和室の部屋に散らばった大量の紙、倒れた湯飲み、紙で溢れたゴミ箱、テキストが中途半端に入力されたノートパソコン。深夜四時、事件があったような部屋はサクラ家屋敷の奥まった場所にあった。明かりが絞られた部屋で、一人の男性が床に倒れていた。温泉旅館殺人事件の被害者、その人物とは……。
俺である。
「終わらん」
ゾンビのように起き上がる。ポットに手を伸ばし倒れた湯飲みを立てて、珈琲を注ぐ。腱鞘炎になりそうな腕はぶるぶると震えて、カップが今にも床に零れ落ちてしまいそうだ。慎重にずるずると啜って、机の上に戻す。
「流石に今日一日は無理があったか」
散乱した紙はすべて手書きである。筆者はサクラローレル、サクラバクシンオーの実質的な師であり、春の天皇賞と有馬記念の覇者。これらの紙全てはサクラローレルがサクラバクシンオーの為に用意したデータであり、成長記録であり、育成計画である。サクラローレル本人の努力家としての才と、実直性、優秀さを改めて実感する。この不屈さによって長い敗北の時を乗り越え、伝説となったのだろう。
俺はサクラローレルが残した資料があると知って一二もなく飛びついた。そして、サクラバクシンオーの両親に許可を貰って、テキスト化しているのだが最大の問題があったのである。サクラバクシンオーと同じく誤字まくり、話飛びまくりなのだ。おかげでパソコンで取り込んでもテキストファイルに変換できず手打ちするしかなかった。
「ただ大体わかってきた。サクラ家は長い距離を得意とする一族だ。だからスプリンターとして破格の才能をもったことに気づいていなかった。走れないウマ娘だと思われて、それでローレルが面倒を……か」
長い歴史の中でウマ娘は密かに、血統によって才覚が決まると囁かれるようになった。そして強いウマ娘の子同士を婚姻させて次代の強いウマ娘を願うようになる、これがウマ娘の名家の正体だ。ウマ娘はウマ娘からしか生まれず、名家のウマ娘が勝ち続けた歴史が理論の正当性を証明している。そしてサクラ家もまた強い中距離適性以上のウマ娘の子を掛け合わせてきた一族である。
名家であるが故に、練習させてもまったく中距離以上の距離に適性を見せないサクラバクシンオーの立ち位置は家の中で難しいものがあった。最初は走れないウマ娘だとすら考えられていたようだ。家所属のトレーナーがいて、担当トレーナーに引き継がれるまで面倒を見るのが名家における普通だ。だが最終的にはサクラローレルがたった一人でサクラバクシンオーの走りの面倒を見た……そのことに意味を見出せないほど俺はバカじゃない。
問題のないウマ娘などいるわけがないという当然の思考を、サクラバクシンオーを前にすると忘れがちになる。サクラバクシンオーが長距離レースをあれほど勝利したがる理由、それが優れた学級委員長だからと言う理由。面倒を見てくれたサクラローレルが有馬記念で勝利したが故の憧れから無意識のうちに発露した考えだ。すなわち、サクラバクシンオーが抱える学級委員長の理想はサクラローレルである。
サクラバクシンオー本人がそもそも言っていた、サクラローレルは大学級委員長であると。
「こういうこと知りたくなかったなぁ」
ウマ娘の精神構造の理解はエアシャカール仕込みの管理トレーニング方式において最も重要だ。趣味嗜好を掌握して、適切なタイミングで、適切にストレスを緩和して、継続的なトレーニングをこなす。自分の趣味嗜好や身体的データを延々と平気そうな顔で喋るエアシャカールには正直引いたが、兎に角この情報はサクラバクシンオーというウマ娘の精神構造に深く関わっている。
簡単に言ってしまえば、例えばサクラバクシンオーに有馬記念を目指すように告げる。漠然とした、優れた学級委員長だから長距離レースにも勝利したいという想いの本質を引きずり出す。すると想いが明確な形となって有馬記念まで怪我をしてしまいそうなハードなトレーニングでさえ従順に乗り越えられるだろう。勿論このような単純な話ではないがエアシャカール式管理トレーニング方はこういった思考を誘導するような考え方をする。
駿川たづなによってサクラバクシンオーに長距離を走らせることが本人の為にはならないと否定されたこと、俺はあの時正論だとは思った。だが、むしろこうした分析を終えればサクラバクシンオーには長距離のレースを目標にさせるべきだ。それが感情を利用することだとしても、本人が望んでいることであり、トレーニング効率も跳ね上がる。
問題は、この精神構造の根本が思ったより陰鬱とした方向性にあることだ。
サクラバクシンオーが長距離レースで一度や二度ならまだしも、負け続けたとき、理想である
まだたった一週間だ。関係を築き始めた段階に過ぎない。
