11月上旬 兵庫県
ホテルのベッドで目覚ましもないのにブリッジコンプは瞼を開いた。今日はブリッジコンプのGⅢファンタジーS出走日である。ベッドから降りてカーテンをひくと穏やかな日の光が差し込んでくる。まだ此方では紅葉が始まっていない。道端の街路樹が青々と葉を茂らせて風に揺られていた。やはり東京より南ということもあってか少し気温に違和感を感じる。
後ろ手に結んでポニーテールにしていると、後ろからうめき声が上がった。
「うーにゃぁ~」
「ごめんなさい、セイさん。起こしちゃいましたか?」
枕に顔を押し付けたまま、セイウンスカイはひらひらと片手を振った。そのままもぞもぞと動いて、跳ね除けていたシーツに包まれていく。芋虫みたいだ。でも態々此処まで付き添ってくれたのだから、無理に起こすのも忍びない。
音を立てない様にベッドを通り過ぎてバスルームに向かう。流石に季節が季節なのでシャワーを浴びる気にはなれない。ウマ娘だからといって風邪をひかないということはないのだ。欠伸を噛み殺しながら、パジャマのボタンを一つ一つ外していく。
下着姿になって鏡で確認。うん、もし此処がパドックなら良い仕上がりと言われたことだろう。
顔を洗い、歯磨きをして、保湿クリームを体に塗っていく。秋は乾燥しているから肌荒れに気を付けないといけない。それから朝食を確保するために私服に着替えた。生憎ホテルの朝食は量が人間用だったので予約しなかった。
紺のジーンズに、白のハイネックのニット。制服でも良かったけれど注目を浴びるのは避けたかった。今の時期、兵庫まで来て中央トレセン学園の制服を着ているだなんてこれからレースに出ますと言っているようなものだ。
トレンチコートを羽織ってブーツを履く。最後に財布の入ったポーチを肩にかけて、トントンと床を蹴って靴底を合わせた。
「それじゃあ行ってきます」
小声でセイウンスカイに声を掛けても返事はなかった。カードキーを一枚持ってホテルの部屋を出る。フロントに軽く会釈してから外に出ると、寒風が吹きつけて来た。天気は曇り空で気温はあまり上がらないようだが、幸い雨は降らないらしい。
道行く人々はウマ娘が比較的多いように見える。今日行われる阪神レース場の重賞はファンタジーSだけだから、人間よりもウマ娘の方が注目度も高い。人間の場合、GⅠやドリームトロフィー、GⅡにしかあまり興味がない。例えレースに関わらない仕事についていたとしても、普通の学生をやっていたとしても、レースが気になってしまうのがウマ娘というどうしようもない生き物だった。
近くのカフェテリアに入る。暖房がきいていて暖かい。カウンターの前に行けば色々な種類のパンがショーケースの中に収められていた。カロリー表示がないので、スマートフォンを取り出して一つ一つ気になったものを調べていく。
「すみません、このチーズ入り蒸しパンのカロリーって解りますか?」
私の質問に店員は凄い答え難そうな顔をした。
「……大体420キロカロリーです」
よ、よんひゃくにじゅう。何時もなら注文していたかもしれないが、今日は大事なレースだし辞めて置いた方が良い。走っている最中に420という数字が頭の中をぐるぐるしてしまいそうだ。
大人しくクロワッサン二つと、卵と人参のサンドイッチを二つ、それから人参パンを一つ注文した。飲み物はトレーナーを真似して珈琲である。勿論砂糖とミルクはドバドバいれる。格好つけずにカフェオレで良かった気がする。
窓際のカウンター席を確保して食べ始めた。
トレーナーは今、東京にいる。昨日は寮ではなくサクラバクシンオーと一緒にサクラ家に泊まると言っていた。出走する京王杯ジュニアSとファンタジーSは其々東京と阪神で同日開催なのである。
しかも、サクラバクシンオーとブリッジコンプの出走時間は10分しか違わない為、サクラバクシンオーの出走は見ずに此方のレースが始まる頃には新幹線で来るらしい。もう東京を出た後だろう。代わりにサクラバクシンオーにはサクラチヨノオーとエアシャカールが着いている。あっちこっち忙しくて大変だ。
スマートフォンを開いて軽く調べるとウマ娘関連の記事でサクラバクシンオーの名前を見つけた。記者名を見るとやはりというべきか乙名史悦子の文字がある。トレーナーはメディアが苦手なので、月刊トゥインクルの独占取材だった。掲載された写真のトレーナーの顔は写真写りが悪く完全に引きつっている。
残念ながらブリッジコンプの記事は小さかった。一応ファンタジーSの勝利候補らしい。上手いレース展開をする逃げウマ娘とも書かれていた。この時期は菊花賞、JBC、エリザベス女王杯、デイリー杯ジュニアSといった注目度の高いレースが多いから仕方ない。別に沢山の人に注目されたいとは思わないけれど、と半分負け惜しみを心の中で呟いた。
珈琲をずずっと啜って菊花賞勝者メジロマックイーン先輩のインタビュー記事を見つけたので開く。食堂であった時以来話していないが縁と言えば縁だ。
