この話は時系列の点から投稿しましたがジュニア期の展開のネタバレが含まれる為、
苦手とする方はお手数ですがジュニア期終了後に読むようにお願いします。
トレーナーは珍しく人前で酔っぱらっていた。同じ席には東条ハナと駿川たづな。この面子にしては珍しいことに、此処は隠れた名店の様なバーではなく、高架下の居酒屋だった。夜も更け、路地裏は鼠達が走り、汚れたビニール製の暖簾が風にひらひらと揺れていた。近くには似たような露天が立ち並び、顔を酒で赤く染めた酔っ払い達が歌っている。
カタンカタンカタン 頭上で列車が走り抜けていく度に、強い振動を感じた。なぜこんな場所にというと、トレーナーが自棄酒をする為である。
「卵と昆布、それから竹輪で……あと焼酎」
「もう飲むのは辞めなさい」
そう注意されてもトレーナーは出されたグラスに手を伸ばす。東条ハナはため息を吐きだして、焼酎の入ったグラスに水をどぼどぼと注いだ。顔を赤く染めたトレーナーは気にした様子もなくごくごくとアルコールなど無いように飲み始める。
これでは折角水で割っても意味がない。
「おハナさー……ん」
「そう呼ばれる筋合いはないわ。それで、何があったのかしら?たづな」
一向に埒が明かないので、素面の友人に話を振った。最近はトレーニング場に顔を出すことはないようだが、今でも裏方の手伝いはしているらしいので事情は知っているだろう。尚、駿川たづなは既にべろんべろんに酔っぱらったトレーナーより飲んでいるが何時もの事だ。少なくともトレーナーも東条ハナも駿川たづなが酔っている姿を見たことがない。
「それが、出走レースを決めた時からこんな調子でして。勿論担当の前ではしゃきっとしていますが」
駿川たづなが困った顔でそう口にした。出走目標となると事前に発表するところも多いが、基本的には部外秘だ。流石に面倒を見ているとはいえ聞き出すわけにも行かない。そう思っているとトレーナー自身が話し出した。
「バクシンオーがGⅡ京王杯ジュニアステークスで、ブリッジがGⅢファンタジーステークスですよ……」
「あら良い予定じゃない。問題なさそうに思えるけれど」
サクラバクシンオー程のウマ娘であればデビューして初戦にGⅡという大舞台でも戦っていけるだろう。距離も1400mとマイラーには短すぎて、同世代スプリンター界はサクラバクシンオーが最強だ。勝負は時の運とはいえ、実力だけを加味すれば勝算は高い。記事になったとおり目標が朝日杯FSなら、ステップレースとして勝ちを掴んで直接迎えることが出来る。
対してブリッジコンプの出るGⅢファンタジーSは芝1400mの、阪神JFのステップレースの一つである。しかし近年同GⅢのアルテミスSが開設されたことによって阪神JFへ向けたファンタジーSの重要度はかなり落ちた。アルテミスSは1600mとマイラーにとっては適正距離でありその分多くの有力ウマ娘が目標レースにするだろう。
ファンタジーSは今のところ有力ウマ娘が出るという話も聞かないし取り敢えず重賞で一勝と考えるなら最適なレースだ。GⅠに出走する為にも、評価値を兎に角稼がなければならない。
「そうですけど……そうじゃないんですよ。俺は……この目標なら必ず勝てると思っています」
「ならいいじゃない」
ぶすっとトレーナーが膨れ上がった。成人した男がそんな顔をしても可愛くない。ただトレーナー業はストレスを溜めやすい職種で、担当ウマ娘が勝てないことで責任感を感じて辞めてしまう者も多い。特に失敗した経験がないエリート層に多い傾向だ。
この成績がミソッカスな癖に才能だけはあるトレーナーが辞めるとはとても思えないが、年長者として話を聞いてあげるのが筋だろうとは東条ハナも思った。
「話してみなさい」
「俺はまたブリッジを騙したんです」
湯気を立てるおでんの具をぼーっと見ながら、トレーナーは話し出した。あれは担当の面倒をエアシャカールとファインモーションに見て貰った夜の事である。
