桜花賞まであと三日。窓の外もまだ薄暗い早朝、ブリッジコンプは音を立てない様に起き上がった。ワイスマネージャーが寝返りをうったが幸いな事に起こしてしまうことはなかった。バキボキとなる体をよく伸ばして、覚束ない足取りで洗面台へと向かう。
あと三日、あと三日だ。実質的に今日がトレーニング最後の日と言って良い。ゴムで髪を一つに結って顔を洗い、ジャージに着替える。靴は鋼製の蹄鉄に路面保護カバーをつけたものを、手首には重りを。
準備ができ終わって振り返るとまだワイスマネージャーは寝ていた。
「行ってきます」
秘密の特訓というわけではない。トレーナーは知っているし、その上で付き合おうとしてくれたけれど断った。四六時中、私達のことをトレーナーが考えていることは知っている。たまに夜に散歩にいくと何時だってチーム棟の部室から明かりが漏れていた。また目の下のクマや顔色の悪さを誤魔化すために化粧を再開したことを気づいていた。せめて朝くらいは少しでも休んで欲しい。
寮の外で準備運動をしていると、同じように日の出前にジャージ姿のウマ娘達がぞろぞろと出てくる。もう少し時間が過ぎればマシな顔をしたウマ娘達と会えるのだが、この時間のウマ娘は会話もなく誰も彼も焦燥しきっていた。殆どが知っている同期。
デビュー戦で勝てず、未勝利戦で何度も勝てなかったウマ娘達だ。既に新学期に入る前に結構な数の生徒が夢を諦めて学園を去った。地方を目指すのかもしれないが、なにより夏に転校することは転校先で敗北者であると周知するようなものだ。
諦めきれなかった者達がこんな時間からトレーニングをしている。中にはブリッジコンプより少しだけ才能が上の者もいて、しかし実力は劣っていた。トレーナー選びに失敗したんだろう。ブリッジコンプはこの擦り切れるような胸が痛くなる空気が嫌いだ。
彼女たちの妬む目つきは痛かった。逆の立場になって考えれば当然である。大した才能もないブリッジコンプがトレーナーに舗装された栄光の道を歩んでいるのに対して、彼女たちは崖一歩手前。出来るだけ手早く準備運動を終える。
「……よし」
視線を振り切って走り出した。最初はゆっくりと、徐々にペースを上げていく。ターフやウッドチップではない道は、足首を傷つけない為に踏み込みを浅く跳ねるように意識して駆ける。指先は緩く真っすぐ、手の振りはペースを測る上でなによりも大事な要素だ。春先の強い風がビュウとふいて、路面に落ちた桜の花びらを巻き上げる。
肺の中から空気の総量を減らして、走りながら脱力していく。
ブリッジコンプは有力ウマ娘の一人として注目されていることくらいは自覚している。しかし、レースを支配するだけの影響力は無い。自然と周囲に自分を押し付けるような存在感、プレッシャーがないからだ。ソレは天性のもの。だからブリッジコンプにはどうやったってこれ以上の影響力を持つことは難しい。
呼吸は浅く平らに、外ではなく内面に意識を向ける。早起きの小鳥達が真横を駆け抜けていくブリッジコンプに飛び立つことなく草むらの虫を探し続ける。
疑似的な影響力を持つために生み出されたのが切り替えだった。存在感を希薄にし、急速に上限いっぱいまで増す落差で、周りのウマ娘に影響を与える。言葉にするならそれだけだが、ゲームや漫画ではないのだ。そもそも其処に見えているのだから、認識させないということ自体不可能だ。
だから正確にいえば自分の存在を希薄にするだけでなく、他の狙ったウマ娘の存在をタイミング良く誇張して見せて相対的に自分を小さく見せる。レース全体を支配するのに桜花賞に出走するウマ娘全てを操作する必要はない。群れに答えなどないとナリタブライアンを讃えたキャッチコピー、ブリッジコンプは真逆だ。最も重要なのは最後の直線ではなく最初の3ハロン、群れの中にしか答えは無かった。
全てはトレーナーが考えたこと、信用している。ブリッジコンプの足りない頭で考えたところでこれ以上の勝ち筋は見えない。だというのに、走りながらも頭の中ではアドマイヤベガ先輩が口にした言葉がこびりついて離れなかった。
トレーナーが勝つんじゃない。貴方が勝つのよ
「無理だよ」
少しだけ荒くなった呼吸で小さく呟く。ファンタジーS、阪神、ファルコンSの時でさえ、ブリッジコンプは覚醒なんてすることはなかった。領域についてはよく学び何度も体験したからこそ知っている。ブリッジコンプには一生かかっても手の届かない程遠いものだ。勝つべくして勝って、負けるべくして負けた。これでどうやってブリッジコンプが勝つだなんて言えるだろうか。
気付いたら結構時間が経っていたらしい。木々の向こうからゆっくりと光が差し込み始めて、脚を止めた。
「ふぅ……すぅーーーはぁーーー」
ポニーテールにしていた髪を解き、息を吸って、吐いて、日の光に当りながら関節を伸ばしていく。一度シャワーを浴びてからまた走るのも良いかもしれない。風邪をひかない様に気を付ける必要はあるがお湯を浴びた後に走るのは心地良い。
「ん?」
ふと後ろを振り向くと、少し離れた場所に制服を着て如雨露を持ったニシノフラワーがいた。朝早くから日課の水やりに来たのだろうけれど。今は間違いなくブリッジコンプ目掛けて歩いてきていた。
