳の中で、雷鳴が瞬いた。それは一瞬だったが、確かに黄金色に輝いていた。
そのような埒外の化け物のことを思い出しながら、俺はブリッジコンプとサクラバクシンオーの走りを見ていた。やはりシンボリルドルフというウマ娘は例外中の例外だ。芝の上を駆け抜けていく二人を見ると安心感が湧いてくる。
シンボリルドルフは価値観を狂わせ、そしてシンボリルドルフ自身にはその自覚がない。鮮烈なウマ娘。なんだか妙に目を掛けられているが、俺個人としては見学によって自分のペースが崩された気がして今一身になったか自信がなかった。今でさえ手一杯なのでただただ困るという話だ。
なんだかんだ面倒見の良い東条トレーナーから貰った大量の資料が、今のところ明確な成果であった。
さて、担当の二人が走るここはサクラ家が所有するトレーニング場である。東京レース場と殆ど隣にあるこの施設は、一周1600mの芝のコースでありダートはない。東京レース場と同じく勾配が激しく、人間であれば一周するだけで汗だくになってバテてしまうこと請け合いだ。
日差しはまだ暖かく春の陽気だったが、熱中症対策に簡易テントを立ててベンチを並べてある。巨大なクーラーボックスと、扇風機もあった。倉庫を探せば出るわ出るわ、ウェイトトレーニング用の重しや巨大なタイヤ、なぜか瓦といったものもまで用意されている。至れり尽くせり、レース場の大きさとダートの有無を除いてトレセン学園並みの充実具合だ。
セイウンスカイは名目上、ブリッジコンプとサクラバクシンオーの走りの指導ということになっているのに、ベンチを並べて横になって昼寝している。尻尾がふらふらと揺られて気持ちよさそうだ。まあ、その方が爆弾を気にせずに済むし俺としてはありがたい話である。
回ってきたブリッジコンプとサクラバクシンオーはまだまだ余裕な様子だった。コースに慣らすために十周駆け足しかしてないとはいえ、この五日間の基礎練習のかいもあったというものだ。坂の上り下りも苦がないし、坂路トレーニングはまだやらなくて良さそうだった。
「お帰り、ブリッジ。どうだった?」
「芝が凄く良いです。踏み込みに全然絡まないというか、草の下地にしっかりとした地面がある感じです」
「つまり良すぎるってことか。本番のレース場だと荒れていることなんて良くあるから、慣れすぎも良くないな」
日に二桁以上レースが行われることもあるレース場は内ラチ側の芝が踏み荒らされて酷いことになっている場合も多い。特にメイクデビュー戦は様々な場所でレースをするため、当たり外れが大きい。荒れた場の慣らし練習をする必要はまた今度あるだろう。
「バクシンオーは勝手知ったる庭だろう。とりあえず追加で五本だ。出来るだけコーナーの時は膨れないように意識しよう」
「はい!バクシンします!」
ブリッジコンプの調子も良かったが、サクラバクシンオーは絶好調を通り越してバクシン好調だった。いや自分でも何を言っているかわからないが、事実である。サクラバクシンオーはトレーニング開始から五日間、まったくムラがなく常に調子が良かった。それは精神面でも肉体面でもだ。エアシャカールからデータ分析と共にウマ娘の平均値を教えられた俺からすれば、驚異的なことである。
しかし、今のバクシンオーは顔の張りからして一味違うように見えた。この場所でのトレーニングはかなりの効果を齎しそうである。図々しいことだが毎週借りられたらなとすら思う。小細工などいらない。こうした単純な練習の質の違いが勝敗を分ける。枕戈待旦、なぜならウマ娘とは本能的に勝つことを……違う違う、シンボリルドルフの意志に思考が乗っ取られかけた。
頭の中まで浸食してくる鹿毛を必死に追い出して、ブリッジコンプを改めて見る。つり目の金色の瞳が此方を見つめ返した。
「トレーナー?」
「走法は大分崩れてきたな。ブリッジらしい走り方になってきた。まあ、当然それは上手くない走法なんだが……、ブリッジ自身も感じてるだろう?」
「はい。走りやすくなったとは思います。でも速度が出てはないですよね」