ここよりは真面な、とはいっても居酒屋の個室だった。トレーニングが終わり、数値の再確認や今後のトレーニング予定、フォームの方向性を話すついでに飲みに来ていた。仕事のことをプライベートに持ち込みたくない社会人も多いと思うが、トレーナーはそうも言っていられない職業である。暇さえあれば休憩と称してレース動画を見るような人種でもある。
「だから言ってんだろうがよォ。バクシンオーは好位追走がいける口だ。スパート力もある。後はお前がだまくらかせばいいだろ!」
「いや無理ですって。あれは本人の気質の問題だから。そもそもシャカールはロジカルを重視しし過ぎて魂を無視しすぎなんですよ!」
「んな実在するか解んねェものより脚質と適性を見ろつってんだろが!長距離勝利を目指すならバクシンオーの逃げじゃ無理だ!」
議論は白熱する。テーブルの上には色々な数値が書かれた紙の束が置かれ、出てくるまでに充電しておいたノートパソコンやタブレットの充電が半分を切っていた。ビールジョッキやつまみの串焼きが隅に追いやられている。
相変わらずのことなのでファインモーションは気にせず、美味しそうに二本同時に焼き鳥を口に咥えるちょっとした贅沢をしていた。
「憧れはサクラローレルなんだろ!アイツなんざ差し走法じゃねえか!」
「そんな単純な話じゃない!」
サクラバクシンオーを長距離に出そうということ自体ロジカルではない様に思えるが、そこにはエアシャカールなりの線引きがある。サクラバクシンオーよりは才能の劣るウマ娘ばかりが出るシニア級オープンレース。更に2600mと長距離にしては短めの札幌日経オープン、丹頂Sの何れかなら勝てる可能性はあるだろうという算段があった。
ステイヤーとして才能のあるウマ娘なら既にURA評価値を稼ぎ終わっていて基本的にローテーションの問題で重賞にしか出走しない。距離適性という絶大な壁があるとはいえ、才能を加味すれば今の成長速度ならぎりぎり勝負できる可能性がある。しかしスタミナを抑えることが苦手なサクラバクシンオーがいつも通り逃げれば勝率はほぼ0%である。
ただこのまま平行線の話を続けても無駄だろうとエアシャカールは判断した。
「チッ、聞き分けのねえガキが。先ばかり見ても仕方ねェ、この話は置いておく。次走はどうすんだ」
「バクシンオーは京王杯ジュニアステークス、デイリー杯ジュニアステークスあたり」
「妥当な線だな」
京王杯ジュニアSに加えて、GⅡデイリー杯ジュニアSもまた朝日杯FSのステップレースである。距離が1600mと今のサクラバクシンオーにはやはり少し長いが、だからこそ朝日杯FSへと向けた登竜門として相応しい。もし勝てば格付けが出来るだろう。どちらを選ぶかはこれからのサクラバクシンオーの成長を見つつ決めればいい。
「ブリッジはどうすんだ?」
「悩みなんですよね。最悪年内の出走はなしかオープンレース。体を鍛えることを優先してクラシックでの本格化を待つとか。桜花賞を目指すならそういう選択肢もある。ファインはどう思います?」
急に話を振られてファインモーションはけほけほと咽た。ビールジョッキを傾けて焼き鳥を胃に流し込む。落ち着いてから気になったことを質問した。
「そもそもキミ、本当にブリッジさんが桜花賞に勝てると思ってる?」
「……それはどういう意味でですかね」
言葉に詰まるトレーナーに気にした様子もなく、ファインモーションはこの経験不足のトレーナーに伝えるべきだと判断した。GⅠの勝者だから、シニア期にはGⅠで苦汁をなめたから、一緒にフォームを調整したから、後ろから猟犬の様に追い掛け回したから解る。
「ブリッジさんはGⅠに今のままじゃ勝てないよ」
トレーナーがブリッジコンプに言い続けてきたことを否定した。それはサクラ家で初めてトレーニングした時、セイウンスカイがトレーナーに言ったことと同じこと。もう今では言わなくなった、いや心の中ではそう思っていても空気を読んで言っていないことだった。
「今のトレーニング方法って凄いんだねっ。模擬レースなら私が同じくらいだった時、ブリッジさんに勝てなかったと思うなー。でも本番のレースでGⅠで負けるとはちょっとも思えないんだ」
「それはつまり領域とかそういうことですか?」
「そのとーり!」