一時間程カフェテリアで過ごして追加で注文した珈琲を手に再び外に出た。そのままゆっくり徒歩で阪神レース場まで向かう。仁川の傍を通って進むと嗅ぎなれた整備された芝の匂いがしてきた。巨大な屋根の下をくぐって観客用入場口へ。
係員に学生証を見せた。
「ブリッジコンプさんですね。今日は頑張ってください」
「有難うございます」
適当に応対して中に入る。流石に係員なら今日GⅢに出走するウマ娘の名前を憶えているらしい。既にパドックでの紹介が終わっているようなのでレース場前の観客席に入った。入場者は三百人くらいだろうか、まだ第3レースかつ注目度の低いレースだけあって少ない。最前列には見覚えのあるウマ娘やトレーナーの姿もあった。
今から始まるのは未勝利戦だ。
普段なら見に来なかった。しかし、出場するウマ娘の中にオットーの名を見つけてしまい何となく時間もあったため見に来たのだ。
オットーは同じクラスだが、話したことは殆どない。あちらも私を避けているのだろう。なにせ、ブリッジコンプの未勝利戦で五着に終わったウマ娘の名だからだ。映像からはセイウンスカイの策にかかり、実況されていた通り中盤でかかって無理やり三番手をとったものの脚を使い切ってしまい敗北という流れだった。
才能はブリッジコンプよりわずかに下。トレーナーも、勿論一般人よりは高かったがトレーナー全体の中では普通の才能を持った新人だった。そしてこの第3レースがオットーの三回目の未勝利戦である。
「……見に来なかった方が良かったかもしれない」
直ぐに後悔した。出場するウマ娘達は皆、凄まじい形相をしていた。来年の夏までにデビューできなければもう後がない彼女たちは、此処で負ければ中央でのレース人生が更に狭まる。マイナス方面に執念が振り切られていた。そのくせ、才能がないばかりに雰囲気に比べて魂も、プレッシャーも並程度。
どれだけ必死になっても、どれだけ執念を燃やしても、ウマ娘には才能という絶対的な壁がある。
珈琲の紙カップを手で包んで指を温める。でも心まで温めることは出来ない。まばらな歓声が聞こえる中で、ゲート入りはスムーズに行われた。緊張してガチガチの子もいたのに、各々よくトレーニングされている。やっぱりトレーナーは皆人間の中では優秀な部類なのだろう。
「一斉にスタートしました!好スタート、出遅れているウマ娘は居ません」
芝1400m、ブリッジコンプが走るレースと同じ距離をウマ娘達が駆け抜けていく。私がこの中に入ったら勝てないかもしれない。焦り過ぎてかかった逃げウマ娘二人が破滅的な逃げを展開する。あれではブリッジコンプがハナを取れない。ブリッジコンプが逃げを選択していたらきつい展開だ。
コーナーで逃げる片方がペースをなんとか取り戻した。でもそこで下がるのは悪手だ。行くところまで行けば可能性はあっただろうに。
後ろを集団の頭をとってオットーが追走している。流石にブリッジコンプと走った経験からか、破滅的な逃げには付き合わないようだ。集団はスローペースで位置をあまり変えずにコーナーを曲がっていく。集団の中でポジションの奪い合いの為、ラフプレイが見られたが許容される範囲。
ラスト2ハロン、オットーが仕掛けた。するすると垂れ始めた逃げを捕捉してかわす。でもスローペースだったお陰で後方集団の脚は十分に残っている。いや、だからこそ早めに仕掛けたのか。凡策ではあるが、考えられている。
最後の叩き合い。オットーが必死に競り合って競り合って。
「抜け出したのはディアレストギフト!!ディアレストギフトだ!今一着でゴールイン!二着はオットー……」
勝負はついた。
夢敗れたオットーはよろよろと魂が抜け落ちたようにスピードを緩めていく。そして、パドックの上で曇天を見上げて涙を流した。
……オットーの姿を見て、最悪なことに私の胸に訪れたのは安堵だった。
もし、今のトレーナーと会わなければ私がオットーになっていたかもしれない。空を見上げて茫然として。その後も負け続けて地方でのデビューを目指すか、あるいは引退していたかもしれない。負け続ければ来年、夏休みの後には教室に居ないのだ。
本当に屑だ。嫌悪感が湧き上がる。ああしてオットーが一人で佇む原因の一人は私だというのに。
「私は」
胸が苦しい。直ぐにでもトレーナーに会いたかった。
昼過ぎにはトレーナーが到着して合流した。トレーナーは私の焦燥に気づいてもいつも通り変わらない様子で接してくれた。レース目前ということもあって、何より食欲がなくて、私は栄養ゼリーしかとらなかった。
ファンタジーステークス 芝右外 1400m 15:40発走
阪神レース場には多くの観客が詰め寄せていた。流石国民的人気スポーツ、おそらく五千人はいて前の方は埋まりきっている。パドックでの紹介が始まった。幸いなことにブリッジコンプより上の才能はいても、超一流の才能を感じさせるウマ娘は居ない。まだ私が重賞に出走なんて信じられないけれど、これなら可能性はある。