ラップタイムも模擬レースと比べれば酷いものだ。正直これで正しいのかわからないが、少なくとも前の猿真似といっていい走り方よりは真面だと判断する。ここから改造を加え、ブリッジにとって走りやすくかつ速度が出るような走法を編み出さなければならない。
「遅い理由はわかってるんだ」
走っている姿を見て、三日前から気づいていた。そしてブリッジコンプの走法が崩れて漸く言えるようになった。
「ハルウララに似てるんだよ、ブリッジの走り方」
ハルウララ、GⅠ未勝利ながら絶大な人気を誇った黄金世代の同期である。ハルウララの主戦場はダートで、多くのレースに出場しいつも元気一杯だった。人気投票によって有馬記念にも出走し、そして当然の如く最下位を飾った。あの時の実況が発したぽつんとひとり、ハルウララは彼女の人気も相まって物議を醸し問題になったこともある。GⅠ未勝利ながらグッズを初めて作られたウマ娘であり、俺もグッズを多数持っている。
彼女はブリッジコンプと同じく低身長である。手の振りは素早くやや斜め横に振られ、脚の回転は速いが一歩は短い。人間でいうところの女の子走りに近い走法だ。体躯に負けるハルウララがトレーナーと共に苦肉の策で編み出した彼女に合った走法なのだろう。
だが遅い。ブリッジコンプはGⅠで勝つことを望むウマ娘だ。ならばGⅠで勝てないウマ娘に似ていては意味がない。
「それは……なんというか」
「見せれば気づいてしまうだろうと思って、ブリッジの走法を撮った映像は今まで見せなかった。あくまで自分の走り方をする目的を崩してほしくなかったからな」
ブリッジコンプの苦虫を噛み潰したような表情を見て、判断は正しかったと思う。人間の間では、あるいはレースに関わらないウマ娘の間では、美談に語られているハルウララの物語。彼らはどこか遠くから頑張るアイドルを見るつもりで、応援しているのだろう。だがレースに関わる者としていえば、本気で勝とうとしている者にとっては最悪だ。簡単に想像がつく。
勝てないのに褒められる?勝てないのに持ち上げられる?
ハルウララほどの精神力がなければ、自殺してもおかしくない程の屈辱だった。だからブリッジが自分の走法を見て、ハルウララと似ていると気づけば俺に気づかないように走法を調整してもおかしくなかった。しないという信頼関係も信用もなかったのである。
「悪い。ブリッジにとってこれは信頼関係を無にする明確な裏切り行為だ」
今は頭を下げることしかできない。九十度体を折り曲げて頭を下げた俺に、ため息が降ってきた。
「はぁ、謝らなくて大丈夫です。トレーナーが必要だと判断したんでしょう?これからも同じことをされても構いませんよ」
「ありがとう」
頭を上げる。逆スカウトという形だからこそ許されると判断した打算的な計算も合った。不思議なことにブリッジコンプというウマ娘が俺に対して信頼しているからでもあった。だからこそ、俺はブリッジコンプの為に走法について沈黙するべきだと判断した。
とはいえ、それをきちんと口に出して謝罪し許されるというプロセスは関係の構築において重要である。
「走法は模索するしかない。だけど、ある程度必要なことはわかる。大きく走る歩幅をとること、体が小さいことを活かして空気抵抗を削ることだ」
ニシノフラワーが強力なパワーを持っていた様にウマ娘のパワーはあまり体格に関わらない。しかし、走るとなると走る幅一歩の違いが大きく出る。タイキシャトルやオグリキャップ、シンボリルドルフといったウマ娘は身長が高めで、当然脚も長く、スパート力は他の追随を許さない。最終直線の強さはそのまま差しや追い込み、時に先行の強さに繋がる。
だからブリッジコンプは自然と差しや追い込みが苦手だと判断した。判断は間違っていない。他のウマ娘と体格で競り合うことも出来ないブリッジコンプは逃げか、かなり前寄りの先行しか勝ち目がない。しかしそれでもスパート以外の走る歩幅を狭くして良い理由にはならない。
