光がそこにはあった。海の底でブリッジコンプは揺らぐ光を見上げる。口の端から生まれた気泡がふわふわと空に登っていく。不思議と恐怖や苦しさはなくて、どこか安堵があった。見上げている間にも、沢山の星々が瞬いてゆっくりと昇っていく。
次々と星々が色とりどりの魚にかわる。魚たちの群れがぐるぐると回って空の海の外へ向かった。
行かなきゃ。拾った黄金の光を大事に抱えて、ブリッジコンプも空へ向かって水を蹴り上げた。
強い光に眩んで、目をしばたたかせる。
「……きて。起きてください」
目覚めた時、目の前にあったのはライブ衣装を着たニシノフラワーの顔だった。あどけなさの残るキラキラとした笑顔を浮かべていて、負けたんだと解った。白い世界で隣を走るニシノフラワーの輝きはブリッジコンプに比べてとても眩しかった。勝てなかったのも当然だ。
ただ、結局トレーナーを裏切ってしまった。
瞼を瞑って込み上げてくる熱を抑え込もうとして、失敗する。喉がぎゅっと締め付けられるような感覚。擦った手の甲に化粧が滲む。これで夢は閉ざされた。ブリッジコンプというウマ娘の底が知れた以上、もう勝てないことくらい解っている。
嗚咽を零す間、ニシノフラワーは優しい顔でブリッジコンプを見ていた。何時もなら暗い感情が浮かんだ筈なのに不思議とそうはならなかった。泣きはらして、少しだけ落ち着いて、聞くべきことを聞く。
「ずっ……その、ライブは、終わった?」
「いいえ、大丈夫です。ああでももうあまり時間がありませんよ!急いで着替えてください」
安堵のため息を一つ。トリプルティアラでのみ歌うことが許される『彩 Phantasia』。残念ながらセンターではないけれど、あんなに練習した意味はあった。トレーナー達は多分今頃、ライブ会場に居るのだろう。
流石にシャワーを浴びている時間はない。汚れた勝負服を脱ぎ捨てて、手伝って貰いながら差し出されたライブ衣装に着替える。良く寝たからかあまり疲労は感じなかった。涙で滲んだメイクは直してもらえるだろうか?
「それに主役がいないと始まりませんからね」
「え?」「へ?」
どういう意味か解らなくて鏡写しのようにブリッジコンプとニシノフラワーの首が傾く。フリーズしている間に、医務室にプロデューサーやらチーフディレクターやら音響担当やら、勿論美粧師も飛び込んできてライブの打ち合わせが行われた。本当にぎりぎりまで待ってくれていたらしい、間もなく気づいたら舞台袖に立っていた。
どうやらブリッジコンプが桜花賞に勝った、と認識するのには時間を要した。
頭が真っ白になって歌詞を思い出すことも出来なかったのに、舞台袖から観客席の最前列を見た瞬間、緊張が解けてしまった。一番最前列でトレーナーが目立っていた。始まる前から大号泣、応援団扇と金色のサイリウムライトを手に鉢巻と法被。トレーナーの隣にいるアグネスデジタル先輩と瓜二つだった。
なんだか気が抜けてブリッジコンプは勝ったことを受け入れた。最高のライブだった。沢山のファン達が金色のサイリウムを振って祝福してくれた。
ホテルでトレーナーが出走前から隠れて準備していた小さなパーティーを行って、ゆっくり休んで翌日にトレセン学園に帰った。同級生達から祝福の言葉を貰い、道を歩けば多くの人が写真やサインを望んだ。書きなれていない拙いサインは少し恥ずかしかったけれど嬉しかった。
それから。
それから……。
「次のオークスも期待していますね!」「桜花賞おめでとうございます、トリプルティアラを目指しますか?」「ファン投票絶対にいれます」「また勝つところがみたいです!」「きらきらしてお姫様みたいだった!頑張って!」「次は負けませんよ!」
次、次、次、次、次、その次は?