コンコン。びくりとノック音に思わず動揺してしまった。あまりこういった人によっては冷たいといえる思考を人前ではしないようにしている。表情だけではない、汗や顔色、わずかな仕草から敏感に感情を感じ取るウマ娘はいる。此処は自宅ではない、用心するべきだったことを忘れていた。
実態としてある疲労に思考を任せて、頭の中から一旦すべての思考を消去する。
「はい。どちら様でしょうか?」
努めて明るい声で返事をすると、帰ってきたのはか細い知る声だった。
「あ、あの、サクラチヨノオーです。入っても良いでしょうか?」
サクラチヨノオー、確かサクラバクシンオーと違って真っ当にサクラ家の血を継いだウマ娘。知っているのはそれだけだ。とはいえ事前情報は何の役にもたたない、むしろ偏見を生みかねないので此処は無くて良かったとする。
少ない情報で頭の中で瞬時に判断を下す。男性の部屋に高等部のウマ娘を連れ込んだとなれば問題になりそうだが、此処はサクラ家だ。親戚とはいえサクラチヨノオーは家主といってもよく、更にウマ娘であり肉体的には無理やりどうこうするのは当然俺には不可能である。夜も更けて朝になろうという四時に態々訪ねてくる理由も気になる。
俺は障子を開けた。
「どうぞ」
「失礼します。その……お夜食をお持ちしました。まだ外から見て明かりが点いていたので」
多分そういう理由だけで訪ねてきたのではないだろう。あくまで訪れる切っ掛けと見たが、盆の上にのせられた三つの御握りと緑茶はとても美味しそうに見えた。緊張をほぐしてもらうためにも乗っかるのが大人というものだろう。
「ありがとう、丁度お腹がすいてたんだ。早速一つ頂いてもいいかな」
サクラチヨノオーが持ったままの盆から直接一つとると一口齧る。夜食というには三つは多い大きさ、中には梅干しが入っていた。海苔は少し湿り気を多く含んでいて、時間が経ってから届けられたことがわかる。訪れるのに葛藤したといったところだろうか。
「とても美味しいね。もしかしてサクラチヨノオーの手作り?こりゃ将来の旦那様に嫉妬しちゃうな」
「……ありがとうございます」
サクラチヨノオーは消え入りそうな声で顔を赤く染めた。それからはっとなって、盆を机の上に置き辺りを見渡す。わかりやすい子だ。ちなみに部屋は片付けるまでサクラチヨノオーに廊下で待っていてもらうという選択肢もなかったし勿論、温泉旅館殺人事件のままだ。
「散らかして悪いね。今日中にテキスト化したいんだけど解読に難航していてね」
「でしたら……手伝いましょうか?一応、ローレルさんの字なら読めると思います」
「本当か!是非頼むよ」
早速資料の一部を渡すとすらすらと要点だけ読み上げ始めてくれる。サクラバクシンオーも自分が書いた文章を正確に把握できるので、もしかしたら、サクラチヨノオー自身もそういうタイプなのかもしれない。ただチヨノートは読まずにサクラバクシンオーに渡してしまった。強いウマ娘の血統を組み合わせた結果、受け継がれた特性の可能性は十分にあった。今のところは謎は謎のままにしておいた方が精神的に良いかもしれない。
タイピングをしながら横目で見れば、サクラチヨノオーの表情や耳と尻尾から緊張がほどけていくのを感じた。凄く助かっているがこのままではサクラチヨノオーの話したい本題に入らずに朝日を迎えてしまいそうだ。
「それで何の用だい?」
手を止めて、お握りに手を伸ばして休息をとることをアピールする。幸いにもサクラチヨノオーもそれに乗ってきた。
「あの、その、マルゼンさんとドライブにいったって本当ですか!」
思ったのと違う質問が帰ってきた。マルゼンさんとは想像するに、マルゼンスキーのことだろう。思い切り法定速度に違反していたし、目立っていただろうからあの時のドライブを誰かに見られていても不思議ではない。ついでになぜか警察に捕まらなかったのが今でも不思議で仕方ない。謎の権力でも働いているのだろうか。とはいえ今は陰謀論よりサクラチヨノオーに答えるのが先だ。
「ああ、本当だよ。あれはレアな体験だったね」
お、今度は梅干しではなく胡麻昆布だ。
「マルゼンさんは凄く楽しそうにしていたと聞きました。その、差し支えなければどういう経緯でなどを聞かせていただいても良いでしょうか!」
数分前の気弱な態度はどこへ行ったのだろうか。目を期待に爛々と輝かせて、かなりぐいぐい来る。気づけば向かい合っていた膝が殆どくっついてしまう距離だ。サクラバクシンオーとしか関わったことはないが、サクラ家の血筋を強く感じさせた。
「シンボリ家のレース場まで送ってもらったんだ。もしかしてサクラチヨノオーってマルゼンスキーに憧れてる?」
「はい!ドリームトロフィーまで無敗を貫いたその走り!怪我をしてなおとった二冠!怪物と称され、そのことを誇りにもっている仕草!憧れという言葉だけでは言い表せません!」
本当にぐいぐい来るなぁ!
