レース場から少し離れた芝をサクラバクシンオーが一歩一歩歩いていく。腰に繋がれた紐の先には幅2m、直径4mはあるだろう巨大なタイヤが括りつけられてた。超大型トラックやフォークリフトを支える重量4.8トンのタイヤだ。サクラバクシンオーはいつもの快活さはなりを潜め、遠目でわかるほど汗が吹き出し力みから顔を赤く染めている。
「バ、バクシン!……ふんぎぎぃ!バクシン!」
既に十回道を折り返している。ウマ娘が人間の三倍のパワーを持つとはいえ、限度というものがある。というかあれはどういう原理で歩けているんだ。人間の三倍のパワーがあっても不可能なはず、不思議な力が働いているに違いない。
踏み出すごとにあげていた声も今や掠れてきていた。ブリッジコンプであれば数歩もすれば音を上げていただろう。ぎりぎり行えているサクラバクシンオーが異常なのだ。トレーナーの指示するトレーニング量は七日目にして急速に跳ね上がった。
かくいうブリッジコンプもひたすら同じフォーム、1ハロンごとに区切ったタイムでレース場を延々と走らされ漸く終わったところだ。緩いペースながら数えるのも馬鹿らしくなった程走り、ペースの誤差が2秒を超えるか歩幅が極端に狭くなると走る量が伸びる。
脳が茹って正常な思考ができない。温い水をがぶ飲みしながら、塩辛い飴を舐める。なんだかんだ言ってこのあまり美味しいとは言えない飴も慣れてしまった。ジャージも汗を吸いつくして重く感じるほどで、絞ったら凄いことになりそうだ。
「ブリッジ、33ハロン目から3ハロンは脚が上がり過ぎだ。ぎりぎり許容範囲ではあるけれどあれはよくないな」
33ハロン目、というときつい急勾配の場所だ。ペース配分が遅れそうになり、急いで坂を登るために脚を少しだけ高く上げたのが響いたらしい。ブリッジコンプは息を整えて、近づいてきたトレーナーに当然の疑問を投げかけた。
「あの、トレーナー。なぜ急にトレーニング量を上げたんですか?」
急にトレーニングから拷問に変わった。これでは体験入部の時に初心者に優しくしていた運動部に、いざ入部してみると地獄のような日々を送るはめになるのと同じ。勿論このくらいで退部もとい契約破棄をするつもりはないが理由が欲しかった。
「二人ともデータ分析が終わって限界ぎりぎりを攻められるようになったからね。確かに普通はゆっくりトレーニング量を上げていくのが正しい。ただ、ただ正しいだけでは打ち砕けないのがサクラバクシンオーの距離適性であり、君のGⅠ勝利という夢だ。まだサクラバクシンオーには時間があるがブリッジには時間がない」
「時間?」
「うん、まあこれを新人トレーナーである俺が言っても説得力がない。セイウンスカイちょっと来てくれ!」
トレーナーが呼ぶと、寝転がっていたセイウンスカイ先輩は起き上がって近寄ってきた。相変わらずのんびりとしていて、いまいち何を考えているか解り難いが前よりはトレーナーだけでなく私たちに興味を持っているように思える。ただ相変わらず青い瞳は私のトレーナーを見ていた。
「はいはーい、この私に何の用かな?新人トレーナーさん♪」
「ブリッジになぜ今からハードなトレーニングが必要か教えてやってくれ」
「ふむふむ。それって説明要る?担当のトレーナーがそう言うならそうすべきじゃないかなぁ。まあ、私はよくさぼって言うこと聞かなかったんだけどね」
トレーナーが再度頭を下げて頼むと、渋々といった態度で、しかし声色は嬉しそうにセイウンスカイ先輩は話し始めた。
「しょうがないなぁ、それじゃあ簡単に説明してあげよう!」
セイウンスカイ先輩は指を二本立てた。一つは未だブリッジコンプの走法が達していないことをあげた。走法が完成しない限り適切なレーストレーニングを課すことが出来ない。基礎トレーニングで勝てるほどレースは甘くはない為、走法完成の為にも今の歩幅を広げることに早く慣れる必要がある。なるほど、納得できる理由だ。
「サクラバクシンオーがやっているタイヤ牽きも未完成の走法だとそのまま崩れてしまう。だからまだブリッジにはさせられないし出来るトレーニング方法も限られてくる」
あのタイヤ牽きはやりたくないです。それで二つ目は?