祝福は次第に重圧へと変わった。ブリッジコンプに次なんてないのだ。走る才能がないなりに全てを出し切って、漸く届いたGⅠという頂。本当に最高の瞬間だった、味わえるならもう一度味わいたいと請い願う程に。でも、もうまた走ったところで期待には応えられない。
トレーナーに言われた訳でなくとも見えている。無理なものは無理だ。届かないと解っているのに挑めるほどブリッジコンプは強くない。
降りかかる期待が重くて、同級生にだって会いたくなかった。だからこうして一人。授業をさぼってチーム棟の部室で、新聞をめくっている。写真に写っているのは信じられないくらい満面の笑みで優勝カップを受け取る自分の姿。五日前の自分の姿だった。
心なしか目も鋭いから勝気くらいに抑えられていて、今のブリッジコンプとは全然違う。
溜息を吐き出してパイプ椅子から立ち上がる。此処にいたところで、生徒会の誰かがブリッジコンプを探しに来て捕まるだろう。今は説教なんて聞きたい気分ではなかったし、脱走しかない。
部室には色々な私物が月日が経つごとに置かれていって、着替えや変装用の道具もあった。制服から私服に着替えて、瞳の色を誤魔化すためにナイスネイチャと一緒に買ったサングラスをつける。後はキャップを被れば髪は隠れなくても印象はがらりと変わる。存在感が強くないから知り合いでもなければブリッジコンプだと気づくことはない。
部室を出て、人影を気にしながら正門へ。空は曇り空で、最近は雨が降ったり止んだりする嫌な天気だった。当然正門は閉まっていても、ウマ娘にとって脱柵は容易いことだ。軽く助走をつけて飛び越える。後ろを振り返っても追跡されている様子は無かった。
「まずはお勧めされたケーキ屋さんに行って、映画を見て、カラオケに行って、それから」
それから、次は?
ぶんぶんと頭を振って嫌な考えを追い出す。とりあえず駅の方に歩こうとして、目の前に勢いよく黒塗りの長いリムジンが止まった。こんな車を使うのは知り合いには一人しかいない。案の定、窓が開いて青いドレス姿のファインモーション先輩が顔を覗かせる。
「こんにちは。ブリッジちゃん、今暇ならちょっと付き合ってよ。おねが~いっ♪」
「いや、あの」
断る理由を探している内に車内に引っ張り込まれ、発進してしまう。氷の入ったバケツにはワインボトル。高級そうな革張りの椅子で庶民的なブリッジコンプは汚さないために出来るだけ身を縮めた。強引なウマ娘なのは知っていたけれど、あまりにも急すぎる。
「これから何処に向かうんですか?」
「実はお願いされて大使館公認予定の料理店の試食に行くことになったんだけどね。ちゃんと全部味わいたいけど、とっても量が多いみたいだから困ったなーって」
そういえばと思い出した。ラーメンが大好きで、模擬レースでボコボコにしてくる印象しかないけれど、ファインモーション先輩は立派な親善大使である。意外とこうして業務をしっかりこなしているのだ。だからといって巻き込まれる筋合いはないのだけれど。
「それにお仕事に付き合うなら授業お休みしたこと、怒られないと思うよ」
「……そうですね」
見透かされていた。トレセン学園から出たかっただけで、別に遊びたかったわけではない。説教と反省文がないのなら先輩に付き合う方が良いかもしれない。どうせもうこの状況になった時点で、先輩が逃がしてくれるとは思えないし。
ブリッジコンプが諦めたのを確認して、ファインモーションは厳格な口調でSPに話しかけた。
「ブリッジコンプは新規気鋭の桜花賞ウマ娘であり立場も十分。宜しいですね、隊長」
「殿下はいつも心臓に悪いことをなさる……仕方ありません。あの男の担当というのは良くありませんが、ブリッジコンプ様に罪はありません。素行調査に多少の問題はあっても許容範囲内ですから参加を認めましょう。ドレスアップは向こうで行って頂きます」
話を聞いていれば随分とトレーナーは嫌われているらしい。ブリッジコンプの知らない研修時代の話、随分やんちゃだったらしいけれど、やっぱり今からは想像がつかない。
「そういえばブリッジちゃんはなんでお休みしたの?」
ブリッジコンプに話しかけるファインモーション先輩の口調は戻っていた。仮面をつけているというわけではなく自然と使い分けているらしい。意外な一面を見てしまった。立場を考えれば当然かもしれない。
「別に、なんとなくですけど」
思わず口をついて出た冷たい言葉に先輩は気にした様子もなく、そっかと笑った。
「でも話せるときに話しておくべきだよ。離れ離れになっちゃったら、勿論電話は通じるけど向かい合っては話せないからね」
対応を間違えたと解った。引けば引くほど先輩は押しまくるタイプだ。遠慮した風を装いながらも、先輩は逃がしてくれるつもりはないようだった。完全に聞く姿勢で此方とじっと瞳を合わせてくる。気まずくなって目を逸らす。