「それで……その、私。実は……私、私。乗り物に弱いんです!マルゼンさんに誘われてドライブに行ったとき、気づいたら気絶してしまって。なかなか起きなくて病院にまで搬送されてしまったんです」
なるほど、それはもう仕方ないというか。あのスピードに耐えられるのはサイレンススズカくらいなものではないだろうか。俺の中で根拠もなくサイレンススズカの株が爆上がりしている。きっとスピードの向こう側へ行ってくれるはずだ。いや、行った結果二度と走れなくなるかもしれない怪我を負ったので、やっぱり行かないでほしい。
「なるほど、そういう意味じゃ俺は役に立てそうにないな。なにせ俺も意識を失った」
「そ、そうなんですか。でもその後もマルゼンさんはとても嬉しそうにしていたみたいです。私の時なんてもう大慌てで、それ以来気を使って下さってドライブに誘われないんです……」
俺はまた今度走ろうと誘われた。二度と御免だと思ったが、その時になればマルゼンスキーに合わせて乗ってしまうに違いない。自分のトレーナーとしての在り方が恨めしい。とはいえ誘われたことを告げればサクラチヨノオーは更に落ち込んでしまうだろう。
「酔い止め薬は駄目そう?」
「はい。ウマ娘用のを飲んだのですがどうも私は効きにくい体質みたいです」
ウマ娘に毒は殆ど効かない、即ち薬も効かないということである。おかげでウマ娘用の薬はかなり充実している。その人間用の平均して五倍の効力を持つウマ娘用の薬をもってしても、効果がないというなら改善方法はかなり限られてくる。
「流石にマルゼンスキーに耐性を得るために乗せてくれっていうのもよろしくないしなぁ。乗り物酔いは基本的に内耳、視界、体感の情報のずれから起こるんだ。マルゼンスキーは時速200kmを超えて、更に必要ない所でも容赦なくドリフトするし余計きついだろうね」
「はい、そうなんです。あ、いえでもマルゼンさんの運転はとっても恰好良いと思いますので!」
誰に言い訳をしているのか、手をぱたぱたと前で振るサクラチヨノオーを尻目に考える。さて、正直いって乗り物酔いの改善となると完全に専門外だ。他の乗り物で慣れることなどは本人の実直な性格も相まって試しただろうし、その上で失敗したのだろう。だから俺がかけるべき言葉はあまりないと言える。
「自分で車を買って運転してみるっていうのはどうだ?」
「自分で、ですか?」
白いカバーをつけた耳がぴくりと動いた。流石にこれはサクラチヨノオー自身も試してないらしい。
「ああ、免許をとれば車に乗れるようになるだろう。意外と自分で運転していると車酔いにならないものだ。個人差は勿論あるがそれでもまだ可能性がある。マルゼンスキー自身、助手席に乗ると酔うと言っていたからある意味君と同じ状況ともいえる」
同じ状況とはとても言えないが、しかし一番大切なのは信じさせることだ。何事も苦手意識を持つと、それが続いてしまう。
「もし君が運転できたら二人で外を一緒に乗り回すなんてことも出来るんだ。一緒に並んで車を走らせる、最高だろ?」
時速250kmを超える速度でかっ飛ばし、タイヤを擦りきらせるマルゼンスキーと並走なんて不可能だと思うが当然口にしない。俺は一人の少女を騙すためにペラ回す。言い方ややり口が詐欺師だが、トレーナーとは元より少女を煽てて、きついトレーニングを与えて走らせる職種だ。詐欺師とトレーナーの違いは正当性が有るか無いかだと俺は思っている。
「最高ですね!!!師匠と呼ばせていただいても良いでしょうか!」
結果は完璧に騙されてくれた。両方の拳を胸の前で強く握るサクラチヨノオーはやる気に満ちている。
「好きに呼んでいいよ、サクラチヨノオー」
「師匠もチヨノオーとお呼びください!さあそうと決まればこの資料をさっさと終わらせてしまいましょう!」
あ、はい。一人のウマ娘を騙したが、急激に思考が冷え込んでいく。サクラチヨノオーは距離も更に詰めてきているし妙に懐かれてしまったようだ。しかし事此処に至ってはどうしようもない。自分で自分の首を絞めるのは俺のお家芸なのだろう。気づかれないようにため息を吐いて、タイピングに戻った。
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