トレセン学園にある空き教室。今日は休息日でもないのに、トレーニング場ではない此処にブリッジコンプとサクラバクシンオーが集められていた。春の天皇賞は休息日をずらして休みだった。連れて行ってくれれば良かったのにトレーナーは一人で行ってしまったので少し不満である。旅費を捻出するのは、実家が太いサクラバクシンオーは兎も角。ブリッジコンプには困難を極めるので結局行けなかっただろうけれど。
トレーナーが来る前から、相変わらず当たり前のように駿川たづなが部屋の隅に立っていて、にこにこと笑っているのもモヤモヤするがもうそれは仕方ない。何時ものことだ。机は端に避けられ、サクラバクシンオーと並んで黒板を向いて座って待っていると、漸くトレーナーが訪れた。
「待たせて悪い。駿川さんもいつも有難うございます」
「いえ、ご迷惑を此方もおかけしていますから」
意味ありげな口調だった。そういえばセイウンスカイ先輩がいない。今日は呼ばれていないのだろうか?
「さて今日の話題は本題と副題の二つある。まずは副題の方から話すとしよう。君たちは既に沖野トレーナーから話を聞いていて、俺は今までそれに触れてこなかった。セイウンスカイがトレーナーとの契約を解消したことについてだ」
漸くトレーナーが触れてくれることに安堵する。ワイスマネージャーに相談したりして、なんとか平静を保っていたものの日に日に疑念は強まっていった。そのことで最近はセイウンスカイ先輩にあまり良くない態度をとってしまうことも多かった。飄々とした態度で誤魔化されるので猶更だ。明日にでも詰め寄ってしまうところだっただろう。
「まずはある程度予測していると思うが事情から話す」
トレーナー曰く、セイウンスカイ先輩は怪我のリハビリが上手くいかず担当の海空トレーナーと折り合いがつかないことで契約を解消した。そのことで傷心した海空トレーナーはセイウンスカイと一度距離をとるため、旅行に出発したものの。旅行先で偶然に交通事故にあい、長らくセイウンスカイとの再契約の機会を逃してしまっていた。
なにか誤魔化している?トレーナーの内心は読めない。駿川たづなに視線を向ければ、わずかな揺らぎから確信する。
ここで誤魔化されてしまうのが一番楽なのかもしれない。けれど、今のブリッジコンプは一歩踏み出す気になっていた。普段ならしなかっただろうけれど、ワイスマネージャーへの相談と隣にいるサクラバクシンオーが何よりも心強い存在だった。
「あの、待ってください」
「ん?」
「本当のことを、お願いします」
少しだけトレーナーが驚いた顔を見せて、深い笑みを見せた。優しさの中にどこか獰猛さを感じさせる、ウマ娘が放つようなプレッシャーをトレーナーは持っている。トレーナーは言葉とは裏腹に、謝意を感じさせないまま駿川たづなに向き直った。
「申し訳ありません、駿川さん。俺は別に海空トレーナーにも、セイウンスカイにも誤魔化すのも構わないです。けれど、担当が自分から追及したいと思うなら誤魔化すべきではないと思います」
「仕方ありませんね」
はぁ、と一つため息を吐きだしてから、駿川たづなは頷いた。さて、とトレーナーは改めて口を開く。
「自殺未遂だ。海空トレーナーは傷心の結果、自分から車に撥ねられた」
「ちょわ!?」
サクラバクシンオーと違ってブリッジコンプは声を出さなかったが、声を出してしまいそうな程の衝撃の事実だった。
「セイウンスカイの怪我を悔やんでそもそも再契約について考えていなかった。会いに行ったらトレーナーバッジを返納しようとしていた。今は思いとどまっているがどうなることやら。それから、俺にセイウンスカイを預けようとも言ってきたが、断った」
動揺が過ぎ去った後。断ったというトレーナーの言葉に、いけないと思っても暗い歓びがブリッジコンプの中で湧き上がるのを感じた。下を向いてスカートの裾をぎゅっと握りしめる。悲劇的な話だ。本当なら隣のサクラバクシンオーのように、海空トレーナーの心配をしなければいけないのに。
「症状は、軽くはないが治療できる範囲内だ。来年以降まで響くことはない。とはいえ精神面の課題はまだ残る」
はっとなって、顔を上げる。トレーナーを見ると、サクラバクシンオーへと答えている筈なのにじっと此方を見つめる目と目が合った。見透かされている。じんわりと汗が噴き出して息が詰まる。視線を外すことが出来なくて、漸くトレーナーから視線を外されることで息を吐き出せた。トレーナーは先ほどの視線などなかったかのように何時もの優し気な雰囲気に戻った。
「このことはセイウンスカイには伝えていない。君たちも秘密にするように、特にバクシンオー」
「むむむっ!トレーナーさん!私は秘密を守るのも優等生ですよッ!」
「ブリッジがフォローしてやってくれ」
「解りました」
