「バクシン」
セイウンスカイは小さく呟いた。
気のせいかもしれない、けれど少しだけ力が湧いてきた気がして。ダンッ!と蹄鉄で芝を踏みしめる。
サクラバクシンオーに言わせれば、不思議と力が湧いてくる言葉。神様が頼れなかったから、情けなくも後輩に頼る。なんだって良い。勝てればなんだって良かった。セイウンスカイは元より、実力勝負で勝てるようなウマ娘ではない。才能順に黄金世代で並べるならグラスワンダー、エルコンドルパサー、スペシャルウィークが突出していて、セイウンスカイとキングヘイローは後塵を拝している。
血統主義が蔓延している今のウマ娘界隈において、セイウンスカイの血筋は貧弱だったからさもありなん。
そうでもなければトリックスター、秩序を乱す存在なんて呼ばれることはない。怪物二世だとか、怪鳥だとか、日本総大将だとか、なんともまあカッコいい異名を同期は持っている。勝つと思っていなかったのに勝ってしまったから、フロックだと思われていたからセイウンスカイはトリックスターなのだ。
第一コーナーから第二コーナーへ。2バ身差を埋めて、ぴったりメジロパーマーは着いてきている。最終コーナーまでにかわすタイミングを伺っている。ハナを取られた逃げが、直線に強い覇王がいる環境下で勝つにはそれしかない。
セイウンスカイからしてみれば有難かった。
「私が勝つんだ!」
メジロパーマーが最終コーナー前にかわすタイミングなんて来ない。大逃げと決めた以上、セイウンスカイは最初から最後まで全力疾走。滅びる時は諸共に。領域の覚醒なんて主人公みたいなこと絶対にさせてやらない。
ぐんと更に加速して、スリップストリームの圏内から突き放した。
芝の状態は聞いていた通りあまり良くない。芝の下はボコボコで脚が取られそうになる。けれど逆に言えば最終直線での末脚を鈍らせる。気を抜かなければ最後には味方になってくれるバ場だ。
「さあ速い速いペースだ!セイウンスカイとメジロパーマーが爆走していきます!既に後ろとは4バ身!」
「大阪杯がGⅠに昇格してからもっとも速い時計ですね」
直ぐに潰れる。そう出走するウマ娘の多くはそう思って居るはず。なにせあまりにもテイエムオペラオーの存在が強すぎる。自然と最も勝利に近い位置はテイエムオペラオーだと思って意識する。最終直線の競り合いに備えて牽制する。逃げ切るには最高の環境だった。
阪神レース場は内回り2000mになるとブリッジコンプ達が走った外回りの1400mや1600mに比べて、その様相をがらりと変える。第一コーナーからバックストレッチまで平坦が続く。第三コーナー後も最終直線の上り坂までずっと下り坂。だから最終直線まで減速することが一切ない。
坂路トレーニングより平地で兎に角トップスピードを出し続けることだけを考えて来た。
直線に入りメジロパーマーをどんどんと突き放して、もう呼吸も足音すら聞こえない距離になった。
風が吹いて、桜吹雪が目の前を舞い踊る。進むべき道を指し示している。
走っている時は孤独だ。必要以上に後ろを振り向くことは負けへと繋がる。だから、ただひたすら目の前に広がる芝と、柵、それから時折通り過ぎていくハロン棒だけが世界の全てだった。自分のペースが正しいのか解らない。観客の声さえ走っている間は何処かに消えてしまう。
サイレンススズカ先輩は向こう側に行ってしまいそうなこの景色を好んだようだけれど、セイウンスカイは特別好きだったわけではない。
