光がそこにはあった。海の底でブリッジコンプは揺らぐ光を見上げて、ごぽりと息を吐き出す。不思議と恐怖や苦しさはなくて、どこか安堵があった。あたりを見渡せば幾つもの星々が輝いている。赤いもの、青いもの、緑のもの、白いもの、黒いもの、紫のもの、黄のもの。大きいもの、小さいもの。輝くもの、弱弱しいもの。
ゆっくりと星々は天へ向かって昇っていく。ブリッジコンプも水をかいて、暗い底から昇っていく。視界の中で特に大きな星が鯨となって、啜り泣くような鳴き声を上げた。次々と星々が魚やイカ、マンボウ、クラゲ、タコ、ヒトデにかわる。魚たちの群れがぐるぐると回る。
ざぁざぁと波の音が聞こえてくる。もうそろそろ海の外だ。あの向こう側にはなにがあるのだろうか?そう思った時、きらきらと天から光が降ってきた。黄金の光、驚いてブリッジコンプはごぽりと大きく息を吐き出した。空気の塊に押し出されて黄金は遠くに流されそうになる。
誰かの落とし物だろうか?辺りを見渡しても誰もこの黄金に目を留める者はいなくて、ブリッジコンプは自然とそれに手を伸ばした。
「っ……!」
知らない天井。視界の中に伸ばした自分の右手が映る。鼻につくアルコール消毒液の匂い。白いカーテンが辺りを覆っている。何時もより硬いベッドに、ブリッジコンプは漸く横を向くとそこには雑誌を読んでいるトレーナーがいた。視線が此方を向いて、目と目が合う。穏やかな目だった。
「こんにちは。といっても16時半だけど、昼寝にしてはちょっと長いか。セイウンスカイの癖、移った?」
思い出していく。そう、確かニシノフラワーにレースで負けて、それ以来意識がない。負けたのか、私。記憶を掘り起こすと真っ黒な感情が心を埋め尽くしていく。呼吸が上手くできない。ばくばくと心臓の鼓動が上がった時、手を誰かに掴まれた。誰かじゃないトレーナーだ。
「ゆっくりと息を吸って吐くんだ」
すぅーーはぁぁと吐くと、少しだけ心の黒いものが解けていく。
「俺が追い詰めすぎたな、すまない」
「そんなことっ!」
私が悪いんだ。あんなにトレーニングをして、一度も怪我も故障もしなかった。的確なトレーニングで、ブリッジコンプの最大値を引き出していた。それなのに負けた。負けたのは完全にトレーナーのせいじゃなくて、ブリッジコンプが弱いからだった。
才能がないからだった。
「シンボリルドルフは俺に勝つのはウマ娘個人の責務だと言った、でも俺はちょっと違うと思う」
会長が正しいと言おうとして、けれど。その声は何時もの様に優しくて、同情やブリッジコンプに阿ったものではなく、ただただ自分の考えをそのまま伝えるようだった。だからブリッジコンプは何も言い出せなくて、トレーナーの言葉を聞くことしかできない。
「勝つのはウマ娘の功績でも、負けたのはトレーナーの責任だ。間違いなくあの時、ブリッジは最高を出していた。トレーニングの時よりも良いタイムが出ていた。だからブリッジの責任はないんだ。俺が勝つために必要な分のブリッジの限界を引き出すことが出来なかった、それだけの話なんだ」
熱いものがこみあげてきて、思わずブリッジコンプは怒鳴った。トレーナーに対しては初めてのことだった。
「違う、私が、才能がないから。バクシンオーは勝った、勝ったんだよっ!!」
同期で、内容は違うとはいえ量は同じトレーニングをこなしたサクラバクシンオー。元から差はあったけれど、更にどんどん差は開いていってしまった。もう今ではサクラバクシンオーに絶対に勝てないと思ってしまう程の差だ。残酷なまでに成長曲線という形で才能の差が明らかになった。
本気で振り払おうとしたトレーナーの手。なぜか振り払うことが出来なかった。ブリッジコンプの方が遥かにトレーナーより力が強いというのに、強く握りしめてくる。
