走る。
走ることが嫌いではない、しかし好きでもない。他のウマ娘達は走ることが好きだという。受け継いだ魂に導かれるようにひたすら走ることを望む。それは本人が走ることが好きなのか、生物として走ることが好きになるように生み出されたのか。
息が荒れる。
ブリッジコンプは、自分でもおかしなウマ娘だと思う。走ることが特別好きではなかった。ブティックを見て回ったり、スイーツを食べたり、化粧品のカタログを見たり、俳優が載った雑誌に憧れる方が好きだった。ならばそういう道を行けばいい。
フォームが崩れる。
年にウマ娘は一万人近く誕生する。そして、地方と中央を合わせて、年に六千から七千近いウマ娘が一度はデビューを夢見る。メイクデビュー、あるいは未勝利戦に勝てるのは三千人ほど。つまり、認識より遥かに多くのウマ娘が、人となんら変わらない普通の生活を送っている。
もつれそうになる脚を少し大股で踏み出して持ち直す。孤独だ、共に走る相手がいない。ペースが掴めない。
しかしブリッジコンプはそのような当たり前ではない道を選んだ。絶対に勝つという鋼の意志があるわけではない。十三年間の人生で自身より格上の同世代の存在を、いやというほど思い知った。凄く速いと思っていた母親がGⅢ一勝をして、あとの重賞は惨敗したことを知った。
残り100m、ようやく見えた距離を表すテープ。走れるか?届くか?届かせるんだ。
二次性徴を迎える前からブリッジコンプは良すぎる目が故に敗者だった。だから、勝者になりたかった。普通のウマ娘は走ることが大好きで、レースも大好きで、そして徐々に自分と周りの速さの違いに気づいて、走ることを辞めていく。ブリッジコンプは最初から敗者だったためにその段階がなかっただけだ。
やけにゴール地点に置かれた幟が遠く見える。
そして結局、他のウマ娘と僅かな意識の違いだけで、中央というエリートの一員に組み込まれていた。
「あああああああああああああああァア!!」
不格好な咆哮を上げて、ターフを抉る。嘘だ、もう強い踏み込みが出来る脚も残っていない。今走ればトレーナーにすら負ける自信がある。滝のように流れ落ちて、落ち切って水分のごくわずかでも残っているか怪しい体を酷使する。
よたよた歩きでゴールラインを超えると、気が抜けたのか脚がもつれる。もう立て直す力も残っていない——それを細いながらも力強い腕が支える。素朴な花の香り、本人は香水など使うタイプではないだろうから、自然とそういう匂いを纏っているわけで。汗をかくと普通に臭くなる自分と比べて少し羨ましくなる。
「お見事ですッ、ブリッジさん!流石私の心の友、これは私も負けていられませんね!」
サクラバクシンオーはゆっくりと私をターフの上に寝転がらせた。
短距離、マイル、中距離それぞれのタイムを測って適性を確認したあと、トレーナーは私に芝3000mを走るように言った。おかげでこのザマ。既に同じことをしたサクラバクシンオーは走り終えた後、バテていたものの既に立ち上がれるくらいには回復しているのだから理不尽を感じる。
寝転がっていると、横になった視界にスニーカーを履いた脚とヒールを履いた脚が近づいてきた。見上げるとトレーナーが、2リットルペットボトルを手に近づいてくるのが見えた。彼の残された片手にはタブレットがあって私たちのデータを記録しているのだろう。その傍には駿川たづなもいる。
「お疲れ様、飲めるかい?」
残念ながら指一本動かせそうにない。首を振ると、少し笑ってトレーナーはペットボトルの口を開けて、私の口元まで運んだ。ごくごくと喉を鳴らす。口に入りきらなかった水がターフの上にも零れ落ちていく。それから口にトレーナーは飴を押し込んだ。
塩辛いそれは汗ととともに失った塩分を体に補給してくれる。ターフの上なので芝のためにスポーツ飲料を飲んではいけないのが、面倒だった。
「うん、喋るのも辛そうだからそのままで構わない。無理をさせたね。ラップタイムを指定したわけでも、条件をつけたわけでもない。でも本来このようなことは君たちウマ娘にやらせるべきではなかった。脚に負荷をかけさせる行為だ。ただ俺は未熟だから、自分の眼でなければ君たちの限界を確かめられなかった」
軽いジョギングでも構わない、好きなように走れ。そうトレーナーは言った。そこそこの甘いペース配分で走り出したのはブリッジコンプが勝手にやったことだ。3000mなど走ったことがないため甘い見積もりは当然失敗し、普段よりかなり遅い走りにも関わらず2000m地点以降でバテていた。
ちなみに、サクラバクシンオーの場合は、1500mを全力疾走してその場で逆噴射。よたよた歩きの末にターフの上に寝転んだ後、休息し再び走り出して走りきるという豪快な展開だった。果たしてそれは芝3000mを走りきったといえるのかブリッジコンプとしては疑問である。しかも、ブリッジコンプよりタイムがいい。
理不尽だ。
「ただ必要なことだ。サクラバクシンオーは……目標もあるから走ることに意味がないとは言わないけれど、ブリッジ、君には明確な意味がある。単純に言えば君のフォームを完全に破壊するために走らせた。明日からはタイムも落ちると思うよ」