大正解と言うようにファインモーションが両手で大きなマルを描いた。顔は素面のままだが、トレーナーとエアシャカールが議論する間にも飲み続けていた。さては少しアルコールが回って来たようだ。
「でもブリッジには領域なんてできませんよ。だからこそ鍛えて最高の状態に持っていくことで領域なんてなしにしても勝つっていう方針をとってるんですよ」
「アァ、言いたいことは理解したぜ。領域なんて言い方気に入らねえが、要するに才能に任せたルーチンに則ったスパート力か」
人間のアスリート選手にも言えることだが一定の行動、一定の条件を満たすことでメンタルコントロールを行い全力を発揮することが出来る。それが極まった才能のあるウマ娘だけのモノが領域だとエアシャカールは説明した。らしいとてもロジカルな発想だった。
「ありゃかなり厄介だ。予測される数値を外されやすい。経験の浅いてめェとブリッジじゃ逆立ちしたってルーチンがある前提で勝ちを拾うのは無理かもな。だがな、ルーチンて言った通り、使うには条件がある。熟練すりゃ別だがシニアに入ってもないヒヨッコ連中には条件を無視するのは無理だ」
思いついたようにエアシャカールは言葉を並べた。
「ブリッジには才能がないが才能がある他のウマ娘のルーチンを崩せば同じ土俵に引きずり降ろせる。だが問題は山積みだ」
「まずマークするウマ娘が必ずレースで勝つウマ娘じゃねえと意味がねえし、レースに出場するウマ娘の中で高い才能を持っているのが一人だけとは限らねェ」
例えば今代のシニア期ではテイエムオペラオーとメイショウドトウという綺羅星のような二人が競い合っている。何方かだけ引きずり降ろしても、もう一人が勝つだけだ。
「第二に崩したところで強い奴はつえェ。同じ土俵に立ったところで負ける可能性はある」
ブリッジコンプはどれだけ効率よく鍛え上げても、成長速度は限度がある。才能のあるウマ娘がそれを軽々と飛び越していくのはサクラバクシンオーが実証している。
「第三にルーチンを崩すのは相当難しい。条件を知らなきゃならねェのは当然としてレース中に崩すとなると完全にレースをコントロールする必要がある。ブリッジは目が良いとはいえ、出来れば相手の本気を間近で何度も観察すべきだ」
目標を桜花賞に掲げた以上、標的は当然ティアラ路線を目指すニシノフラワーを筆頭としたウマ娘達だ。そんな彼女たちを確実に観察できるレースが一つだけあった。
何時からか思考が守りに入っていた。未勝利戦に挑んだ時、負けたらもっと大変なことになる諸刃の剣だと解っていた。ブリッジコンプが折れる可能性すらあった。しかし、元よりブリッジコンプがGⅠに勝利する為には多少の無茶は許容する必要があったのだ。
ルーチンを崩す、その更にもう一歩踏み込むべきじゃないのか?悪魔の発想が思い浮かんだ。
「……ブリッジはファンタジーステークスには勝てますかね?」
「芝1400mのGⅢか、行けるんじゃねェのか?」「勝負は時の運だけど、ブリッジさんなら大丈夫だと思うよっ」
頷く。二人の太鼓判が押された以上、勝ったものとして次を考える。
「俺はもしブリッジがファンタジーステークスに勝ったなら、ブリッジを阪神ジュベナイルフィリーズに出走させます」
間違いなくニシノフラワーが出てくる。そしておそらく負ける。札幌ジュニアSに勝利したニシノフラワーは気弱な雰囲気はなりを潜め、絶好調だ。他のマイルウマ娘にだって勝てるかどうか。入着すら出来ないなんてこともあるだろう。そうなった時、心が折れて永遠に勝てないとブリッジコンプ自身が格付けしてしまう危険性があった。
しかし、ブリッジコンプに観察という事情を話すつもりはない。本気で勝ちにいかなければ間近で見るということすらできない。ラスト1ハロン、領域を使った相手に間近で抜かれることでより深くブリッジコンプの瞳に刻まれるだろう。
阪神JFに出走することを東条ハナに事情を話している内に酔いが冷めてトレーナーの口調は平常に戻っていった。
勝てないだろうレースに出す。
「それは」
