京都の某病院。京都トレセン学園の直ぐ近くにあるこの病院は主にトレーナーやウマ娘の関係者が利用している。現役のウマ娘の不調などはマスコミからすれば格好の的ということもあって、内部は守秘されており見舞いだけでも一苦労である。この場所に海空トレーナーは搬送されていた。
此方のトレーナーとしての身分を確認した後———おそらく中央トレセン学園に確認をとっていたのだろう———三十分も応対を待たされた後に漸く面会が許可された。おかげで今週のヤングジャンプを読み終わってしまった。
オグリキャップを主人公にした漫画、シンデレラグレイは漸くスーパークリークに触れたところである。シンデレラグレイは国民的スーパースターであるオグリキャップ本人が監修ということもあって、人気を集め既にアニメ化の話まで持ち上がっている。子供ですらシンデレラグレイを読みたいがためにヤングジャンプを購入し、グラビアが載っていることもあってちょっとした問題になっているとか。
それはさておき、看護師にネームタグを渡されると二階へと案内される。そして、解っていたことだが通り過ぎるウマ娘の中には車椅子に座った痛ましい姿の子もいた。青栗毛の右耳にシュシュをつけたウマ娘。歯を食いしばって、手伝おうとする看護師の手を払い、車椅子を進める姿は凄まじいまでの執念を帯びていた。
彼女がまた走れるのかどうか解らない。そして今も彼女のようなウマ娘は無数にいる。
後ろ髪を引かれる思いだが、俺にはどうすることも出来ない問題だ。横を抜けて、先を行く看護師についていく。209号室、そこが海空トレーナーが入院している部屋だった。案内されるままに中に入ると広めの個室になっており、良い待遇をされていることが伺える。
ベッド脇にはバラとガーベラのまだ瑞々しい花が花瓶にさされ、直ぐ隣に罅の入ったスマートフォンと中央トレーナーバッジが置かれている。当のベッドにて半身を起こした女性が海空トレーナーなのだろう。長い髪、顔はやつれ気味だったがそうでなければ美人の部類に入る、痛ましい包帯が病院服の袖から覗いていた。
「初めまして。今セイちゃんを見ていただいている方……ですよね?」
初めましてと自己紹介を返す。幸いなことに、俺に対して忌避感はないようだった。俺の悪評が広まる頃には彼女はトレセン学園には居なかった。そして、アポイントメントをとるときに駿川たづなが上手い具合に伝えてくれていた。俺はあくまで寝取り野郎としてではなく、セイウンスカイがハードなリハビリをしないために様子を見ていただけ。何も嘘はないところが流石である。
「既に警察の方やトレセン学園側から聞き取りはあったと思いますが、今一度お願いしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
事情は知っている。海空トレーナー自身が、飲酒の上で突発的な衝動によって車道に飛び出したことを告白した。幸いなことに怪我は治療可能なものだ。ぶつかった衝撃で下腿骨を骨折。その後、頭を守ろうと突き出した腕が上腕骨を骨折、鎖骨も折れた。他にも打ち身など細々とした症状はあるものの七か月程度で完治する見通しだ。退院はもっと早いだろう。
問題は精神面にある。とはいえまずは事実確認からだ。
「今回の旅行の目的はセイウンスカイがレースを行った場所を見て回る為であり、京都に滞在した理由は天皇賞春をセイウンスカイが走ったからで間違いありませんか?」
「そうです。その……、セイちゃんとの契約を私が不甲斐ないばかりに解消されたので。一度見て回ろうと」
海空トレーナーはトレーナー業五年。最初に担当したウマ娘は戦績が振るわず、地方のトレセン学園へ二年で転入。傷心の時に出会ったのがセイウンスカイだったという。そしてそのまま勝ち続け、セイウンスカイが怪我を負った。才能のあるウマ娘と新人から毛が生えた程度のトレーナーにありがちな出来事とは聞く。俺も未来、そうなる可能性は十分にある。