「ああ凄いな。本当に眩しいくらい凄い奴だよ、バクシンオーは。けど俺は今でもこう思ってるし今日の走りで確信した」
「ブリッジコンプはGⅠに勝てるウマ娘だよ」
当たり前のようにごく自然な口調でトレーナーは言い切った。その言葉に、その顔に、その瞳にぞくりとする。トレーナーの瞳の奥に黄金が瞬いて見えた。ブリッジコンプは完全に呑まれてしまって、激情がゆっくりと抑え込まれていく。
「……そんな、こと。だって…トレーナー、泣いたじゃない」
負け惜しみのように口にする。
「ああ、泣いた。まさか俺も泣くなんて思ってもなかった。本当は入着して凄い、もう少しで勝つところだったって褒めるつもりだったんだ。でも、悔しかった。ブリッジが負けて悔しいと思ったんだ」
トレーナーはブリッジコンプの代わりに泣いたんだと漸く解った。ブリッジコンプはただただ暗い感情に押しつぶされて何も考えることも出来なくなっていた。悔しがることすら出来なかった。だから代わりに。目尻が熱くなって、視界が歪んでいく。
「うぁ」
負けたという実感が込み上げてくる。声にならない声が漏れ出して、嗚咽に代わった。自然とトレーナーの手を強く握りしめてしまって、痛いだろうにトレーナーは全く声も上げなかった。ただじっとブリッジコンプと視線を合わせ続けている。
「ブリッジ、俺と一緒にGⅠを取ろう」
ぼろぼろと止めどなく涙が溢れてくる。シーツで頑張って拭っても、走った後だというのに、どこからそんなに水分があるのかわからないくらいに。ブリッジコンプはトレーナーから瞳を外すことはなかった、トレーナーもブリッジコンプから瞳を外すことはなかった。
何分経っただろうか。漸く涙は涸れて、トレーナーとブリッジコンプの手は離れた。トレーナーの右手はウマ娘の力で強く握られたので、今もぴくぴくと指が痙攣している。トレーナーは気にした様子もなくゆっくりと白いカーテンを引いた。
やはり、ここは札幌トレセン学園の保健室らしい。あの後気絶して運ばれたのだ。ブリッジコンプは冷静さを取り戻して、思い出した。
「そういえばウィニングライブ……」
「ああ、代わりに三着と四着の子が踊っていたよ。今度落ち着いた時にニシノフラワーもだけど謝りに行くと良い。随分心配していたからね」
本当に悪いことをしてしまったと思う。誰だって本来踊れない筈のウィニングライブを、欠員が出たからって踊れなんて言われたら気分は良くないだろう。三着の子マイネルザグレートだって、予定とは違うパートを踊ることになった。迷惑をかけてばっかりだ。
病室の端にはサクラバクシンオーが鼻提灯を作って、椅子に座ってバクスイしていた。トレーナーはどうしたものか困ったように見つめて、考えた後お姫様だっこする。右手の指がブリッジコンプのせいで使えなくて、少し大変そうだった。抱えられたサクラバクシンオーは安心しきっていて、起きる気配はなかった。
「それじゃあ俺はバクシンオーを寮に寝かせてくる。ブリッジは此処にいても良いし、自分の部屋に戻ってもいい。ストレスと疲労による失神だったから後遺症もないだろう」
「此処に、もう少し居ます」
「わかった。また直ぐに様子を見に来る。冷蔵庫にスポーツ飲料があるから勝手に飲んでいいそうだ」
トレーナーは苦労しながら足で横開きの扉を開けて、病室を出ていく。ブリッジコンプはそれを見送って、ゆっくりと体を起き上がらせた。シーツをのけると、やはりまだ寒い。着ているのは体操服ではなく、持ってきたパジャマだった。もしかしてトレーナーが着替えさせたのだろうか?でもトレーナーなら表情を変えることなくやりそうだなとも思う。