東条ハナは二の句を口に出来なかった。確かに東条ハナでさえグラスワンダーを半ば勝てないだろうとは思いながら毎日王冠に出走させたことがある。本命は同チームのエルコンドルパサーだった。全てはグラスワンダーがGⅠに勝つ為にやったことだ。だが未だにあの時のことは苦々しく思っている。このトレーナーは同じ道を辿ろうとしている、いやもっと険しい道かもしれない。
「そもそもルーチンを崩すこと自体机上の空論ですよ。あの時は酒が入っていたので盛り上がりましたけど、今思えば不可能に近い」
よりによってそれをブリッジコンプという才能が普通のウマ娘にやらせる。失敗すれば何の成果も得られないどころか、最悪ブリッジコンプのメンタルに大きな罅が入る。
「でも俺は今でもブリッジはGⅠを取れるウマ娘だと確信しています」
止めるべきだ。このトレーナーは担当するウマ娘で実験しようというのだ。しかし東条ハナは言葉を発することが出来なかった。トレーナーの瞳の奥にばちりと黄金の閃光が瞬いた。まるでシンボリルドルフのようだと思ってしまったのだ。
「おかしいでしょう?根拠なんてなかったのに不思議とそう思ったんです。そして今、勝利への道筋が目の前に現れた。だから俺はブリッジを身勝手に巻き込んで、この示された道を行くことにしたんです」
駿川たづながトレーナーを見て、にこりと微笑んだ。
余談
トレーナーが帰った後、エアシャカールとファインモーションはまだ飲んでいた。当然トレーナーには金を置いていかせた。ファインモーションはアルコールが回り出した思考の中で、ふと思い出して口にした。
「シャカール、言わなくて良かったの?」
「なにを」
「日本ダービー」
それだけで完全に伝わった。エアシャカールが酒気を霧散させて凄まじい形相とプレッシャーを浮かべた。びりびりと触れてもいないコップが振動する。
彼女は二冠であると同時に、最も三冠に近づいたウマ娘の一人でもある。ダービーでのアグネスフライトとの接戦の末、僅か7センチの敗北。その後悔が今も深く重くエアシャカールの胸には残っている。
「チッ、言いたいことは解る。クソみてェな言葉だがGⅠレースには『魔物』が棲んでいる。あの時オレは通常のレースなら間違いなく勝てる勝負を挑んだ。完璧なレース展開だった」
まだ経験の浅かったエアシャカールとはいえ、知能はクラシック期には完成していた。トレーナーとは折り合いがつかなかったが完璧に自分自身を御していた。その彼女が言うのだから、確かに日本ダービーをエアシャカールはとれたはずだ。しかし現実は違った。
「挑む前も後も。何度計算しても、何度分析しても。GⅠダービーという要素を加えるだけでまるで運命なんていうチンケな存在に邪魔されているかのように。あらゆるシミュレーションにおいて現実と同じく必ず7センチの敗北をした。最初は僅かな乱数だと思った。次に第三の変数を疑った。結局何も原因は出なかった」
根深い感情が言葉の端々からにじみ出ていた。日本ダービーの後、菊花賞には勝ったもののエアシャカール自身に対する分析への信用を失ったことで、シニアでは敗北が続くことになりドリームトロフィーを目指さずに引退した。今でもエアシャカールはロジカルを信じていても自分自身を信じてはいない。
その教訓を、エアシャカールはトレーナーに話していなかった。
「だが、アイツにんな事言っても意味がねェ。狂ってやがるからだ。一番運命って言葉に縛られてるくせに、ブリッジがGⅠで勝てるなんて夢想信じてるんだからよォ」
エアシャカールはブリッジコンプがGⅠに勝てるとは思っていなかった。才能がない、それはウマ娘において致命的なことだ。才能があるから勝つのか、勝つから才能があるのか。クソったれなことに、そういう風に出来ている。
「そんな意地悪な言い方しちゃ駄目だよ?きっと彼なら7センチの先を見せてくれるよ♪シャカールもそう思ってるから目をかけているんでしょう」
帰って来たのは否定の言葉ではなく舌打ちだけだった。
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何度計算しても、三冠獲得には7cm足りないと出ており、自分の計算に対する自信と絶望を抱きながら一縷の可能性を探し続ける。