なんのために?そう疑問の念を向ける。
「単純な話だよ。君の走り方、多分両親から教わったか、あるいは生や映像を見て学んだね。そうあれだ、中盤まではプリティキャストの走りに少し似ている。最後の加速しようとするところはマルゼンスキーかな?よく観察できているし真似ているね。
でも君の走り方じゃない。君の走りはこっちが近い」
トレーナーがタブレットを見せてくる。そこに映ったのは芝3000mの最後の方、躓きかけた一歩で持ち直そうとしてフォームが完全に崩れた後の走りだった。不格好で、首は完全に下がっていて、端的にいって美しくない走り方。
「近いだけで勿論これではない。スタミナが切れきった後だからね。君は目が良い、とても良い、それは唯一無二の才能だ。だが同時に君の負荷になっている。上手い完成された走りを真似すれば、それは確かに速いよ。けれど成長性がない。走法に引っ張られて、自分の限界をそこで止めてしまっている」
トレーナーはタブレットを操作して、次々とブリッジコンプがでた模擬レースや、撮られていた一瞬の練習風景を見せてくる。そしてマルゼンスキーなどの走り方とそれの類似点を次々と挙げていった。研究されている。ブリッジコンプの種も暴いて見せた。
よく見ればトレーナーの眼の下には隈があって、肌の色とほとんど同じファンデーションで隠しているのがわかった。
「模擬レースからはそういう様子が見てとれた。君の目のよさは……多分自分で気づいてるよね?」
頷く。才能あるいは魂を見抜くことは理解されていないし、話しても信じてもらえないだろう。けれど目の良さはたった一日で看破されている。ようやく体力が回復し始めて、体を起こしてターフの上に座る。まだ息が上がって、心臓はばくばくと大きな鼓動を止めない。それでも真剣に話を聞く準備が出来た。
「目が良すぎることは今のところ短所だ。走法もそうだし、よくスタートで出遅れている。周りが気になりすぎるし、群れに呑まれれば注意力が霧散してそのまま沈む。だがそれでも勝つ時は勝つ、目が良いから同じ逃げ戦法がいるときに最適な位置につけるからだ。特にバクシンオーなど上手い逃げと走る時に良いタイムがでる。そうだろ?バクシンオー」
「はいッ!ブリッジさんは私と走るときにバクシンしますッ!だから学級委員長の私の心の友なのです!!」
成程、そういう理由でサクラバクシンオーはブリッジコンプのことを気にしていたのか。自分と走るときに特別良い走りをする子がいれば、ブリッジコンプも同じように思っただろう。とはいえ、ベストが仮に出ているとして、それでサクラバクシンオーに負けてるのだから世話がない。
「とはいえ、君の目を欠点ではなく利点にするのは俺の手腕にかかっている。初めての試みだが、どうせ元よりトレーナーとして新人なんだ。手探りでいくしかない。六月のメイクデビューまで約二か月、間に合うかどうかはわからない。体も鍛え上げるが、どちらかというと今年の下半期とクラシック路線へ向けた育成だ。そういう方針なんだが、……大丈夫だと思います?駿川さん」
急にトレーナーの言葉は自信をなくした。ブリッジコンプ自身も手探りなら、トレーナーも手探り。上手くいく保証もなく仕方のないことだ。とはいえ、とはいえだ。駿川たづなの存在はブリッジコンプにとって少しだけ気に入らない。
駿川たづなはトレーナーがサクラバクシンオーも担当することになったから着いてきた。つまり、サクラバクシンオーがそれだけ特別視されていて、視線の色からすればトレーナーにも特別視している。そしてブリッジコンプはオマケだ。
とはいえ声を大にしては言わない。理事長秘書相手に目を付けられるわけにもいかないし、それだけ優秀なのもわかっている。ただブリッジコンプ自身の心に折り合いがつかないだけだ。
「ええ、そういう方針でしたら問題ありませんよ。問題があれば此方から指摘しますのでどうぞ、自由にご指導をお願いします」
「はい。ありがとうございます。それじゃあ立てるかい?」
手汗が気になったが、大人しくトレーナーの手を取って立ち上がる。軽く芝を蹴ってみるが違和感はなかった。勿論疲労困憊なので、これからまた走り出せるわけではない。軽く屈伸と、前屈をして足をのばした。
「ふぅ……、よし。頑張ります」
「あと借りられる時間は十五分もないか。バクシンオーもブリッジも時間が終わるまで腿上げで並足しようか。互いに意識してきちんと足が上がっているか確認すること。ついでに俺も近くで見たいし軽く走るか……まあ、流石に腿上げは付き合わないけどね」
「はい!」「わかりました!トレーナーさん!一緒にバクシン!バクシーン!」
「バクシンしないよ。並足って言ってるでしょうに。駿川さんは申し訳ないですが今日の記録入力をお願いできますか?それとカロリー計算ですね」
トレーナーは駿川たづなにタブレットを渡して自らも軽く屈伸する。ウマ娘の並足は人の歩く速度より若干速い。十五分となれば人間にとってそこそこの負荷のはずだ。他のトレーナーもこうしてトレーニングに付き合おうとするのだろうか?