問題はセイウンスカイの怪我が屈腱炎なことだ。かつてはウマ娘のガンと呼ばれていたが今でこそ、幹細胞移植、レーザー治療など医学の発展によって治療の見込みがない怪我ではなくなった。ブリッジコンプと走った時のように、遥かに格下と走れるくらいにはセイウンスカイも回復している。しかし、それこそ奇跡でも起きない限りシニアに出場するウマ娘と競り合うまでの回復は絶望的だ。時期も悪い。シニア期二年目はウマ娘の成長が止まる時期で回復力も当然落ちる。
「しかし、なぜ飛び出しを?」
「私が、私がセイちゃんの未来を潰してしまったんです。そう思ったら、私」
思い出したようにぽろぽろと涙をこぼし始める瞳は、花瓶の傍のトレーナーバッジを見つめていた。
「それでトレーナーバッジの返納を申請しようとしているんですね」
「……っはい。私にはトレーナーの資格なんて」
そうは思わない。悪い面だけを見れば確かに最初に担当したウマ娘を転校に追いやったし、セイウンスカイは引退しかねない怪我を負った。しかし……本当に才能がないのならクラシック二冠をとることなど不可能だ。自らで道を切り開くような天才的ウマ娘はいる。しかしセイウンスカイはそうではない、癖ウマ娘で手間のかかるタイプだ。そこが良いのだけれども、しかし、海空トレーナーが教え導いた事実は変わらない。
東条トレーナーあたりなら良い言葉を思いついて適切なアドバイスが出来るのだろうけれど。俺は新人トレーナーに過ぎないから、思いついても適切ではない。とはいえ海空トレーナーがトレーナーを辞めるというのは想定される中で一番最悪の結果だ。だから見たことを正直に話すことにした。
「セイウンスカイはまだ海空トレーナーに未練たらたらですね。俺のことは新人トレーナーさんとしか呼ばないですし、トレーナーさんって呼ぶのはたった一人と決めているんだと思いますよ」
「それ、は」
「それにまだ走りたいと思っているみたいです。うちのブリッジ、担当の子をコテンパに負かして嬉しそうにしてましたし。バクシンオーには流石に怪我のこともあって負けましたけど、自分の脚で走れる限界をきちんと見極めた上で走って凄く悔しそうにしていました」
「……」
「担当の二人はどちらも逃げウマ娘なんですが、やけに先輩風を吹かせたがりますし。にこにこ笑って飄々とした態度でいるけれど、まだ勝ちたいと思っています。ああでも、やっぱり自分で来るって言ったのにさぼるところは相変わらず」
指を折ってセイウンスカイの話を一つ一つ上げていく。海空トレーナーの視線はもう、トレーナーバッジから外れて此方をじっと見て話を聞いていた。俺が話し終えると、海空トレーナーはふぅと長い息を吐き出した。
「セイちゃんは、まだセイちゃんのままなんですね」
「新人トレーナーの言葉なので薄っぺらいかもですが、人もウマ娘もそう簡単に変わらないと思いますよ」
沈黙が下りた。さてこれでダメそうなら本格的に東条トレーナーに連絡するか、最悪沖野トレーナーに貸しを返して貰うかだ。残念ながら秋川やよい理事長や駿川たづなは大人物過ぎて動けば海空トレーナーの事情も自ずと広まってしまうらしく事前に断られていた。
「あの」
「はい」
「セイちゃんを、少しの間貴方に預けるというのは駄目でしょうか?」
「それは……、俺はまだ新人トレーナーですし二人も既に担当がいます。その大変さは解っていただけるかと」
俺の考えは一貫して変わらない。担当はブリッジコンプと、サクラバクシンオーだ。二人ともデビューしたら忙しさは今の比ではなくなる。これ以上抱え込めば何もかもが中途半端になって結果的に後悔することになるだろう。
「そうですよね。御免なさい。預けるだなんて、もう私は担当じゃないのに」