トレーナーさーん!!と詰め寄るサクラバクシンオーを手で抑えているトレーナー。ブリッジコンプは返事をしながら心の平静をなんとか取り戻して、胸元にパタパタと手を振って風を送る。バクバクと鳴り響く心臓の鼓動が漸く納まっていく。
確かにサクラバクシンオーに誤魔化すということは出来そうにないし、セイウンスカイ先輩を前にして変に動揺してしまうに違いない。
「流石に俺も無関係ではもうない。二人ともセイウンスカイには世話になったし事情が事情だ。海空トレーナーが退院するまでは週1で休息日にリハビリに付き合うことで、秋川理事長とは合意した。後は、セイウンスカイがどうしたいか次第だな。ただ勿論、ブリッジとバクシンオーを優先する。それは確実なことだ」
落ち着いてから安堵してしまった自分への嫌悪感が湧き上がる。どうしようもないウマ娘だ、本当に。
「ああそれと本題に入る前にこれがお土産だ」
トレーナーが思い出したように鞄を開けると、テイエムオペラオーの京都レース場限定時計が二つ、更にキーホルダーに、ぬいぐるみと出るわ出るわ。
「確か、ブリッジはこの前目覚まし時計を壊したんだったな」
目覚まし時計を壊した喧嘩以来、なんだかんだで買っておらず今はワイスマネージャーに毎日起こしてもらっているのが現状だ。ワイスマネージャーは目覚まし要らずなのである。しかし……、トレーナーが試しに時計を鳴らすとテイエムオペラオーの「おはよう。今日も美しいボクの歌を聞いて目覚めると良い、プリンセス」という音声に加えてオペラが流れる仕様だ。流石に使いにくいというか、正直要らない。
ワイスマネージャーにあげたら喜びそうだが、問題は同室なので使用されると毎朝これで起きる羽目になる。ついでにトレーナーは駿川たづなにテイエムオペラオーの抱き枕をあげていたが、流石に駿川たづなといえど困った顔をしていた。
もしかしなくてもトレーナーの趣味は悪いのかもしれない。
「さて、本題に入ろうか。来月メイクデビューがある」
トレーナーが大きく黒板にメイクデビューと書いた。そういえばそうだ。もう一か月もない。なんだか変な感じだ。このまま、変わらない日々が続いていくとさえ自然に思いこんでいた。しかしブリッジコンプのレース人生が漸く始まるのだ。自然と体に力が入る。
「まだ出走登録はしていないが、二人とも出場する距離を決めてくれ」
普通トレーナーがこういうのは決めるのではないだろうか?疑問をそのまま口に出した。
「私たちが決めていいのでしょうか?」
「ああ、構わない。勿論俺のお勧めを聞いても良いがな」
トレーナーが黒板に文字を書いていく。芝に限れば代表的なものは短距離1200m中山、中京、札幌。マイル1500m札幌。マイル1600m京都、阪神、東京、中京、新潟。マイル1800m函館。中距離2000m京都、阪神、中京、新潟、札幌。などなど以上から距離を選ぶと自動的にレース場を割り振られることになる。
「あまり長距離を移動すると気候の違いで体調を崩しやすくなるから、その分慣らしも必要になるしどう転ぶかわからない。札幌でしかやっていないマイル1500mと、函館でしかやっていないマイル1800mは辞めた方が良いだろう。別に中距離に挑戦しても構わない、負けて良いとはまったく思わないが……メイクデビューはまだ取り返しがつくレースの一つだ」
なぜなら未勝利戦があるからとトレーナーは続けた。多くの重賞は出場できる時期が決まっていて、最も有名なのがクラシック三冠だ。それらと比べれば確かに取り返しのつくレースと言えたがブリッジコンプは絶対に負けるつもりがなかった。
「私はトレーナーさんに決めていただきたいと思いますっ!」
吟味せず真っ先にサクラバクシンオーが言った。トレーナーのことを完全に信じ切った様子だ。私は少しだけ迷った。世代の中距離は今や魔境と化している。そして中距離からあぶれた超一流とは言わずとも一流の才能を持ったウマ娘達がマイルに流れてきている。少なくとも配慮されてサクラバクシンオーと同じデビュー戦に出ることはないそうだし、後ろ向きの理由で短距離が良いと思った。
「私は、短距離が良いです」
「うん。なら二人とも短距離で申請しておく。さて折角教室を借りたから、ちょっとした座学をやろうと思う。今までは基礎トレーニングを中心として組んで、少しだけスタート練習もやったけれど、本番のレースプランについてだ」
スタート練習は、ブリッジコンプはダメダメだった。セイウンスカイ先輩と、そして割合多くのウマ娘と違ってゲートに入ることは嫌ではない。むしろお手本を見せようとしたセイウンスカイ先輩は途中で引き返したくらいである。ウマ娘は狭い所が苦手な生き物なのだ。