「それでー二つ目だけど、感覚的なものだから説明しにくいなぁー。GⅠウマ娘は肉体の強さや精神性だけで勝つわけじゃなくてばびゅーんと領域があるんだよ」
つまりそれは肉体という限界を超えた先の力、一般的にはオーラと呼ばれるもののことだろう。ブリッジコンプは常に認識しているが、レース本番に遠く観客席からでさえ幻視を生み出すほどの力がウマ娘から放たれることがある。あのスペシャルウィーク先輩のジャパンカップで起こった時間停止は記憶に新しい。
一般では認識できなくとも、隣で走っているウマ娘なら認識できる程度のオーラの爆発が複数発生するのがGⅠという舞台であるとセイウンスカイ先輩は語った。
「GⅠの一着から三着までのウマ娘は大抵持ってるよ。使うことに慣れてないと本気で走るときにしか出せないけれど。そうだなぁ、実際に見せた方がいいかも。新人トレーナーさん、蹄鉄借りてもいいかな?」
「セイウンスカイ、流石に今走るのは……」
「にゃはは、新人トレーナーさんてば心配性だなぁ。全力は出さないし、使ったところを見せることがメインだからね」
ブリッジちゃんは、ちゃんと本気で走ってね。そう言うとセイウンスカイ先輩は私服のままサクラバクシンオーの予備の蹄鉄がついた靴を履いた。
「うん、いけるかな」
セイウンスカイ先輩は入念に準備体操をし始めた。どうやら本気で私と一緒に走るつもりらしい。先輩はまだ脚に不調を抱えているし、大した速度も出ないだろう。ブリッジはへとへとに疲れ切っているとはいえ今の間に大分回復してきた。流石に負けるとは思えないが……。
「トレーナー、マッサージお願い」
勝ちたい。サクラ家では流石に遠慮していたのだが、恥も外聞も捨ててトレーナーに頼む。トレーニングウェアではなく私服、それも不調という大きなハンデを抱えた相手に勝ってなんになると普通は思うだろうか。けれどブリッジコンプは自身が強い才能へのコンプレックスを抱えていることを知っている。
それを改善したいとも思っている。このセイウンスカイ先輩との勝負が少しでも自分の精神面の弱さを改善する為になるのなら、本気で勝ちに行く。
「わかった。それじゃあセイウンスカイの準備体操もあるし十分後に開始しようか」
蹄鉄のついた靴を脱ぎ、うつ伏せになるとトレーナーはセイウンスカイ先輩の前でも気にせず触ってくる。思うのだが、トレーナー自身が恥じらっている様子を見たことがない。タオルを巻いていたとはいえ私とサクラバクシンオーをサウナで見た時も謝罪以外の感情を浮かべてはいなかった。女の人に性的魅力を感じない人がいると聞くが、もしやトレーナーはそういう人なのだろうか。
失礼なことを考えて、トレーナーの指先から意識を逸らす。セイウンスカイ先輩が驚いた顔で此方を見てくるのが恥ずかしかった。流石に脚以外をマッサージするトレーナーが少ないということにブリッジコンプも気づいている。絶対このトレーナーは普通ではない。しかも疲れが溜まっていることもあって肩甲骨周りに触れられると変な声が出てしまいそうだ。
「ふーん、びっくりだね?もしかして新人トレーナーさん、毎日それやってるの」
「あーまあ、流石に人の家じゃ外聞もまずいだろってことで、昨日はやらなかったが基本はそうだな。ブリッジから言い出すとは思わなかったが俺はウマ娘がやって欲しいと頼むなら断るつもりもない。ちなみにシャカール……エアシャカールからも認められた腕前だぞ」
どうやら今までの言動からしてもトレーナーは相当エアシャカール先輩に信を置いているようだった。ブリッジコンプはテレビで見た印象で怖いウマ娘だと思ったが、実は違うのだろうか?私以上に目つきがきつかった記憶がある。それから十分後、丁度よくサクラチヨノオーがサクラバクシンオーを背負ってやってきた。