海空トレーナーの目からわずかに灯った光が急速に失われていく。このままではいけないと、慌てて口を開いた。
「とりあえず、結構日が空いてしまうかもしれませんが、今度はセイウンスカイを連れてきます」
「でも」
自分のこのような姿を見せたくないという気持ちがありありと浮かんでいた。しかし、駿川たづなが言っていた通りあくまで海空トレーナーの事情を隠すのは時間稼ぎだ。何時かは発覚するものであり、その時当事者たちから言われるのとセイウンスカイ自身が気づくのでは心理的に変わってくる。後者の場合まず真っ先になぜ隠したんだという不信感が生まれるだろう。
「自殺未遂ということは当然伏せます。あくまで不慮の事故にあっただけと伝えます」
そこはもう仕方がない。
「どうするにせよ。もう一度二人は話し合うべきです」
「わかりました。ありがとうございます」
逡巡の後に、結局ぺこりと海空トレーナーはお辞儀をした。
まったく俺には不相応というか、どういう立場でという話だが致し方ない。偉そうな口を叩いて誤魔化したが、海空トレーナーが精神的に不安定だったところを付け込んだ形だ。いくつかその後も海空トレーナーと会話を交わして病院を出た。
大きく伸びをして、空を見上げる。生憎曇天で快晴とはいかなかったが、バ場状態は良と判定が出ている。腕時計を見れば14時半ともう1時間ほど始まるまで時間があるが急がなければ、トレーナー優先の最前列でさえ埋まりきってしまう。
そうこの日始まるのだ。
GⅠ天皇賞春 五月 京都レース場 芝右外3200m 15:40発走
黄金世代に続く形でシニア期に入り、絶頂を迎えた世紀末覇王テイエムオペラオーの伝説が始まる。
淀の坂と呼ばれる難所が第3コーナーに待ち受ける京都レース場。既に観客は超満員であり、入場規制が敷かれている。パブリックビューイング会場でさえ人で溢れかえっているらしい。スマートフォンの電波すら通じない状況にある。ジャパンカップでの長い日本ウマ娘の敗北により、一度は低迷したウマ娘のレースだったが黄金世代によって再び興隆した。
「国民的エンターテイメントスポーツ、トゥインクルシリーズ実況は私赤坂と、解説は細江さんでお送りします」
「よろしくお願いします」
「さぁ今年もやってまいりました、天皇賞、春!少し雲の様子が心配ですが、予報によれば雨は降らないようですね。昨年のスペシャルウィークの好走は記憶にまだ鮮明に残っております。今年も春の爽やかな風に背中を押されて気持ちの良い好走を期待したいところです!」
解説のはきはきとした声が響き渡る中、俺はなんとかトレーナーバッジを見せつけながら最前列に潜り込んだ。こういうところは中央トレーナーの特権である。昨年も一昨年もエアシャカールとファインモーションに無理言ってねじ込んで貰ったが今年はそうする必要もない。
既に俺以外にも多くのトレーナーと、付き添われたウマ娘達が今か今かと楽しそうに話していた。海空トレーナーとの面会という事情があったため、ブリッジコンプもサクラバクシンオーも連れてくることが出来なかったのは本当に残念である。あとで京都レース場限定テイエムオペラオーグッズを買って帰るとしよう。
「それで、やっぱりいるのか」
チームリギルは俺のいる位置からはかなり離れたところに陣取っていた。シンボリルドルフやマルゼンスキーという偉大なウマ娘の存在によって、辺りのトレーナーやウマ娘が気圧されて少し空間が空いている。東条トレーナーは専用ゲートでテイエムオペラオーと直接話しているのだろう。観客席には居なかった。
シンボリルドルフが此方を向いた気がした。すっと、視線が合うのを避ける。この前の見学の時以来、妙に苦手意識を覚えている。