すんなり入ったブリッジコンプだったがいざスタートしてみると、やはり周囲が気になって出遅れかかかってしまう。嫌でも一緒にスタートするウマ娘の調子やプレッシャーが伝わってきてしまうのだ。色々な対策も試したが全くの無駄。トレーナーもこれには頭を抱えて、とりあえず先送りになった問題だった。
閑話休題
「逃げには、普通のつまり最初にリードをある程度保ってから残った体力で勝ち切る以外にも三パターンある。まあ、逆にいえばそれしかない。はい、バクシンオー答えて」
「バクシン的逃げです!」
「うん、つまり大逃げってことだね、一つは正解。ブリッジは?」
急に振られて少し考える。ツインターボやセイウンスカイ先輩を考えれば思いついたのは。
「あとは逃げ差しでしょうか?あとの一つはその、解りません」
良い答えだとトレーナーは頷いた。トレーナーは一度黒板を消して、それから大逃げ、逃げ差し、ペース逃げと書いていく。大逃げは文字通り序盤でスパートをかけてレースをハイペースに引きずり込み、自分も後ろのウマ娘もばてさせることで勝つ破天荒な走法。
逃げ差しはトリッキーな逃げで一度大きく逃げてからペースを落とし脚を溜めて、再度逃げることで後列のペースを崩す。実力、知略いずれも兼ね備えたウマ娘だけが出来る走法であり、種が解れば対応されるので多用は出来ない。
「ペース逃げは、説明するのが難しい。一般用語でもない。単純に言えば勝ち切れるタイムのペースを正確に走れば勝てるって走法だな」
それが出来たら苦労しないのでは?という苦言にトレーナーは頷いた。ただトレーナーは実例を知っているかのような口ぶりだった。
「それ以外にも中には普通に大逃げしてから、再加速するようなサイレンススズカもいるがあれは例外だ。本人の特別な性質も必要だし、脚を壊しかねないから俺は勧めない。というか多分、二人には出来ないだろうから上げていない」
今現在海外にいっているサイレンススズカ先輩……そういえば、粉砕骨折したのだった。以来奇跡的に治療に成功したものの、前のような走りはしなくなった。それでも普通の逃げをやらせても早いのだから、流石というか才能が凄まじい。
「さて二人とも逃げの戦法が自分だけなら、其々が好きなように逃げて構わない。最初の本番で小細工なんて思考吹っ飛ぶだろうからいらない。今の成長曲線なら、短距離1200mなら最初から飛ばしても走りきれるように本番当日までにはスタミナもつく」
ただ、とトレーナーは言葉を続けた。
「ただもし他に調子が良さそうな逃げウマ娘がいたら、序盤はハナは譲ろう。その判断はレース直前になって指示する」
逃げという戦法はハナをとらなければ後はもう勝つことが難しい戦法である。自分のペースで逃げることが出来ないし、先に走るウマ娘を途中でかわさなければ勝ち目がない。そしてかわすということはその分外に膨らむということで、折角の内ラチの距離的優位を手放すことになる。疑念の眼を向けるとトレーナーは解っているとばかりに指摘した。
「まずそもそもブリッジ。なんとかする手段は漸く思いついたが、まだスタートダッシュが解決できていない。本番なら猶更失敗しやすい。それだけ練習と本番というものは違う。逃げだからとハナをとろうとして焦れば絶対に出遅れるかかかる」
マイナス方面の信頼だった。むくれる私にトレーナーは苦笑いした。
「来月までにぎりぎり治らない目安だし仕方ない。サクラバクシンオーは……」
「はいッ!なんでしょうか!」
「君に勝てるスプリンターウマ娘は同世代にいないと確信できる。先手くらいハンデのつもりで勝て」
「解りましたッ!トレーナーさんに私が如何に優等生か見せるとしましょう!」
トレーナーからのサクラバクシンオーへの信頼が悔しかった。けれど仕方ない、事実だ。同世代の短距離を走ると目される子において、サクラバクシンオーは群を抜いている。抜きすぎている。そこは見せて貰ったワイスマネージャーのデータ分析からも証明されていた。
「利点はある。今までのトレーニングで確信したけれど、ブリッジもバクシンオーも近くに逃げウマ娘がいるとやっぱり良いタイムが出る。それと二人とも逃げ戦法だから本番の状況を練習し易いというのもある」
成程と納得できる理由だった。先行以降のウマ娘に干渉される心配がない逃げウマ娘だからこそ、ブリッジコンプとサクラバクシンオー、それから心外だけれどもセイウンスカイ先輩がいれば本番さながらのトレーニングが成立する。唯一嫌な点は模擬レースとなると毎回ブリッジコンプが負けることくらい。
「自分だけがレースをするわけではないから、何れ必ず他の逃げ戦法と当たることになる。その時ハナをとられて慌てても手遅れだ。早めに経験しておくと良いと思う」
それから30分だけ座学は続いて、着替えてから通常のトレーニングを行った。メイクデビュー、まだ実感が持てないけれどその時は確実に近づいていた。
誤字報告有難うございます。