「師匠。バクシンオーは見事、十本、インターバル二分、五セット。やり遂げました!」
「私の……バ……バクシン的、勝利ぃ……」
へろへろになったサクラバクシンオーはペットボトルを自力で飲む力もないのか、サクラチヨノオーによって口にペットボトルをあてがわれている。セイウンスカイ先輩の話を聞いていたので見ていなかったが、なんとあのタイヤを五十回も合計して牽いたというのだ。トレーナーの限界ぎりぎりを攻めるという言葉が真実味を増した。
それにしても。
「師匠!他に頼み事はありますか!」
私のトレーナーにサクラチヨノオーがにじり寄る。頼みごとを望む仕草などサクラバクシンオーそっくりで血を感じさせたが大事なのはそこではない。急にトレーナーとサクラチヨノオーが仲良くなり過ぎではないだろうか。朝食を一緒にとった時にはもう既にこうなっていた。昨日までは完全に怯える小動物だったのに、今ではもふっとした髪の毛も相まって主人に懐いた子犬である。尚未だにブリッジコンプには警戒しているのか、話しかけてもか細い声ですぐに逃げられてしまう。
理不尽だ。
「そうだな。テープを張るのを手伝ってほしい。それから今からの模擬レースはしっかりと見た方が良いよ。いざデビューしたとき良い経験値になる」
「はい!わかりました、師匠!」
レース場にテープが敷かれ、1ハロンずつの幟が立てられていく。私とセイウンスカイ先輩はターフの上に並んだ。セイウンスカイ先輩が内ラチ側とブリッジコンプは若干不利だが、コーナーまでは少し長い。十分1ハロン中に先頭をとることが出来る。
「改めて距離は1200mだけだ。直線を抜けて、第一コーナーから第二コーナーを曲がり、半ハロンで終わりだ。最後の直線は短いから勝負所は第二コーナーになる。第二コーナーから下り坂になっているから、熱中しすぎて転ばないように気を付けて」
私のトレーナーが説明し終わってからも、セイウンスカイ先輩は頭の後ろに手を組んだまま、相変わらず此方を見もせずぼーっとした目でトレーナーの方を見ていた。
「よーしっ、勝つぞー☆」
セイウンスカイ先輩の気の抜けるような声と共に、トレーナーがスターターピストルを頭上にあげる。私は体を前に軽く傾けて、左足を後ろに構える。流石にセイウンスカイ先輩もレースの体勢に入ったが、どことなく呆けていて真剣さを感じ取れなかった。
私は今回逃げでいくと決めた。先行策もあったがあのセイウンスカイ先輩と距離を離されて、自分のペースを守れるとは到底思えない。
「いちについて、よーい!」
突如隣から膨大なプレッシャーが放たれた。ぞわりと蛇に睨まれた蛙のように動けなくなり、スターターピストルの音さえ聞こえない。瞬間的に隣で風が吹いて、セイウンスカイ先輩がスタートしたことを知る。漸く私の体は反射的に動きだした。
やられたっ!セイウンスカイ先輩は今出せる力の中で本気で勝ちにくるつもりだ!気を抜いたところを見せて油断させたところを、スタート直後のプレッシャー。駆け引きと言う程のことでもない、ただそれだけの行為で、完全にブリッジコンプの脚を止めていた。
スタート時点で既に三バ身差。
「だけどこれなら!」
セイウンスカイ先輩はブリッジコンプの目からも少し遅い加速しかしていない。元々セイウンスカイ先輩は中距離以上を主戦場とする為短距離が得意ではない上に、自分の脚を気遣っているのだろう。
更に既に何周も走ったブリッジコンプだからこそ、このレース場の状況をよく知っている。トレーニングで芝は踏み荒らされ内ラチ側は状態が良いとは言えない。直線距離は2.5ハロン、コーナーまでで十分に差し切って先頭を取り返せる距離だ。
一気に強く踏み込み、内ラチに入らず外のままセイウンスカイ先輩の横を抜けるように目指す。