「先輩は。先輩は勝てないと解っていても走ったことはあります?」
「いっぱいあるよ」
「へ?」
どうせ肯定しないだろうと思っていたのに、アッサリ頷かれてしまった。
「私にとって本当は1600m、短すぎるんだ。トレーナーさんは私を態と焚き付けるためにバクシンオーちゃんと走らせたのかな?……どんどん帰国が近づくにつれて、焦って兎に角レースに出たいってトレーナーに出れるならなんでも良いってお願いしたの」
先輩の戦績は当然調べた。1600m、GⅡ阪神カップでは勝った。けれどもGⅠ安田記念では13着、GⅠマイルチャンピオンSでは9着。今の先輩を見れば世代交代でないのは確かなのに、走りは月日が出るごとに精彩を欠いていく。領域はウマ娘の心そのもの。映像では、城の中の飢えた獣は今と違い鎖に繋がれていなかった。
「結果は応援してくれる皆に情けない姿を見せちゃった。でもね、後悔はしていないんだ」
「負けたら意味なんてないのに」
「意味か。本気で走ることの素晴らしさを知らないのは悲しい事だから、ブリッジちゃんに教えなかったトレーナーさんは後で怒らないと。
でも、ブリッジちゃんはまだ勝ちたいって思ってるよね?負ける意味は解らなくても、走る意味はそれだけで十分だと思うよ」
「そんなの!」
詭弁だと思った。勝ちたいと思っても負けると解っているからブリッジコンプは走れないのだ。声が自然と荒いで、でも窓ガラスに映る自分の瞳みたいに、此方を見透かす黄色い瞳に黙り込む。先輩はふざけているように見えて何時だって本気だ。
「心配しなくても平気だよ。ちゃんとブリッジちゃんは走れるから!」
意味が解らない。話すべきことは話したとばかりに、にこにことした笑みを浮かべる先輩に再度ため息を一つ。心のざわつきを抱えながら、車は無事に目的地に到着した。駅近くで、普段のブリッジコンプなら絶対来ないような洒落た雰囲気のレストラン。
既に店で待っていた黒服の人からドレスを受け取って車の中で着替える。体にぴったりな青のドレス。確かにアスリートとしてスリーサイズや身長は公開しているものの複雑な気分になる。あと気になるのはファインモーション先輩とペアルックなところだろうか。
「うん、よく似合ってる♪」
「はい、ブリッジコンプ様。お似合いです」
「……複雑な気分ですけど、有難うございます」
黒服の一人に手を取って貰って店の中へ。入り口は段差になっていて、その分だけ外観よりも広く感じる。入って感じたのはチーズの匂い。壁はアイルランド国旗の緑、白、橙に塗られていた。上には美しい絵画が幾つも並べられており、装飾に比べて椅子や机は武骨な造りだった。
「祖国は十九世紀に伝染病が原因で大きな飢饉が起こってね。貧乏になっちゃって、椅子や机も装飾を施す余裕もないほどだったの。今ではそんなことなくてただ伝統ってだけだけど。
ああでも、食文化は安心してね♪コルカノンにシェパーズパイ、美味しいものがいーっぱいあるんだから!」
勿論挙げられた名前の料理なんて知らなくて、口をもごもごさせる。結局なにか言うこともなく、されるがままに引かれた椅子に座った。
「食前酒はいかがいたしましょう?」
「ブリッジちゃんは飲んじゃ駄目だからね!私はそうですね」
「頼まれても飲まないです」
コースメニューではなく全メニューが持ってこられるらしい。ただウマ娘が食べきれない程ではなさそうで先輩がブリッジコンプと話すための言い訳に使ったのが解った。シェフがきてあれやこれやメニューを読み上げられるけれど、勿論殆ど解らない。ブリッジコンプが主役というわけでもないし、詳しい説明を聞くのも憚られる。
シェフが下がって、ブリッジコンプは意趣返しするつもりでさっき気づいた嘘を指摘する。
「さっき言ってた走って後悔したことないって嘘ですよね」
だというのに先輩は何処までも楽しそうに笑った。
「うん♪本当は一度だけ後悔したことがあるよ。凄くドキドキして、とっても楽しかったけれど、シャカールの心を晴らしてあげることは出来なかった。でもブリッジちゃんは走って勝って成し遂げた。凄く羨ましかった」
「そんなの私に背負わせないでください」
「期待ってそういうものでしょ?だから、ブリッジちゃん自身は信じていなくても。私はブリッジちゃんがまた勝てるって信じているよ♪」
言葉に詰まる、皆勝手だ。ブリッジコンプが勝ったところで他の誰にも得なんてないはずなのに、その分だけ敗者が生まれるだけだというのに。勝手に期待して、勝手に願って、勝手に背負わせる。グラスに映る黄金の瞳はブリッジコンプをじっと見返した。
今はトレーナーと話がしたかった。
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次回本編完結です。良いお年をお迎えください。