セイウンスカイには逃げしかなかった。血筋が良くないウマ娘は、ブリッジコンプがそうであったように、他の脚質があっても逃げが出来るなら逃げを選ぶ。逃げ以外の戦法はもっと凄いウマ娘がいて、勝てないことを知っているからだ。遥かに才能があるのにも関わらず、末脚のキレがないという点においてセイウンスカイはブリッジコンプと同じ問題を抱えている。
逃げとは破滅である。先行や差しが精々上がり3ハロンに全力をかけるのに対して、レース中ずっと硝子の脚をすり減らし続けるのだから当然だ。後輩二人が同じ道ではなく、曲がりなりにも先行策を覚え始めたことを嬉しく思う。
逃げ以外で勝てるのなら、それが一番だ。
セイウンスカイだって走れるなら先行や差しといった王道で走りたかった。同期達と競り合った末に勝利を掴む展開に憧れがあった。現実は近寄らせずに逃げ切るか、バテて後ろから差されるかの二択しかなかった。
同期との黄金世代対決と謳われながらも、何時だってセイウンスカイは走るとき孤独だった。
「フッ……フッ……フッ……フッ……フッ……」
自分の呼吸だけが耳の奥で反響する。
ああでも今は、不思議と嫌いではなかった。一人で走っている筈なのに、沢山の仲間たちと走っている気がした。
「メイショウドトウ、テイエムオペラオーに並んで少し上がって8番手につけます。テイエムオペラオーはまだ抑えたまま」
テイエムオペラオーは今現在、自身が万全ではないことを知っていた。あと二週間、いや一週間さえ時間があれば仕上がっていただろう。春の天皇賞までには間違いなく仕上がっている。だが今は精々8割。4か月の休暇はあったが、昨年に行った過酷なローテーションは確実にテイエムオペラオーに深いダメージを残した。悔いはない。全ては真のチャンピオン、絶対の皇帝シンボリルドルフを追い抜くためだった。
シンボリルドルフは最強だ。勘違いされやすいのだが、昔勇名をはせたウマ娘が今のトゥインクルシリーズでも通用するかと言われると否である。年々研究データが進み、幼少からの教育と、血統が受け継がれてきたことによって凄まじい勢いでウマ娘全体が底上げされている。
にも関わらずマルゼンスキーやオグリキャップを始めとした例外中の例外は今でもトゥインクルシリーズで通用するだけの実力を兼ね備えている。その最たるものが永遠の皇帝シンボリルドルフである。
何れドリームシリーズで相まみえ決着をつける。だが「あの頃のシンボリルドルフは……」などと下らない論理を持ち出すファンも居るだろう。クラシックではテイエムオペラオーというウマ娘は完成を迎えておらず不甲斐ない姿を見せてしまったから猶更だ。だから前人未到のGⅠ八勝に立つ。テイエムオペラオーは決めた。
その為にもまずは大阪杯で勝つ。
「ドトウ!やはり宿敵は君しかいない!今日もワンツーフィニッシュだ!」
「オペラオーさん……っ!」
テイエムオペラオーのライバルは誰にも譲りたくない。それがメイショウドトウの揺るぎない気持ちだ。始まりは宝塚記念、運命と出会った。初めて見た瞬間から、熱に浮かされるような感覚を覚えた。
ずっと背中を追い続けて来た。秋の天皇賞、ジャパンカップ、有馬記念、全てで二着。テイエムオペラオーにキラキラしていると認めて貰った時には感動で夜も眠れなかった。
だからこそテイエムオペラオーに憧れた。人に自分を委ねない姿に憧れた。いつか自分もああなりたいと思った。
まだ勝てるだなんておこがましいことは思えない。それでも何時かは、きっとっ!