近くにスリッパがあったけれど、ブリッジコンプはあえて裸足で立ち上がった。ひんやりとした感触が脚から伝わってくる。
「私、バカだなぁ」
本当にバカだ。どうしようもない大バカ者だ。沢山迷惑をかけた。けれどどうしても、夢を諦めきれない。GⅠ勝利という夢はもはや両親のものではなく、明確にブリッジコンプ自身のものとなっていた。
冷蔵庫からペットボトルを取り出してキャップを開ける。一本分を一気に飲み干すと体中に水分が広がっていく。
窓の外を見ると日が徐々に沈み始めていた。遠くで地元のウマ娘達がジャージを着て一列に走っていく。この景色は東京じゃ見られないだろうなと思って瞳に強く焼き付けた。敗北と後悔と、再起の景色だ。ふと、なにか大事な夢を見た気がしたが、ブリッジコンプは思い出せなかった。ただ学園に帰ってやるべきことは決まっていた。
中央トレセン学園に戻ってブリッジコンプが真っ先に会いに行ったのはワイスマネージャーではなく、セイウンスカイだった。悪いことに丁度雨上がりだった為、どこにいるかわからなかった。多分どこかのお休みポイントだと当たりをつける。前にワイスマネージャーから教えて貰ったセイウンスカイの目撃ポイントを一つ一つ探していく。
そして結局見つけたのはセイウンスカイがトレーナーと出会った場所だった。雨上がりの独特な匂い。公園の奥まった場所、二つだけ並んだベンチの片方に尻尾が垂れて揺れている。私の足音に気づいて、ベンチに寝転ぶセイウンスカイは此方を向いた。
「おー☆ブリッジちゃん、惜しかったね」
耳が早い。
「お久しぶりです、セイさん。いいえ、完敗でした」
青い瞳がじっと此方を見つめる。ブリッジコンプは最近セイウンスカイにあまり良い態度をとってこなかったから。本当に自分は大バカ者だった。セイウンスカイという凄いウマ娘の指導を、真面目に受けなくて全力を尽くしただなんて言えないのに。結局負けたのはトレーナーがブリッジコンプの限界を引き出せなかったわけではなく、ただのブリッジコンプのエゴだ。そう思うことにした。
「あれれー?うんうん、そうかぁ」
一人で勝手にセイウンスカイは頷いて、嬉しそうに目を細めた。
「私は」「セイさんに」
言葉をかぶせる。
「セイさんに私は良くない態度をとりました。申し訳ありません」
頭を下げたブリッジコンプ。セイウンスカイはよいしょと掛け声と共に跳ねるようにベンチから起き上がる。それから両手でブリッジコンプの頬を包むと、顔を上げさせて頬を撫でまわし始めた。目と目が合う。見たことのない申し訳なさそうな表情をしていた。
「うりうりうりー♪別にブリッジちゃんが気にすることじゃないよ。当然の態度だもの。私は」
少しだけ躊躇ってセイウンスカイは話し始めた。
「私は新人トレーナーさんを見て、ああ、運命だなって思っちゃったんだ。そうだね~、多分スーパークリーク先輩が担当トレーナーと感じたのと同じものだったと思う」
聞いてない、と言葉を吐き出そうとする私の口をセイウンスカイの人差し指が抑える。
「でも私は私のトレーナーさんがいて、丁度レース人生ももう終わってしまった時期だった。遅すぎたんだよ、しくしく」
柔らかな表情の内側に、重苦しく沈む感情があった。ただセイウンスカイの中で、折り合いが着いていないことだけは解った。黄金の瞳と青い瞳が合う。ゆっくりとセイウンスカイは自分を初めて曝け出していく。
「あ~あ、私のトレーナーさん。お休みしているといつも追いかけまわしてくるし、サボると次の日はキングに頼んで簀巻きにしてきた。人のことを色々言うのに自分も抜けていて、夏休みに合宿の予定を入れ忘れたり、菊花賞の時なんて遅刻しかけたし、」