「甘いよ?」
思わず舌打ちする。追いつこうという瞬間、斜行にならないぎりぎりを完全に見極めてセイウンスカイ先輩はわずかに外にずれる。接触するわけではない。もう少しブリッジコンプが外にいけば抜かせるだろう。しかし、このタイミングでかわすと内ラチに入る前にコーナーに突入する。加速した状態でコーナーに入れば更に外に大きく膨れる形になって、差し返されることは容易に想像できる。仕方なくセイウンスカイ先輩の影に潜り込んで、風除けに使う。
望んだ展開にさせてくれるつもりはないらしい。
しかし……このペースなら勝てる。第一コーナーに入り、ブリッジコンプは徐々に再び外に出ると第二コーナーで抜かしにかかる。最終直線は短く、ここ以外で勝ち目のあるタイミングはない。直ぐにセイウンスカイ先輩と横並びになる。
「はぁぁアアアア!!」
最後の一押し!強く踏み込む!いける!
「それじゃあ、初体験行ってみようか♪」
隣に並んで漸く見えたセイウンスカイ先輩の口元には、深く挑発的な笑みが刻まれていた。プレッシャーが爆発的に跳ね上がった。
芝が消え、柵が消え、大地が消え、世界は海と空だけが残された
ウマ娘は海の上を走れない、当然の摂理
しかしセイウンスカイは海の上を当然のように走りながら勝利の二文字を釣り上げる!
アングリング×スキーミング
幻影は一瞬で霧散する。しかし、圧倒的な加速力を得たセイウンスカイ先輩は、追いつこうとしたブリッジコンプをぶっちぎって直線に入る。ブリッジコンプは完全に呆然としてしまって、手足は動いているものの先ほどまでの勝利への執念は霧散していた。こうなっては追いつける道理はない。
セイウンスカイ先輩がゴールを踏み越える。結果は三バ身差のブリッジコンプの敗北だった。完敗だ……勝てるかもという甘い考えは完全に打ち砕かれた。
「なーんと晴れやかな結果にー、おおっと」
ゴール直後に急にセイウンスカイ先輩がしゃがみこんだ。
「セイウンスカイ!」
大声を上げて、トレーナーがセイウンスカイ先輩に駆け寄っていく。あれほどの走りを見せたのだ、脚の不調が広がった可能性もある。だからといって、負けた私に構いもせず、担当でもないウマ娘に真っ先に全力疾走する様はなんだかちょっともやっとした。
「あーいや、大丈夫、大丈夫。新人トレーナーさんは近寄らないでくれるかなー?」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!チヨノオー、今すぐ119番だ!」
待って待ってと大慌てでセイウンスカイ先輩が立ち上がろうとして、再び直ぐに座り込んだ。どうもその様子は脚の負傷というより、羞恥心を感じさせる。スカートの隙間からちらりと覗いた水玉模様の布がなによりも雄弁に語っていた。
「トレーナー。セイさんは大丈夫だと思いますよ。パンツが破けただけなので」
「ちょっ!ブリッジちゃん!」
負けた腹いせに隠さず言ってやった。ウマ娘のパワーに人間用の下着が耐えられるはずもなく、トレーニングやレースでは専用の下着を着用している。しかし、今回セイウンスカイ先輩は私服での疾走だ。普通の下着をつけてきたのだろう。
「あー……その、本当か?」
「いやん。見ないでー、エッチ☆」
セイウンスカイ先輩に土下座するトレーナーを見ながら先ほどのレースを思い出す。成程、ああいうのはブリッジコンプには到底出来そうになかった。肉体的には勝っている筈のレースでさえ、初見では勝てなかった。どうすれば勝てるのだろうか?
ブリッジコンプ自身にはその答えが解らなかった。
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思った以上に書きたいことが多く最初の一週間が長くなりました。