並んで走る二人。テイエムオペラオーはメイショウドトウのことしか見えていなかった。メイショウドトウもテイエムオペラオーのことしか見えていなかった。それは傲慢ではなく、自身と相手への揺るぎない信頼だった。
「向こう正面直線半分まで来ました。セイウンスカイからメジロパーマーまでまた離されて2バ身、更にその後ろ3バ身。ちょっと気になる開きです」
追いつけない!メジロパーマーは歯を食いしばって脚を懸命に動かす。だというのに前を走るセイウンスカイはどんどんと距離を突き放し始める。
メジロ家の落ちこぼれ、メジロパーマーの評価だ。同じメジロ家でも菊花賞を取ったメジロマックイーンと、なかなか勝ちきれないながらも三着以内に必ず入って来たメジロライアンとは10歳の頃から違った。メジロ家として行き届いたサポートとケアはあったが、期待されてはいなかった。
奇しくも同期となった二人をメジロパーマーは何時も少し離れた位置から、カッコいいと思っていた。おばあさまだけが、メジロパーマーの根性を、逃げを選択したことを認めてくれた。なのにデビューしても落ちこぼれは変わらなかった。
大阪杯に出られたのもテイエムオペラオーを多くのウマ娘が回避したために枠が開いていたからだ。
自分の走りに自信がない。この頭を上げた変わったフォームでさえ、傍から見たら間抜けなんじゃないかとマイナス方面に思考が揺れる。これで良いのだと魂が囁く。心と魂の折り合いがメジロパーマーは着いていなかった。
まだ運命の友と出会っていなかった。
それでも、より深く、より強く芝を蹴り上げて前へ前へと進む。先頭を進むセイウンスカイにこれ以上の距離は離されまいと駆ける。あれ程速いペースだ。何れ垂れる。そしたらかわして逃げ切る。
メジロパーマーは血筋によって受け継がれたスタミナと、自身の根性だけは自信が合った。
「コーナーに入ってセイウンスカイ、メジロパーマーとはおおよそ3バ身、3バ身くらいあります!メジロパーマーの更にその後ろ、エレガンジェネラルまで3バ身。かなり縦長の展開」
「テイエムオペラオーとメイショウドトウ並んで少しずつ動き出しました」
大阪杯の決定的な違いは内回りであることだ。大きく膨らんだ外回りに比べてよりコーナーが直線に近づいていく。そして最終直線が外回りより短い。外より内が波乱のレース展開になりやすい理由。外回りで言われていた差し、追い込みが強いという環境が変化する。最終直線に入る前にしっかりと距離を稼いで逃げ切ることが出来る。
何より通常のコーナーと違って先頭との距離が測りにくい。背筋を伸ばして、頭を上げたメジロパーマーが目立って前傾姿勢になったセイウンスカイの体を隠す。
此処だ。此処しかない。
「細工は流々、あとは仕上げを御覧じろ、ってね♪」
額の汗を手で拭い捨てて、セイウンスカイは深い深い笑みを浮かべた。心臓が喧しく鳴り響く。脚が軋みを上げる。苦しい、苦しいけれど、楽しい。
一歩踏み込む。波紋が広がった。
一歩踏み込む。飛沫が上がった。
一歩踏み込む。潮の匂いがした。
プレッシャーの爆発と言うには、魂の咆哮と言うには静かすぎた。テイエムオペラオーのいる位置では気づけない程。穏やかに認識が歪み始める。まだ名前のない領域が世界に刻み込まれる。
たった2分半のレースの中で、日がゆっくりと沈んでいく。
かつてセイウンスカイの世界は陽光が降り注ぐ青雲の海原を独り旅するものだった。だけど今は違う。空には満点の星々が煌めいてセイウンスカイのことを見守っていた。沢山の仲間たちが、二人のトレーナーがセイウンスカイの背中を押していた。
広がる海と空の境界線は夜闇に紛れていく。静かな海に反射した星々が上と下から優しく一人を照らし出した。セイウンスカイは小さな飛沫と波紋を立てながら軽やかに進んだ。相変わらず一人の筈なのに、独りじゃなかった。
「セイウンスカイ!早くも第四コーナーを抜けていきます!後ろとは4バ身から5バ身!持つのか!持つのかセイウンスカイ!」