付き合う気はない。何度か話しかけられたことはあっても、直ぐに切り上げて来た。二度も敗北を刻み付けてきた相手と仲良く出来るような精神性をブリッジコンプは持っていない。なによりトレーナーからあまり関わらないように言われていた。
「あの!ブリッジさん!」
また走り出そうとして、思ったよりも大声で呼ばれてしまった。これでは気づかなかった振りは出来ないし、無視してレース前に変な悪感情を持たれても困る。仕方なく見つめ返して歩み寄る。相変わらず小さい。ブリッジコンプも相当小さい方だがニシノフラワーはそれ以上だ。だけど瞳に映るプレッシャーの度合いは阪神の時よりも増していた。
「なに?」
「その、あんまり話す機会がなかったので。今度の桜花賞も一緒に走りますし」
まあ、避けていたからねだなんて流石に言わない。
風が吹きつけて桜の花びらを舞わせる。ブリッジコンプはより一層何故ニシノフラワーが話しかけて来たのか解らなくなった。桜花賞で一緒に走る……レースにおいて常に勝者は一人、つまり敵だ。負けるのは悔しくて辛くて悲しいことだ。そんな目に合わせて来た相手と慣れ合う方が、仲良くする方が間違っている。
「えっと、とにかく一緒に、一生懸命がんばりましょうっ!」
「それだけ?」
「あ、はい」
ニシノフラワーは肩を落として落ち込んだ。セイウンスカイは仲が良いらしいから、このことを知れば後で怒るかもしれない。
「もしライバルとしてって話なら、私と貴方はライバルなんかじゃないよ。だって二度も負けてるし」
「それは、その」
格付けなんてデビューする前から、それこそ生まれた時から才能という形でついているのだ。たとえ桜花賞でブリッジコンプが勝ったところで、絶対的な差が埋まったわけではなくフロックだ。だけどブリッジコンプはフロックでもなんでも勝てれば良いので気にしていない。
「それでもっ!それでも、私はブリッジさんに勝ちたい」
真剣な口調で話すニシノフラワーの言っている意味が解らなくて。改めて瞳を合わせて漸く気づいた。
瞳はブリッジコンプを見てはいなかった。ブリッジコンプを通してセイウンスカイを見ていた。其れだけ解れば起因が手に取るように理解できる。見舞いにでも行ってセイウンスカイのことだから発破でもかけるつもりで、余計なことを言われたのだろう。
初めからブリッジコンプはニシノフラワーの眼中にない。急速に心が冷え込んでいく。
「……解った。頑張ってね」
漸く言葉を絞り出す。自分でも驚くくらい感情のない言葉。
「ま、待ってくださいっ!」
次の言葉も聞かずに走り出した。
ペースをあげて、路面に広がる桜の花びらを踏みしめる。驚いた小鳥たちが飛んでいく。シャワーを浴びようだなんて考えは吹き飛んでいた。湧き上がる感情の名前をブリッジコンプは知っている。
「負けたくない」
ニシノフラワーに悪意は無かったことが余計に心をかき乱す。フロックで良いなんて嘘だ。本当は物語の主人公の様にライバルと実力を高め合って、レースに勝ちたい。でも無理だ。差は絶対的で、どんなに頑張ってもブリッジコンプだけでは踏み台が精々だ。トレーナーが考えた策だって周りの脚を引っ張るもの。
だからせめて負けたくない。勝ちたい。
結局、授業が始まるぎりぎりまで走り続けた。
幸いなことにレースに関する授業が今日は無いため、ニシノフラワーと一度も顔を見せることなく昼休みを迎えた。今日は朝走ったというのに目はばっちり冴えていて、授業中に寝ることは無かった。
ただ勿論、ノートに描かれているのは授業メモではなくデフォルメされたサクラバクシンオーだ。個人的には良く出来ている気がするがワイスマネージャーに見られればまた怒られるので静かにノートを閉じた。
「ワイス、御飯に行こう」
「うん。でもなんか騒がしくない?」
確かに廊下の方は騒がしく、黄色い歓声が上がっていた。
「またデバガメ?どうせ会長とかだよ」
または副会長かといったところだろう。中等部の教室近くに彼女達が来る機会は多くないので、何時もひと騒ぎになる。騒ぎは段々近づいてきてがらりと扉が開かれた。予想外のウマ娘だった。
「チッ……きゃーきゃーウゼェな。ブリッジ。ちょっとツラ貸せ」
其処に居たのはビニール袋を持って制服を着たエアシャカール先輩だった。そういえばここ最近はトレーニングに顔を出していなかった。何時もはパンクファッションなので意外性があるというか、制服があまり似合っていないというか。マルゼンスキー先輩の例もあるので年甲斐もないとは流石に言わないけれど。
「あ、はい」
明らかに機嫌悪そうに額には青筋が立っているので、なんで制服なんですかだなんて言い出せそうにない。仕方なくワイスマネージャーに断りを入れて先輩に着いていく。二冠ウマ娘だし、トレーナー研修の講師をやっている先輩は良く知られているので後ろを着いていくだけで視線が痛い。
連れ出された先は学園内の人気のないベンチだった。辺りは木々に囲まれているし、こんな場所の存在をブリッジコンプは知らなかった。お昼寝マイスターのセイウンスカイなら知っているだろうか?