ただ、不思議なことに私が一番人気だった。やっぱりトレーナーでもない限り人間の見る目はない。
「一番人気はこのウマ娘1枠1番ブリッジコンプ。未勝利戦以来のレースですが完璧な仕上がりです。あのトモの張りは凄まじいですね」
「個人的にも一番の推しです。金毛金瞳というのはパドックでもよく映えますね。ですがそれだけではありません。前走では完全にペースを握った計算高いレース展開を見せてくれました。彼女の逃げ足は今回のレースにも大きな波乱を呼ぶと思いますよ」
私にはファンサービスなんて無理だ。特にこの人数を前にしては、歩くときに右手と右足が同時に前に出ないかすら心配だった。一礼してからジャージを拾って拍手を背にさっさとお立ち台を降りる。二番人気はリボンヴィルレー、眼鏡をかけた芦毛の末脚を得意とするウマ娘。パンパシフィックと同じ程度の才能で、つまり私以上で、かつ差し策となれば脅威だ。
専用通路に行くとトレーナーとセイウンスカイが待っていた。
緊張し始めている私に、目を細めて気軽にセイウンスカイは笑った。
「ブリッジちゃんなら勝てる勝てる♪むしろ結構余裕あると思うよ?」
「……そうは思えないです」
「にゃはは、走ってみれば解るよ!」
多分緊張をほぐそうとしてくれているのだ。それからトレーナーとやるべきことがあった。
「トレーナー」
「オーケー。始めよう」
差し出されたトレーナーの手に触れる。
ブリッジコンプは瞼を閉じた。
暗闇の中、触れている手の温かい感触が徐々にブリッジコンプの心を和らげていった。第3レースで感じた嫌悪感も消えていく。
少し骨ばったゴツゴツした男性的な手、指は長く爪は短い。関節の皺をなぞると驚いたのか手がぴくりと震える。でも手は離されることはなく、されるがままだ。掌を合わせるとどくどくと中で流れる血を僅かに感じ取れた。
そのまま両の手でゆっくりと包む。
カチ カチ カチ カチ カチ カチ
トレーナーがスマートフォンから一定のペースでメトロノームの音を鳴らし出した。
息を吸う、息を吐く、息を吸う、息を吐く、息を吸う、息を吐く
ゆっくりと音に呼吸を合わせていく。たっぷり三十数えてからブリッジコンプは黄金の瞳を見開いた。綺麗さっぱり全ての不安も緊張も消えて、耳も鼻も研ぎ澄まされている。今なら何十m先の音だって聞こえそうだった。
「行けます」
これがトレーナーとブリッジコンプが夏合宿からずっと続けたことで編み出した、最適なスタートダッシュをする方法だった。単純に言ってしまえば、ブリッジコンプが精神的に安定する状態を作り出し集中力を高める。精神が落ち着く状態が手を繋ぐ事と告白するのはかなり恥ずかしかったけれど、私の様な才能のないウマ娘が負けない為にはプライドなんて捨てるしかない。
しかも他の誰の手も上手く行かずトレーナーの手を握る必要があった。才能相応に習得するのも遅く三か月間かけて遂に完成した。この方法でブリッジコンプは瞳を開けたまま、驚いたことにサクラバクシンオーよりも速いスタートを行うことが出来る。
名残惜しくも手を離した。トレーナーと瞳が合う。何時だってトレーナーは私がGⅠに勝てることを信じている。
「俺からブリッジに言えることはただ一つだ。勝て」
「はいっ!!」
大きく息を吐き出してレース場へ向かった。
阪神レース場は春の天皇賞といった多くのGⅠレースが行われる為、盛んに研究と対策が行われている。今回のファンタジーステークスは外回りだ。向正面から直ぐに僅かに勾配があり、そこからゆっくりと長く緩やかなコーナーが続く。コーナーの最終版で緩やかな下り坂が始まり、473.6mという長大な直線の途中に高低差1.8mの凄まじい上り坂が待ち受けている。
直線が長く、最後の坂を考えれば逃げには不利に働くコースといえる。折角の1枠1番も意味が殆どない。特に最後の坂までに脚を残しておかなければ一瞬で抜き去られることだろう。坂までに殆ど勾配がないため、大逃げでペースを崩すという策も使えないし、そもそも対策されている筈だ。
小細工を弄することが精一杯、実力で普通に逃げて勝つしかない。つまりブリッジコンプの最も苦手なことだ。
レース場に入ってまず芝の状態を確認する。状態は良いが第11Rということもあってどうも内ラチは荒れているように見える。内枠スタートのブリッジコンプからしてみればため息を吐きだしたい問題。スタートダッシュで斜行と判断されないくらい大きく前に出て少し外に出た方が良い。
準備体操を終える。目を瞑ればまだカチカチと規則正しく脳内でメトロノームが鳴り響いていた。
そして遂にファンファーレが鳴り響き、ゲート入りが始まった。
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続く