「二番手は懸命にメジロパーマー粘っている!テイエムオペラオー、メイショウドトウも並んで外から外から上がって来た!」
メジロパーマーはこと此処に至って負けると理解した。ハナを奪われた逃げウマ娘の宿命だ。それでも、それでも懸命に脚を動かす。無理だなんて言いたくない。おばあさまに認められた根性だけは捨てたくなかった。
「ちくしょっーーーー!!」
直線に入った時点でセイウンスカイとテイエムオペラオーの差は既に5バ身近く離れていた。覇王の目は少しだけ驚愕に見開かれたものの、直ぐに動揺を抑え込んで己の中の魂に叱咤激励した。
「いくよ!輝いて見せよう!」
セイウンスカイとは比べ物にならない爆発的なプレッシャーが噴き上がった。周囲のウマ娘さえ巻き込むその領域はたった一人だけに向けられたスポットライト。覇王が凄まじい末脚で阪神の直線を競り上がっていく。
「よーし!!」
メイショウドトウもまた同じ様にテイエムオペラオーという光へ向けて、魂を咆哮させる。
「先頭はセイウンスカイ!セイウンスカイ!逃げ切れるか!」
既にセイウンスカイの領域は消えていた。心臓は危険信号を鳴らし、耳鳴りは止まらず、嗅覚はなく、呼吸は浅く荒く、視界が歪む。脚が自分のものではないかのように、意識しなければ直ぐにもつれてしまいそうだった。それでも懸命に走る。不思議と予感があった。ここで勝たなければもうGⅠという頂きに立つことはないのだと。
背後から噴き上がる二つのプレッシャーに心が折れかける。何時だってそうだった。凄い才能のウマ娘が、凄い努力をして、凄い成長をして、セイウンスカイを追い抜いていく。初めは前を走っていた筈なのに追いつかれる。
怖くて怖くてたまらなかった。
ああでも、それでも。
顔を上げれば、小さくて見えない筈なのに。キングヘイローが、グラスワンダーが、エルコンドルパサーが、スペシャルウィークが、二人のトレーナーが、ブリッジコンプが、サクラバクシンオーが声を張り上げてセイウンスカイを呼んでいた。聞こえない筈なのに、確かに聞こえた。
「テイエムオペラオー!テイエムオペラオー!突っ込んでくる!」
坂を駆け上っていく。じりじりと後ろのプレッシャーが詰めてくる。もうすぐ背後まで来ていた。だがセイウンスカイは確かにゴールを捉えた。あとたった15m、あとたった1秒!
「———あ」
踏み込んだ瞬間、左足の感覚が死んだ。がくんと視界が下に落ちていく。骨を痛めたのか折れたのか、筋肉が断絶したのか炎症を起こしたのかは解らなかった。ただヤバイというのは一瞬で解った。前転するように受け身をとって柵の下を潜るべきだ。でなければ大惨事になりかねない。
この状況下においてセイウンスカイはやけに冷静だった。あれほど脳を茹った熱もすっかり消えて、ああ、これがトレーナーさんが言っていたことなんだなと考えていた。
初めから覚悟は出来ていた。
此処から一歩でも更に踏み込めば二度と走れなくなるかもしれない。それでも、もう一歩踏み込む覚悟が出来ていた。
「見ていてね」
セイウンスカイの走りを。
落ちた体を立て直すために、しっかり右足で大地を踏みしめて大きく距離を稼ぐように蹴り出す。左足で着地した瞬間、びりびりと全身に電流が走った。寒気がする。それでもと踏み込む。意識が滲んでは激痛によって覚醒する。
フォームなんて考える余裕はなかった。着地する度に、踏み込む度にセイウンスカイというウマ娘が死んでいくような感覚がした。気のせいだと誤魔化して拒否反応を起こす体に鞭打った。声にならない咆哮を上げて更に一歩一歩と踏み込んだ。
たった一秒がとても長かった。
真っ白な世界の中で桜の花びらが、進むべき道を指し示していた。
「しかしセイウンスカイの逃げ切り!レコード、レコードだ!セイウンスカイ、一年半ぶり奇跡の復活!今日の阪神レース場と同じ青空!今日再び青空が帰ってきました!」
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セイウンスカイの新領域に関しては中文表記「星云天空」が由来。