「おーまだあんじゃねェか。意外と残ってるもんだな」
先輩はがさごそとビニール袋を漁ると、此方に栄養ゼリーを投げ渡してくる。昼替わりなのだろうけれど、栄養重視で味はあまり美味しくはないタイプだった。とはいえ断るのもどうかと一口だけ口をつける。
うん、かなり前に一回飲んだきりだから評価を間違えていた、不味い。半分まで飲んだところでポケットに仕舞う。
「何の用でしょうか?」
「あのバカに聞かれるのもシャクだしな。まア、黙って聞け」
話があるというのなら態々こういう形でなくとも、トレーニング前のミーティングに顔を出すなりすれば良い。トレーナーには聞かせられない話、嫌な予感がする。ビニール袋から続いて取り出されたのは分厚い資料だ。
「オレの理論は最強だ。バカだってソコソコ出来るようになったが、シミュレーションの分野においてはヒヨッコも良い所だな。つってもGⅠクラスとなると、まとめるのに時間を使い過ぎた。こいつはもう要らねェからバカにやっておけ。ぎりぎりだが役に立たせられるだろ」
資料を捲れば桜花賞に参加するウマ娘達の詳細データがトレーナーが調べた以上に詳しく載っていた。踏み込みの具体的な運動エネルギーなど観察しただけでは解る筈もない。
「御託を並べるつもりはねェ。結論から言う。シミュレーションによると乱数が良い数値を出したとしても桜花賞、二バ身差で二位に終わる」
「えっと、それは、どういう」
「実力が足りねえわけじゃねェ。むしろ良く此処までバカ正直にバカに付き合った。数値的には策がはまれば六割は勝てるだろうよ。はまらなきゃ五パーセント未満だがな。だが実際にシミュレーションで走らせて見りゃ勝率はゼロだ」
「……走るなってことですか?」
負けるから。負けるから諦めろと言うことだろうか。トレーナーの師匠だから正しい事なんだろうなとは思う、でも。実力で劣っているだなんて話、今更も良い所だ。そんなこと解っているのに挑もうとする間抜けが私だ。
「違う。あのバカには言うなよ、オレの恥だからな。GⅠレースには『運命という名の魔物』が棲んでいる。どうしても届かなかった七センチ。オレはあのダービーでそんなモノに負けた」
エアシャカール先輩は二冠ウマ娘。落とした冠は日本ダービー、アグネスフライトに対して僅か七センチ差の敗北は今でも語り継がれている。確かにロジカルを重視する先輩に偶然の敗北というものが存在するのかというのは疑念が残る。
でも運命などという突拍子のないものを言われても理解が追いつかない。初めから負けると解っているならレースに出る意味なんてない。
「てめェは難しいことを考えたって意味がねェ。どうせ理解できないからな。ただ一つ、覚えておけ。
『運命という名の魔物』に唯一勝てる可能性があるのはトレーナーじゃねェ。走るてめェ自身だ」
ブリッジコンプ自身が勝つ。アドマイヤベガ先輩も似たようなことを言っていた。凄いウマ娘が二人も言っているのだから正しいのだ。だからと言って「はい、解りました」なんて頷いて実行できる様な、純真ではないのだ。
「話すことはそれだけだ。桜花賞、観に行くぜ」
言うべきことは言い終わったとばかりにエアシャカール先輩は去っていった。誰も彼も勝手ばかり言う。一番ブリッジコンプを信用していないのは、自分自身だった。
感想有難うございます。