「よし行こうか。俺、バクシンオー、ブリッジの順に十歩ずつ交代で掛け声を頼む」
ブリッジコンプもサクラバクシンオーも疲労困憊で、かつ腿上げということもあってトレーナーに必死になりながら着いていく。無論無理をすれば腿上げしながら、トレーナーのことを追い越せる。しかし、サクラバクシンオーは意外なことにしっかりとトレーナーについて行っている。トレーニングに関して文句ひとつなく忠実に行っている。
学年もかけ離れているし、廊下を全力ダッシュしていつもエアグルーヴ先輩に追い掛け回される頭の弱い学級委員長という印象しかなかった。だがひたむきな努力の姿勢、才能におごらない走りはメジロ家のような気品を感じさせ、サクラバクシンオーの印象が揺らいでいた。
「バクシン!バクシン!バクシンシーン!バクシン!バクシン!バクシンシーン!バクシン!バクシン!バクシンシーン!」
いやおそらくどちらも正しい。なにせ自分で変な掛け声をし始めたのに、数がわからなくなってもう十以上数えている。そして十五で唐突に口を閉じてブリッジコンプにバトンタッチしてきた。仕方なく六番から開始すると怪訝そうな顔で見てくる。
「こそこそ、ブリッジさん。優秀な私ですから教えてあげますが、数を間違えていますよ」
私はバカにされているのか?
トレーニングはそうして終わった。その頃には遠慮がちにターフの上に他のウマ娘たちが現れだした。逆スカウトによってブリッジコンプもサクラバクシンオーも出走をやめたが、多くのウマ娘にとっては今日が選抜レースである。開始までまだ時間はあるものの、いてもたってもいられず来てしまったということだろう。
彼女たちの気持ちもわかるので、トレーニングを終えるとすぐに柔軟を終えて更衣室に向かった。シャワーを浴び、着替える。すでに更衣室の中もウマ娘達が多くいて、中には私たちに不躾な視線を送ってくる子もいた。
そこには新人トレーナーという未熟者を逆スカウトしたことに対する嘲りと、トレーナーを捕まえたことに対する嫉妬と不安だ。昨日の食堂の騒ぎはちょっとした噂になってしまったようだ。まだ選抜レース前のため、視線は強くはないものの何れ本格化しだすだろう。少なくともここにいる二割はトレーナーが見つからない、そして夢は断絶する。
少しだけほの暗い優越感を抱く。卑屈な自分の嫌な部分だ。
「バクシンオーさん、トレーナーは多分待っているだろうし早めに行こう」
「わかりましたッ!超特急で着替えます!」
後ろの視線を振り切って更衣室を出ると案の定、トレーナーがいた。駿川たづなはいないが、その周りには数人の同期のウマ娘がいて彼と話している。トレーナーもウマ娘も双方がこちらに気づくと、遠慮がちにウマ娘たちは入れ替わりで更衣室の中に入っていった。
「どうしたんです?」
「ああ、多分俺に保険を掛けに来たんだと思うよ。トレーナーが見つからないのは中央のウマ娘にとっては死活問題だからだろうね」
逆スカウト?もしかしてブリッジコンプとサクラバクシンオーが成功したから、トレーナーが押しに弱いと思われているのだろうか。勿論そういう面があることは既にわかっているし否定しない。逆スカウト中にサクラバクシンオーにも横やりを入れられて、もう今は受け入れている。しかし、三人になればトレーナーの負担は激増するし、それぞれにかける時間も減る。
なにより……トレーナーは私のトレーナーだ。保険じゃない。
「私の方から粉をかけないように言っておきますね」
「うん。うん?ああ逆スカウトをしないようにって話か。流石に俺もこれ以上は担当を増やす気ないからね。それとなく伝えておいてくれると助かるよ」
自然と口元に笑みがこぼれて頷いた。
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