「まずは走る歩幅を広げることを意識して走る。今のスパートではないブリッジの歩幅は193cm、これを200cmまで伸ばす。ウマ娘の平均データからみると、ブリッジの身長からはフォームがガタガタになる限界直前ということになる」
メジャーを取り出して、地面に伸ばすと本当に2mという距離は長い。俺の身長より長い距離をたった一歩で進まなければならないのだ。それだけ一歩ずつの踏み込みが力強く、前方に飛び跳ねるようにウマ娘が走る証拠でもある。
「よっと、わわっ」
試しにブリッジコンプが2mを一歩でこなそうとして、転倒しかけたので手を掴んで止めた。
「気を付けなよ。あくまで走っている最中の話だから、意外と出来るはずだ。此れからは一緒に映像を見て確認しながら幅を広げて調整していこう」
対して、僅かに顔を赤くして消え入りそうな声でブリッジコンプが呟いた。
「わ、わかりました。あの、大丈夫ですから手を」
「おっと、……悪い」
掴んでいた手を離す。サクラ家の敷地内ということもあって、やけにブリッジコンプは辺りの視線を気にしてるように感じた。この様子では二日間触診も控えた方が良さそうだ。
思春期だなと思う。いや、この考え方はセクハラみたいでよろしくないな。どうも彼女たちを見ているとまだ俺も若いのに、娘のような気分になっていけない。
思考を切り替えてブリッジコンプに指示を出す。
「それじゃあ走る歩幅を意識して……丁度バクシンオーが二周したところか。彼女に着いて三周行ってみよう」
「はい」
ブリッジコンプが走りに行くのを見送る。走りのフォームは相変わらずハルウララだった。しかし、歩幅を意識しているようだ。体幹の維持が難しそうにしていたが、そのうち走っていれば慣れるだろう。
少し気になって視線を向けると、タイミングよくセイウンスカイが起きて大きな伸びをした。
「ふぁぁ、新人トレーナーさ~ん」
サクラバクシンオーとそう年齢が違わないのに少しだけ艶やかと思うのはシニア期に入ったからだろうか?勿論、鋼の意志でそういう感情は一切顔に出さないし、直ぐに思考から消す。案外思うだけでもこういうことはバレるのでトレーナーとして感情操作は必須技能だとファインモーションから習った。
穴があったら入りたいが、年上の美人なお姉さんとしてファインモーションをそういう目で見ていたことがバレバレだったのである。注意されたときは本気で恥ずかしかった。
閑話休題
「まだ寝てていいぞ。セイウンスカイ。今日は良いお休み日和だろう」
「まーねー☆でもあの二人のこと少しだけ興味が湧いたよ」
「そりゃ嬉しい。ワールドレコーダーのセイウンスカイから見てどうだ?将来的にGⅠ勝てそうなウマ娘かな」
才能があるか、とは聞かない。サクラバクシンオーは才能の底が見えない。だがブリッジコンプは多少優れている程度で、だからこそ鍛えがいのあるウマ娘だと思うからだ。それに目の特異性を加味すれば、あるいは才覚で負けているウマ娘に勝つことだって出来るだろう。
セイウンスカイならばその事を見抜いており、そして俺が見抜いていることも含めて、理解しているはずだ。
「おーっ、新人トレーナーさんてば調子に乗らせるのが上手いね。そうだねぇ、その時の運は置いておいて。このまま成長すればバクシンオーちゃんは勝てるんじゃないかな。ブリッジちゃんは~まだ無理かな」
まだ、か。可能性はあるということだ。ならそれを成し遂げる手伝いをするのがトレーナーの仕事である。自分の担当ウマ娘が勝てると信じなくて、誰が信じるというのだ。改めて意志を固めた俺はセイウンスカイにお礼を言った。
「ありがとう」
「それほどでもーあるかなー?」
セイウンスカイはにゃははと笑って起き上がり、じっとターフの上を駆ける二人のウマ娘を見つめ始める。朝の雰囲気は危うかったが、今は問題なさそうだ。そう判断して、俺もとりあえずは担当を見つめることにした。
誤字報告・評価ありがとうございます。
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