愛おしそうにセイウンスカイはトレーナーとの三年間の思い出を口にする。
「一緒に駆け抜けて、一緒に笑って、一緒に悔しんだ。トレーナーさんのことを良く知っていて、能力も知っていた。見比べちゃったんだ。ああなんだ、私のトレーナーさんじゃなく運命の新人トレーナーさんなら、こんな脚にはならなかったかもしれないって。きっと今もスぺちゃんや、エルや、キング、グラスちゃんと一緒に走れたんだろうなって、思っちゃったんだ」
涙はない。けれど青い瞳の奥にはどこまでも自罰的な感情が込められていた。そう思ってしまう自分が嫌いだと叫んでいた。
「あらら~ですよ。だからブリッジちゃんに八つ当たりしちゃった。ブリッジちゃんが嫌なのは解っているのに、居るべきではない場所に居座った」
ああなんだ。サクラバクシンオーは何時だってトレーナーを運命の人と呼んでいた。きっと、東条トレーナーが語ったように本当に運命的出会いだったのだ。この人しかいないと確信したのだ。そして遅れてしまったけれど、セイウンスカイも同じモノを感じたのだ。スーパークリークとは違って、ただトレーナーだけが感じていないに過ぎない。
けれど、ブリッジコンプはどうか。運命なんて感じなかった。トレーナーに才能があるからと、逆スカウトしただけだ。
「な~んて♪ごめんね。ジョークだよ」
誤魔化すようにとってつけて、セイウンスカイは笑顔を浮かべた。もしかしたらブリッジコンプの居る場所に、セイウンスカイが居るのが正しい運命の形だったのかもしれない。セイウンスカイは今も伝説的な逃げをして、サクラバクシンオーが受け継いでいく。
しかし現実はそうならなかった。セイウンスカイは三年間のレース人生を駆け抜け、復帰は絶望的になり。ブリッジコンプはメイクデビューで負けるという失態を犯した。悪い方向へ全ては動いていた。
「風の吹くまま、気ままな感じで。私はもうブリッジちゃんの前にも新人トレーナーさんの前にも現れないから。安心してね☆」
くるりと振り返り去ろうとしたセイウンスカイの手を、ブリッジコンプはとった。もうブリッジコンプの中でセイウンスカイに対する暗い思いなんてない。嘘、やっぱりある。ブリッジコンプは運命だなんて感じてないのに、セイウンスカイはトレーナーに感じていることへモヤモヤする。
それでも今は、繋ぎ止めたいという気持ちの方が大きかった。
「海空トレーナーは偶然交通事故にあって、怪我をしました。でも十分に完治出来る怪我です」
話すなとは言われていたけれど。カバーストーリーなら良いだろうと勝手に判断して口にする。案の定動揺してセイウンスカイは立ち止まった。青い目が見開いて驚愕をセイウンスカイは浮かべる。心配の色が見えて、ああやっぱり海空トレーナーのことが好きなんだなって確信した。なら別に構わない、いや構うけど、今だけは。
「治るまでまだ時間がありますから、セイさんの帰る場所はまだ在りません。だから、」
息を吸って、傲慢に口にする。
「だから一緒に居て良いですよ」
セイウンスカイは困った顔を浮かべて、どうしたらいいのか解らず迷った。急に海空トレーナーが怪我したなんて冗談にしか思えなかった。ブリッジコンプに繋がれた手と、逆の手で自分の頬を掻いてうーんと唸る。まだセイウンスカイの中で折り合いが着いていないのだろう。海空トレーナーへの信愛と、後悔と、私のトレーナーへの想い。
でもまあ、結局迷ってしまった時点でセイウンスカイの選ぶ道は決まっているのだ。
「もう少しだけ、お世話になろうかな」
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