次々とウマ娘達がカーテンの向こうから出て紹介されていく。GⅠということもあってすべての出走するウマ娘が勝負服である。盛大な歓声がいずれも上がるが、やはり一番地鳴りにも思えるほどの歓声が巻き起こったのは五枠五番だった。
「一番人気はこの娘、テイエムオペラオーです!」
きらきらと花びらを舞い散らせながらそのウマ娘は現れた。桃色の外套をはためかせ、珍しく両耳に飾りをつけた王子。歓声でまったく何も聞こえないが、唇を見るに自分を称える歌を歌っているらしい。おかげでお披露目も他のウマ娘より長く、そしてそれが許されるだけのプレッシャーを持っていた。遠くから見てもわかる脚の張り、仕上がり具合は見事の一言につきる。
皐月賞を勝ったのち、長らく二着、三着が続き勝ちきれないウマ娘といわれてきた。しかし今年に入り GⅡ京都記念、GⅡ阪神大賞典に勝利し大きく成長を見せた。そしてみる限り、テイエムオペラオーに匹敵するウマ娘はこの場にいない。
しかしいずれもブリッジコンプや、サクラバクシンオーでさえ比ぶべくもないプレッシャーを持ったウマ娘達が並ぶ。勝負は時の運、まだわからないだろう。なにより三番人気のラスカルスズカはその鹿毛を風のままにたなびかせ緊張の様子が見られない。好走が期待できる。
ファンファーレが鳴り響いた。
「すべてのウマ娘が態勢整いまして今ゲートに入りました。天皇賞春のトライアルレース、阪神大賞典を制したテイエムオペラオー。この天皇賞春を制することはできるのか。大きな歓声に包まれて、今スタートしました!」
バンッ!ゲートが開く。
先行争いは早くもタマモイナズマ、レオリュウホウが前に抜け出る形。先行集団から二バ身離れた位置でテイエムオペラオーはじっと前の様子を伺っている。元から最終直線の競り合いに強いウマ娘である。中団の位置につけてマークする相手をじっくり観察するつもりだろう。
後列は早くもばらけた展開で、少しペースが速い様にも思える。
コーナーに入る。観客スタンド前にきたことでよりはっきりとウマ娘達の表情が伺える。タマモイナズマが先頭だが、レオリュウホウとの競り合いがあった。3200mという未知の距離、そして淀の坂を前にしてこのままのペースだとスタミナを切らさないか心配だ。
「かなり縦長の展開になりました。後ろの子達は間に合うのでしょうか?少し心配になる距離です」
「京都レース場といえば淀の坂。やはり差しや追い込みの子達は脚をいつもより多めに残しておきたいようですね」
殆ど位置が変わらず一周を終えていよいよ淀の坂へと突入する。4.3mの高低差はコーナーを曲がりながら気軽に駆け上り、下れるものではない。最もコーナーが上手いウマ娘がイニシアチブをとる。ステイゴールドが綺麗にコーナーを曲がり、徐々に前へと詰めだしていく。テイエムオペラオーも負けじと前へ前へと脚を使いだした。
「さあ、集団は固まって混戦状態となりました!」
「紛れが出てしまうかもしれません」
先頭は現在レオリュウホウ、しかしその差は僅か。テイエムオペラオーは三番手、そして二番手へとぐんぐん上がっていく!
ラスカルスズカ、ナリタトップロードから凄まじいプレッシャーが放たれた。セイウンスカイの言う共に走るウマ娘だけが見ることが出来る領域が放たれたのだ。ナリタトップロードは一気に一番手へ。しかし、テイエムオペラオーはまだ使わない、二番手で抑えている。
条件を満たすのを待っていたのだ。トレーナーの瞳の奥でばちりと黄金の輝きが視界で弾けて、今度こそ見えた。
ナリタトップロードの時計を踏み台にして、敗北という闇を打ち砕きながらスポットライトは今ただ一人に向けられた。
「どんな闇が行く手を阻もうとも!輝いて見せようッ!!」
ヴィットーリアに捧ぐ舞踏
「テイエムオペラオー、テイエムオペラオーだぁあああ!!」
大歓声が巻き起こった。
なるほど、見えたことで納得した。あれはブリッジには出来ない。
評価有難うございます。